教育基本法という法律に、「教育の目的は人格の完成にある」という意味合いの言葉があります。「目的」や「完成」という言葉が頭に引っかかりました。というのも、「世の終わり」(9節)と翻訳されているギリシャ語テロスに、「目的」「目標」「完成」という意味もあるからです。9節末尾の一文の逐語直訳は、「しかし、すぐにではない、かの終わり/目的/完成は。」です。
終わりというと随分否定的に聞こえます。しかし、目的/目標/完成というとかなり肯定的に聞こえます。世の終わりと聞くと、世界が滅亡するイメージが与えられます。世の完成と聞くと、世界が成熟するイメージが与えられます。このテロスという単語をどのように訳すかで、言いたい内容はがらりと変わります。
脇道ですが、テロスの翻訳が劇的に変わった一つの例は、ローマの信徒への手紙10章4節です。以前の口語訳聖書は「キリストは律法の終わり」としていましたが(英語訳のRSVもend)、新共同訳聖書は「キリストは律法の目標」と訳しました。かなり印象が異なります。
ともかく申し上げたいことは、終わりには完成という意味合いが含まれるということです。たとえば、一人の人の人生を考えてみてはどうでしょうか。その人の人生の終わりには、その人の人生の集大成という意味もあることでしょう。決して否定的な意味だけがあるのではありません。死は完成でもあります。
もちろん死を美化することは許されません。それはヤスクニ思想と同じです。わたしたちは何としても生きなくてはならないし、生きることに理由は不要です。しかし、その一方で覚えておかなくてはならないこともあります。生まれた時から人間は死へと向かっているということです。そのために人間は成熟へと生きなくてはいけません。人格の完成を目指して一日を誠実に生きなくてはいけません。いつ死ぬかはわからなくても、その死の時が「その人の完成」だからです。教育は生涯教育でもあります。
イエス・キリストのことを思い起こしてみましょう。わたしたちは毎週主の晩餐で、イエスの死を思い起こし告げ知らせています。十字架上の処刑で人生が終わる。すべては終わったのですが、同時にすべては成し遂げられたのです。十字架で殺されたことで、飼い葉桶に寝かされた赤ん坊であったことや、ガリラヤで苦しむ人々と共に生きたことの集大成が明らかになりました。イエス・キリストという神の子の人生の完成がそこにあり、その姿を見て、ローマ帝国の軍事官僚も「本当にこの人が神の子だった」と信仰告白をするのです。十字架は隣人愛の極みであり、神への誠実の極みでした。
終わりは完成でもあるということは、人生だけではなく、物に対しても、また歴史に対しても当てはまります。
エルサレム神殿という荘厳な巨大建造物がありました。当初はそんなに大きな建物ではありませんでした。建築工事に5年かけて紀元前515年にユダヤ人たちが建てたのです。いわゆるソロモンの神殿(7年かけて紀元前950年に建立)の真似をして建てたと言われています。ただし、ペルシャ帝国の支配下にあったユダヤ人たちが、当局の許可を得て建てたものだったので、昔の神殿の豪華さを知る老人たちは、より貧相な「第二神殿」について嘆いたとも言われています。
小さな第二神殿を大きく増改築したのはヘロデ大王です。クリスマス物語に登場するユダヤ王です。この人はローマ帝国に取り入ることが上手でした。また自分自身もローマ市に留学し、ローマの建築技術を学んでいました。そこで、自分自身の求心力を高めるために、エルサレムの第二神殿の増改築をするという一大国家事業を始めたのでした。この増改築されたエルサレム神殿を、「ヘロデの神殿」と呼びます。その見事さは、当時の地中海世界全体に褒めたたえられていたとも言われています(5節)。
紀元前19年に始めた、この工事はヘロデ大王一代だけでは完了しませんでした。彼は紀元前4年に死去します。結局完成するのは紀元後64年です。足掛け83年の建築工事です。十字架・復活・聖霊降臨(教会の誕生)が、紀元後30年か31年ですから、福音書や使徒言行録に登場するエルサレム神殿は、ずっと工事中の神殿だったということになります。そして皮肉なことに、完全に完成した直後の紀元後70年に、神殿はローマ帝国によって徹底的に破壊され、一つの石も他の石の上に残ることのない状態、要するにすべての石がばらばらの状態にさせられてしまいます(6節)。
すべて人間が作った物には終わりがあります。壊れたり、壊されたり、劣化したりするものです。それはその物の歴史的使命の終わりです。そして同時に歴史的使命の完成でもあります。
建物としてのエルサレム神殿の破壊は、神殿という物の持っていた役割の終わりであり、完成でもあります。ある種の目的を果たしたので、もはや不要となったのです。それはわたしたちの信仰に関わることです。神への信仰にとって、神殿は一定の役割を果たしていましたが、紀元後70年からは完全に不要となったのです。その役割とは、「神殿に行くと神と出会ったという感覚を得る」というものです。神殿が生ける神の家であると信じられていたからです。神殿は、人々の神信仰を育みましたが、副作用もありました。エルサレム神殿だけに神が住むという誤解や、神殿という物をありがたがる迷信です。
キリスト信仰は、復活のキリストが信者のうちにいつも住み、キリストの霊が信者の交わりの中にあるというものです。キリスト信仰が生まれた今、物としての神殿は歴史的使命を終えているのです。一人ひとりが、またこの交わりが、神殿(神の住まい)であるからです。イエスがエルサレム神殿の崩壊を予告したことは、わたしたちを誤解や迷信から解放させるためです。確かにわたしたちの教会の建物は「教会風」ではありませんが、信徒一人一人の中や、この交わりの中に確かに生ける神がいます。そのことを否定してはいけません。
終わりが完成であるということは、物に対してだけではなく、歴史に対しても当てはまります。世界は成熟へと向かっています。その進み方は螺旋階段を登るように、行ったり来たりしながらですが、しかし確実に世界は上に伸びて成長し、完成を目指しているのです。
仏教の「末法思想」とは少し異なります。「世も末だ」という嘆きと共に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の場合は、世界の終わりにメシアや神の到来を希望する信仰が発達しました。終末信仰・終末論などと言われます。メシアが来るときに歴史が完成するという信仰です。
天変地異のような天災が起こり、戦争・暴動のような人災が起こり、人々が救世主を待ち望む。そこに突然メシアが到来するという図式が、世の終わりのイメージではないかと思います。「最終戦争」なるものがあって、それを経てメシアの側につく信者だけが救われるという歴史の見方です。熱狂的終末論は歴史上時々しかし絶え間なく起こりました。そして破壊的カルトにも利用されてきました。1994年から1995年にかけて起こったオウム真理教のサリン散布による殺害は(阪神・淡路震災もその最中に起こった天災)、わたしたちに熱狂的終末論への反省を促しています。たとえば、わたしたちが「西日本豪雨災害を世界の終わりの前兆」などと神学的に位置づけても、被害に苦しむ人は誰も幸せにはなりません。そのような神学が問われています。
イエスの弟子たちも、当時の多くのユダヤ人と同じく熱狂的終末論を信じていました。神殿崩壊の予告は、世の終わりの前兆の予告のように考えたのです(7節)。イエスの教えは世界の終わりを否定はしていません。しかし、世の終わりのイメージを変えるものでした。世界は突然終わるのではなく、徐々に完成されていくのです。少し入り組んだ発言なので、整理すると8-11節の趣旨は次のようにまとめられます。
「戦争や暴動は世界のどこかで起こるものだ。ユダヤ人もローマ帝国に敵対し暴動を起こし、ローマはユダヤに戦争を起こし神殿を破壊する。どこかでは地震、飢饉、疫病が起こるし、天災もある。しかし、惑わされるな。『(メシアは)わたしである』とか、『かの決定的な時が近づいた』という言葉に騙されるな。前兆なるものはない。終わり/完成は、すぐにではない。」
わたしはイエスの発言に、熱狂を煽ることへの批判や、熱狂的に煽られることへの批判をみます。何があっても、惑わされるな・おびえるな、むしろ『わたしはある』という姿勢で生きよと、イエスは言っています。
歴史はどのようなかたちで徐々に完成されていくのでしょうか。一つ目に、戦争をやめ、戦争のことを学ばないという方向で、徐々に歴史は目標に向かっていきます。戦争や紛争や、暴動が起こり続けている限り、世界の終わりは来ません。未完成だからです。
世界の完成を目指す日々においては、「主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」(ミカ書4章3節//イザヤ書2章4節)。
歴史を完成させる道のりの二つ目は、人災の撲滅にあります。人間が生み出す「飢饉や疫病」(11節)が起こり続けている限り、世界の終わりは来ません。未完成だからです。南北問題は南半球への恒久的な飢饉・疫病のおしつけです。この解決は、歴史の目標です。
天災は人災と組み合わさる場合があります。神戸の長田地区には昔から貧しい人びとが住み、古い木造住宅が密集し、また路地も狭いままだったために、消防車も入ることができませんでした。そのため長田地区は、1995年の震災で大被害を出した地域となってしまいました。わたしは原子力発電に反対ですが、百歩譲って原子力発電所を動かす場合には、全電源喪失・地域住民避難という事態を最低限想定すべきだったと思います。ここにも人災の要素があります。
仮に災害が起こっても、誰も死なないで済む町づくりが必要です。そして物的被害を被った人々が、安心して生活を立て直すことができる保障の整備が必要です。これも人間の歴史の目標です。
わたしたちは人間同士の殺し合いという課題と、人間同士がお互いの幸せを実現させていないという課題について、未解決・未完成のままです。世界の完成は「すぐに」ではありません。むしろ「徐々に」です。わたしたちは螺旋階段を、共にゆっくりと登っていかなくてはいけません。惑わされず、怖がらず、確実な足取りで完成を目指すのです。
今日の小さな生き方の提案は、節目を大切にすることです。物事には必ず終わりがあります。そこに完成、新たな始まりもあります。一歩一歩を完了させながら、螺旋状であってもわたしたちの人生は必ず前へ進んでいるのです。聖霊の宮としてイエスと共にあり続け、神の国の完成・目標を目指してお互いを尊重する世界の実現のために働きましょう。完成はすぐにではなく徐々にです。