人の子が来る ルカによる福音書21章20-28節 2018年8月5日礼拝説教

本日の箇所についてルカ福音書は、元となるマルコ福音書13章14-27節の内容を大幅に改変しています。改変部分は、マルコ福音書に対するルカの教会の応答です。ルカ福音書が書かれるまで、使徒言行録を持つルカの教会ではマルコ福音書を礼拝に用いていました。そして礼拝説教を参考にして、「マルコ福音書のこの部分をこのように読みましょう」と共有していたのでしょう。各個教会の解釈です。その積み重ねが独自の福音書創作・編纂の原動力になります。そして出来上がったルカ福音書がルカ教会の礼拝に用いられます。

本日はルカの改変部分に集中します。マルコ福音書にルカ教会が行った作業を真似て、わたしたちもルカ福音書を読み直します。それがわたしたちの礼拝を豊かにすることになるからです。福音書は多いほうが良い。読み方が増えたほうが有益です。人生のさまざま場面に応用しやすくなるからです。

書き換えている部分は早速冒頭にあります。マルコ13章14節は、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ」が、ルカ21章20節では「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら」と変えられています。これによってルカは指し示された歴史的出来事・事件を変えています。

マルコは紀元後40年頃にあった危機を参考にして語っています。ローマ皇帝カリグラがエルサレム神殿に自分の像を持ち込んで崇拝させようとした事件です。カリグラに似たような人物を「憎むべき破壊者」と呼び、似たような事件が起こるとユダヤ人にとって災厄、さらに終末が起こると予告しています。

それに対して、ルカは紀元後70年のユダヤ戦争について語っています。ローマ帝国が植民地ユダヤの反乱を鎮圧した事件です。ユダヤ戦争を過去の周知の出来事としてルカは知っています。たとえばユダヤ戦争の結果、ユダヤ人たちが捕虜に連れて行かれたという細かい事実でさえ知っています(24節。歴史家ヨセフスによると97,000人の捕虜)。だから具体的にエルサレムが軍隊に囲まれた時と語っているのです(19章41-44節、23章27-31節も参照)。

マルコはユダヤ戦争を知りません。だからマルコ版イエスは、「このことが冬に起こらないように、祈りなさい」と勧めます(マルコ13章18節)。実際のユダヤ戦争は冬もまたいでいます。「主がその(苦難の)期間を縮めた」(同19節)ということは起こりませんでした。偽メシア・偽預言者も現れませんし終末にもなりませんでした(同21-23節)。だから、ルカは冬云々、期間短縮云々を削り、マルコ13章20-23節を丸ごと削除したのです。大胆です。聖書が取り扱っている出来事を、自分たちの時代に起こった出来事と取り替えているからです。この態度は参考になります。だからこそわたしたちは聖書の戦争記事を参考に現代の戦争について語ることができます。

ルカ21章20-24節は、ユダヤ戦争についての評価の記事です。マルコに対して付け加わった部分は、ルカ教会がこの戦争をどのように理解していたのかを示しています。「田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである」(21-22節)。「この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」(23-24節)。一言でまとめると、「反乱が鎮圧されたことは神の裁きの結果だ」という評価です。

前にも申し上げたとおり、ルカはユダヤ人の選民思想や、選民思想を強化するエルサレム神殿に対して批判的です。自分が非ユダヤ人であり、エルサレム神殿で友人パウロが逮捕されたからです。だからユダヤ戦争でローマ帝国軍がエルサレムを徹底的に破壊したことを、良いことだと思っています。しかもそれは神の名において良いことだというのです。「旧約聖書に預言されている懲罰の日」(22節)、「ユダヤ人に対する神の怒り」(23節)に、ルカ教会の「戦争の神学」が見えます。ローマ軍は神の鞭だというわけでしょう。イエスは「戦争の神学」を語っていません。ルカ教会の付け加えであることは明白です。

わたしたちはルカ教会の「戦争の神学」に賛成することはできません。なぜなら全て戦争を遂行する政府は、同じような「戦争の神学」を振りかざし、あたかも神の名において正義の戦争があるかのように宣伝するからです。わたしたちは広島への原爆投下を神の裁きと言えません。同様に、日本軍(神軍・皇軍)の侵略行為についても言えません。ナチスのユダヤ人虐殺を、ユダヤ人への神の怒りの懲罰と言えません。同様に、イスラエル軍が今も行っているガザ地区パレスチナ人に対する殺戮についても言えません。「身重の女と乳飲み子」(23節)で例示されている災害弱者の苦しみを、上塗りする二次加害を起こしてはいけません。神学的正しさは、愛の広さ深さによって測られるからです。

さて、それでもルカ教会が共有している良質の部分もあります。それはエルサレム神殿が無くなった後は、「異邦人の時代」であるという考え方です(24節)。もはや選民はいないというのです。「貴族あるところに賤族あり」。特別な民は存在せず、すべての民は「非選民」として平等です。この主張が、使徒言行録への橋渡しになります。「異邦人伝道」と、非ユダヤ人も混ざった教会形成です。この透き通った視点に基づいてルカ福音書は、マルコ福音書13章27節にある「人の子は・・・彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」という選民思想をごっそり削除しています。

25節以降にもマルコ福音書に対する付け加えがあります。「地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民(異邦人)はなすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」(25-26節)。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放(贖い)の時が近いからだ」(28節)。

「世の終わりはすぐには来ない」(9節)とすでに言われていました。ルカ教会の基本的な考え方です。天災は必ずどこかでは起こっています。ユダヤ戦争が終わる前も終わった後も変わりません。そのことを強調するためにルカ福音書では、天体の異常だけではなく、地上で海がどよめき荒れ狂うという状況を書き加えています。これらの「天変」だけではなく「地異」が起こっても、おびえたり・正気を失ったりしないようにという、日常生活への心配が中心にあります。非選民たちの日常の不安を和らげたいわけです。

結局「人の子(イエス)」が来るのは日常生活の只中です。羊飼いが日常の労働をしている最中に、救い主はお生まれになりました(2章)。ペトロが毎週の安息日礼拝を捧げている時に、イエスがカファルナウムの会堂に来られました(4章)。長い旅を続けながら、イエスは人々の日常を訪れています。ナインの町(7章)、ゲラサ地方(8章)、サマリア人の村(9章)、ベタニヤ村(10章)、さらにエリコの町(19章)。目に見える形ではなく、実に神の国はその人々の日常生活の只中にあるのです(17章21節)。

「雲に乗って来る」(27節)とありますが、直訳は「雲の中で(雲に包まれて)来つつある人の子」です。福音書のイエスは確かに、「大いなる力と栄光を帯びて」いました。しかし彼がキリストであるということは隠されていました。雲に包まれていました(9章34-35節参照)。なぜなら、イエスは徹底的に人の子であって、徹底的に日常的な人だったからです。彼が一般的なユダヤ人であることを、出会う人は誰も誤解していません(ヨハネ福音書4章9節)。

同じようにわたしたちの日常生活にイエスは突然に訪れます。それは誰かの姿を借りているかもしれません。「靴屋のマルチン」を思い出してください。あるいは何かの出来事という雲に包まれているかもしれません。振り返ると人の子イエスが来たと分かるはずです。それも必ず、わたしたちがなすすべを知らず、不安に陥り、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまりに気を失うような時に、人の子は来ます。人生の荒波にもまれているわたしたちに、「安心しなさい。わたしはある。恐れることはない」(マルコ6章50節)と語りかけるために、人の子は来ます。主は近い。

2000年前の昔すでに「このようなことが起こり始め」(28節)ているのですから、人の子イエスを見逃さないように気をつけるべきです。日常生活に訪れる救い主を迎え入れるためです。すぐ近くに贖いという救いがあるからです。「解放の時が近い」ではなく、「解放が近い」が直訳です。時間的にではなく、場所的に救いはすぐ近くに来ているのです。

こうしてルカ教会は熱狂的終末論を後ろに退け、わたしたち非選民一人一人に訪れている救いを前に押し出します。遥か遠くの世界の終わりではなく、日常生活の手に届くところまで来ている贖いに気づくようにと注意を向けています。マルコ福音書が色濃く残していた終末待望と、ルカは一線を画しています。ユダヤ戦争も一つの戦争でしかないのです。日常から逃避してはいけません。むしろ日常に現れるイエスによる救いを見過ごさない注意深さが求められています。それこそわたしたちが毎週礼拝し、毎日祈る理由です。

では、そこで言う救い・贖いとは何なのでしょうか。わたしたちの日常は何から何へと移されるのでしょうか。「解放/贖い/救い」(28節)はギリシャ語アポリュトゥロシスという言葉です。この単語は新約に10回登場し、パウロが主に用いる教会用語です(ローマ3章24節、8章23節、Ⅰコリント1章30節)。元々の意味合いは、「奴隷から自由人へと買い取られる」ことです。ルカも当然知っていた重要単語「贖い」を、ルカはあえてここでのみ用います。

奴隷状態に例えられる罪とはきょろきょろと周りを見る生き方です。なぜかといえばあまりにもわたしたちへの駄目出しが多いからです。それに対して贖われた自由人に例えられる救いは、身を起こして頭を上げる生き方です。イエスを殺した人々は一般ピープルでした。周りを見回して煽られ、上ばかりを見て忖度し、冤罪を被せて十字架で処刑したのです。ここに罪があります。イエスを見殺しにした弟子たち・好意を持っていた人たちも一般的な人びとでした。不安・恐怖によってイエスから目を逸らし、下を向いたのです。わたしたちは日常をふわふわと座標なく生きるので不安定です。そのために他人に危害を与え、困っている隣人を黙殺するのです。十字架は罪を教えます。

イエスは十字架上で「アッバ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(23章34節、使徒言行録7章60節)と、殺しつつある者たちを無条件に赦しました。十字架は罪からの救いをも教えます。こんな駄目な自分にもそのままで良いと言う方がいると知る。これが救いです。不安定な死に方を代わりに引き受け、安定的な生き方をイエスは与えています。

今日の小さな生き方の提案は、手近にある贖いを受け取ることです。駄目出しに負けずに、身を起こして頭を上げて前を向いて生きることです。がっかりする毎日にもイエスが何らかの形で訪れます。わたしたちに「良し」や「いいね」を言うために、人の子が今日も近くに来ています。誰かが語る「あなたは良い」という一言が、駄目なわたしたちの救いです。そこに気づくとわたしたちの背筋は伸び、透き通った視点が与えられます。毎日が安定します。贖われた自由人となりましょう。