あなたの息子・あなたの母 ヨハネによる福音書19章16-27節 2014年10月12日礼拝説教

今日の箇所もヨハネはマルコを修正するつもりで細かい事実を書いています。そもそも、十字架にかけられた時間が異なります。ヨハネでは裁判が12時頃ですから(14節)、十字架刑は早くとも午後1時ぐらいからではないでしょうか。それに対して、マルコによれば朝の9時から十字架にかけられています(マコ15:25)。十字架という残虐な公開処刑の時間が短いというところにヨハネの特徴があります。

また奇跡的超常現象が描かれません。マルコにおいては昼の12時から3時までの三時間、辺りは真っ暗になります(同15:33)。そしてイエスが死んだ時に、エルサレム神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けます(同15:38)。ヨハネにおいてはそのような不思議な出来事は起こりません。ヨハネにとってはむしろ歴史の事実を記すことが重要なのです。

「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という表示(titulos)です(19節)。マルコでは「ユダヤ人の王」(マコ15:26)だけの罪状書きでした。おそらくヨハネの記述の方が、より史的信ぴょう性が高いでしょう。常識的に殺される者の名前の特定が必要だからです。そして史実以上に重要なのは「ナザレの」という言い方、イエスがガリラヤ地方出身者であったということです。イエスは差別を受けていたガリラヤ人の一人であり、それゆえにサマリア人たちとも連帯できたのでした。この「ナザレ」という地名は、その後キリスト者を指す言葉にもなりました。「ユダヤ教ナザレ派の異端」という意味合いで、キリスト者は正統ユダヤ教徒から「ナザレ人たち」と呼ばれたのです。ナザレという地名の表示はイエスに従う者たちのタイトル(title)となっていきます。

この表示がヘブライ語・ラテン語・ギリシア語で書かれたということも史実だったのでしょう(20節)。マルコはこの事実を知らなかったので書けませんでした。ヨハネの記述には植民地支配をされた者の視点が含まれています。支配者の言語をむりやり飲み込まされている者たちの悲哀を読むべきです。沖縄の高齢者たちの英語の「発音が良い」(たとえばワーラーやパーリー)ということは、日本が沖縄を切り捨てた歴史と関わります。英語を話せると東南アジアでなぜ便利なのかという植民地支配の歴史に関わります。また、アイヌ・琉球・台湾・朝鮮の人々に日本語をむりやり飲み込ませた大日本帝国の罪責を思わざるをえません。

つまりヨハネはただ闇雲に細かい事実が好きなのだということではないということです。そこには視点・ものの見方があります。著者は被抑圧者の目で、歴史を切り取って読者に示しています。国際的な広がりにおいては、支配的大国ローマ帝国と植民地である属州ユダヤという関係。属州ユダヤの内部においては、ユダヤ地方という中央と、ガリラヤ地方という周辺という関係。ユダヤ教内部においては、正統エルサレム神殿貴族と、異端ナザレ人(異端サマリア人)という関係。

さまざまな関係軸が交錯しています。そしてさまざまな関係軸の交錯する中で最もしわ寄せを被るかたちで、最も小さくされた者としてイエス・キリストが十字架で虐殺されたのです。ローマ帝国に対する反乱者として、ガリラヤ差別の一環の冤罪を被り、宗教的な異端のかどで殺されたからです。ここに最も悲惨な死があると著者ヨハネは書きたかったので、細部にこだわったのです。

そしてこの十字架のイエスが真のユダヤ人の王であると言いたかったのです。21-22節の逸話は、ピラトが「ユダヤ人の王」という表示にこだわったことを示しています(14節も参照)。22節の直訳は、「わたしが書いたことは、わたしが書いたのだ」です(RSVも)。こうしてピラトが本人の意思とは別に、神の計画に組み込まれていきます。死刑囚が王だという逆説を信じることがキリスト教信仰です。その信仰告白をローマ総督がすることになったからです。

信仰の目で見ると、屈辱に満ちた横死が、栄光を受ける行為に見えるということです。逆説とは、一見すると真理に反するようなことがらが、よくよく考えてみると真理そのものだということに気づくという事態です。イエスが最も小さくされた者として殺されたことは、一見すると屈辱そのものであって、それを栄光とは言い難いものです。まったく人間の尊厳を奪われ(衣服に至るまで剥ぎ取られ略奪され、23-24節)、基本的人権が尊重されないで殺されたイエス。そのイエスが栄光(=尊重)を受けたとは到底言えないでしょう。

しかし信者は、十字架を「仕えるということの極み」と信じます。最も小さくされた人の姿に、腰をかがめて隣人の足を洗う下僕の姿を重ね合わせます。腰をかがめて重い十字架を背負うイエスに、世界中で不条理の苦しみという「己の十字架」を背負わされている人を重ね合わせます。自分自身ではどうしようもない「的外れな生き方」を担いで、自分自身も隣人も被造世界も痛めているすべての罪人を重ね合わせます。

王は代表者の意味を持ちます。神の子・メシア・王は、自分の民の代表者です。だから、代わりになれる人です。信じる者の視点でよくよく考えると、わたしの代わりにイエスは社会に締め出され抹殺されたのです。それは誰かの犠牲となることを強いられがちなわたしの代わりの犠牲の死です。

信じる者の視点でよくよく考えると、わたしのせいでイエスは殺されたのです。もし古代に生きていたらわたしもイエスを引き渡す側の人間となっていたでしょう。また、現代においてもさまざまな人々に犠牲を強いて生きているわたしは、的外れな生き方をし続けています。日本人・成人・男性・健常者というだけで、貧しい国の人や国内の外国人や沖縄やアイヌの人々・子ども・女性や性的少数者・しょうがい者にしわよせをかけ続けています。これらの最も小さな人にしたことはイエスにしたことと同じです(マタ25章)。この意味で本当は生きているのが恥ずかしいのですが、そのわたしの代わりにイエスが死んだと信者は観念するわけです。

信じる者の視点でよくよく考えると、わたしと共に今もイエスは十字架にかかり続けているのです。わたしたちの人生には不条理の苦しみがつきものです。左右の死刑囚もそう思っていたかもしれません。十字架という極刑で殺された方ならば、わたしたちの苦しみをよく理解してくださると想像することができます。そして重荷は一人で担ぐと辛いものですが、二人で担げば物理的にも心理的にも軽くなります。いつか必ずこの苦しみからの復活と解放があると、十字架・復活のイエスを信じる者は希望を持ち続けることができます。

信じる者の視点でよくよく考えてみると、イエスの十字架は、世の中の悪の構造をあばき、わたしたち一人一人の社会の中の位置づけを教え、「罪」というものが普遍的に存在し、わたしたちを苦しめていることを示します。そして、イエスの十字架を逆転装置として信じるときに、わたしたちがこの罪から解放されることを示します。わたしのせいで殺された方は、わたしの代わりに犠牲となり、わたしと共におられる復活の主であると信じるとき、イエスの十字架は逆説的に栄光となるのです。

十字架の主イエスは、わたしたちに新しい生き方を示します。それが、「見よ、あなたの息子」(26節)、「見よ、あなたの母」(27節)という言葉です。この処刑中における弟子たちとの会話もヨハネ福音書にしかありません。25節は四人の女性が居たように翻訳されていますが(読点に注目)、おそらく三人です(マルコ・マタイも三人)。読点を打たずに「母の姉妹であるクロパの妻マリア」と解します(田川訳)。この人物をマルコはサロメと呼び、マタイはゼベダイの子らの母(ヨハネの母)としているけれども、三人の女性という枠組みは共有していると考えます。ヨハネにおいては三人のマリアが居たということです。

そして男性の弟子も一人居た、他ならない著者ヨハネが居たのだということを書き忘れなかったのです。本人だから書き落とすことがありえません。マルコ福音書では遠くから三人の女性が見ていたとしますが、そうではない。四人の男女の弟子が、会話ができるくらい十字架の近くでイエスの死を見届けたのだと修正しています。ヨハネ福音書においては、群衆も弟子もあまり否定的に描かれません。

イエスは自分の母親であるマリアに向かって、「見よ、あなたの息子」と言います。そして愛する弟子に向かって、「見よ、あなたの母」と言います。息も絶え絶えの状態での遺言です。この言葉を受けて、この言葉に従って、ヨハネはマリアを「自分の家に引き取」りました。血縁関係に無い者同士が親子になるということが十字架のそばで起こりました。これが新しい生き方です。

「自分の家」と訳されているのはイディアというギリシア語です。「本来の性質」とか「故郷」、さらには「同信の友」という意味もあります。「家」にはオイコスという別の一般名詞もあります。ここではあえてイディアが使われているのですから、著者には言いたいことがあります。この両者の交わりに教会の本来の理想の姿が現れているし、このような信仰共同体に加わることが新しい生き方・復活なのだという主張です。

教会は血縁に拠らない交わりです。ペンテコステの後マリアもヨハネもエルサレム教会の信徒となりました。ところでマリアにはイエスの他にも子どもがいました。エルサレム教会の最高指導者になったヤコブも自分の息子です。この人物の家(オイコス)に住むのが、血縁の関係としては自然です。しかし、そうではなく、ヨハネという別の教会員がマリアの生活を引き受けます。そのような血縁に拠らない交わりこそ真の故郷・神の国だからです。同信の友が個人として尊重されるために教会内部では血縁を重視しないことが必要です。

教会は十字架に拠り頼む交わりです。十字架のもとで無力感を覚え、罪を教えられ、無条件の赦しである罪の贖いを共有する集まりです。十字架のもとに立ち尽くす民です。25節の三人の女性は立っていました(完了)。26節「そばにいる」は「そばに立っている」(完了分詞)が直訳です。完了とは、過去の動作の効果が継続している様をあらわします。この四人は立ち尽くしていたのです。イエスのいのちを守れなかった無念の思い、圧倒的な権力に対する無力感、自分も引渡しに結局のところ関わったのではないかという罪責感に打ちひしがれていたのです。しかしこの十字架が贖いであり、救いの計画の成し遂げられたことであると知っているので(30節)、信者はこの「グラウンドゼロ」に立ち続けるのです。自分が無条件に赦され全肯定されていることを受け取り直すために、わたしたちは十字架のもとに立ち続けます。それが礼拝です。

教会は、各自が自分の人生における「己の十字架」を担うようことを励まし派遣するという交わりです。ヨハネに母親の世話を託すということは、「隣人となれ」という命令です。新しい生き方というのはそういうものです。十字架を背負わされて苦労を強いられている人は身の回りにも世界中にもいます。十字架のそばに立ち尽くすとき、誰がこの世界で小さくされているのかが教えられます。わたしたちのいのちが全肯定されているのは他者に仕えるためです。贖われ赦されているのは自己満足のためではありません。互いに愛し合い、その愛を教会の外へと溢れ出させましょう。それが今日のお勧めです。