あなたの負担を軽くし 出エジプト記18章13-27節 2015年10月18日礼拝説教

今日の話は組織というものを考えるときに示唆に富んでいます。人間は社会的存在と呼ばれます。複数のものが集まろうとする、そしてみんなでより良く暮らそうとする、それが人間の特徴です。組織づくりや社会をかたちづくるときに、何を大切にすべきか、今日の箇所は教えています。

モーセの舅エトロは、イスラエルの代表者たちと共に礼拝をささげ、共に食事をとったあとに滞在したようです(12-13節)。朝起床した後に、エトロは婿であるモーセの仕事ぶりを見ることになります。その日はイスラエルの人々は移動をしませんでした。19章2節の「山に向かって宿営」ということと、18章5節の「神の山に宿営」ということは、同じ出来事のように思えます。大まかな意味で、彼らはすでに神の山シナイのふもとに滞在しているのでしょう。

移動しない日には、別の仕事をモーセはしなくてはいけません。それは大きく言えば「統治」です。それを「裁き(ショーフェート)」と言います(13・14・16・22・26節)。現代社会でも裁判(司法)は、三つの国家権力の中の一つですから、「統治機構」の一つです。裁判所の判決には国家権力による強制力があることは、その国の人の中では了解されています。同じようにモーセがくだす判決にはイスラエルの中で強制力が認められ、誰もが従わなくてはいけなかったのです。

さてモーセの裁判はどのようになされたのでしょうか。15節によると、モーセはどのように判断すべきかを「神に問う」ていたようです。いわゆる「託宣」によって神意をさぐっていたことが推測されます。イスラエルの場合、「ご神託」はくじによって知られます。「ウリム(神が賛成しているという意味のくじ)」と「トンミム(神が反対しているという意味のくじ)」という名前のくじです(28章30節。民数記27章21節、サムエル記上14章41節以下参照)。ウリムとトンミムを胸にしのばせたモーセが、神への質問を定めて、くじを引きます。それによって争いごとが調停されます。

もちろん質問づくりをするためには、事情を聞かなくてはいけません。双方の主張をモーセは聞いて、裁判ごとに適切と思われる質問を編み出すのです。質問は、必ず賛成か反対かを問う単純な形にしなくてはいけません。そこには時間がかかります。公認のウリムとトンミムはひと組だけでしょう。モーセ一人が神の意志を問うことができます。すべての裁判を一人で行うのですから、かなりの時間が必要となります。

その結果、「民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた」(13・14節)という事態が常に起こります。この表現だと整然と整列して待っていたように読めますが、直訳は「民はモーセのそばで(接して)立っていた」です。モーセの周りに群がって無秩序に取り囲んでいたかもしれません。そしてすべての人は立っていたのですから、疲れるのも当たり前です(18節)。ここに混沌状況があります。

順番についての混沌があるでしょう。早い者勝ちでさえ保証されていません。また、ことの大小についての混沌もあります。先に時間をかけて判断した事件が、必ずしも緊急の用件ではないことがあります。緊急順ではない順番でモーセは次々に判決をださなくてはなりません。全体として次のことを予測できない混沌状況が、ひとびとの苛立ちを生みます。また、携わっている者の疲労感も増します。段取りが悪いということです。自分の順番が回ってこなかった人々もいたのではないでしょうか。もし次の日が天幕・宿営を移動する日となれば、その人々の争いごとは長期化します。

このやり方はイスラエルに特有のものだったかもしれません。ミディアン人のエトロにとっては奇妙に見えました。岡目八目と言います。部外者の方が鋭い目を持っていることがありえます。「あなたのやり方は良くない」(17節)。エトロは率直に批判します。「あなたも民も疲れ果ててしまうから」、また、「あなた一人では負いきれないから」という理由です(18節)。全体がくたびれてしまうという問題、特定の人にしわ寄せがくるという問題、これらの問題を避けるために組織が必要であり、組織の内部のルールが必要なのです。

エトロは解決策をも提示します。基本的にはモーセが神の意志を問うという仕組みは維持します(19-20節)。伝統に敬意を払っています。しかし、その下に組織を新たに設けます。イスラエルの人数は成人男性で60万人ぐらいです(12章37節)。女性・高齢者・子どもたち・非イスラエル人を合わせると180万人ぐらいでしょうか。それを12部族で割ると一部族15万人です。その中に六人ずつ長老がいたとして、長老一人あたりが2万5千人です。

その長老の下に、「千人隊長」がいるとすれば、25人の千人隊長が立てられます(成人男性のみで千人隊長を選ぶならば、7-8人程度になります)。それぞれの千人隊長の下に10人ずつ「百人隊長」が立てられます。それぞれの百人隊長の下に2人ずつ「五十人隊長」が立てられます。それぞれの五十人隊長の下に5人ずつ「十人隊長」が立てられます(21節)。

エトロの提案は「五審制」です。日本の裁判は三審制を採っています。地方裁判所・高等裁判所・最高裁判所の順に、判決に不服があれば控訴・上告ができます。すべての人はまず十人隊長の裁判を受けます。十人隊長は「自分の裁量の範囲の小さな事件かどうか」を判断します。範囲内ならば自分の責任で判決を出します。範囲外の大きな事件ならば、五十人隊長に決済を仰ぎます。当事者の一方に不服がある場合も、五十人隊長の裁判が行われたと推測します。こうして自分たちで裁判を行い統治するという「自治会」が組織されます。その目的は、モーセの負担を軽くし(最高裁のみくじを引く)、共に責任を分担することにあります(22節)。そうすれば、人々はみな「安心して(直訳「平和のうちに」)自分の所へ帰ることができ」るのです(23節)。今まで心身ともにくたびれていらいらしながら自分の天幕に帰っていった人たちに、平和が与えられるはずだからと、エトロはモーセを説得しました。

ただしそれぞれの隊長は、神を畏れている有能な人であり、不正な利得を憎み・信頼に値する人でなくてはなりません。神を畏れるということは礼拝を共にしている人・主への信仰を持っている人という意味です。また、人間を恐れない・パワーゲームを行わない人という意味でもあります。不正な利得を憎むということは、私心がないということ、つまり賄賂によって裁判を曲げないということです。「信頼に値する人物」(21節)の直訳は「信実の人」です。信頼に値する誠実さという意味合いです。要するにみんなが納得できる人です。「この人が言うなら従いましょう」と思える人が裁判官となるべきだからです。

重要なことは、この人々の判断をウリムとトンミムというくじ引きと同じとみなす、ということです。このことは画期的な変化です。限りある人間の判断に神の意志を見ると、イスラエルでは了解するということです。民主的な組織というものは、独裁者を生まない仕組みです。一人が神になることは良くないのです。一人の王をいただくことは、その王が神となる危険性をはらみます。むしろイスラエルにとっては、神のみが王であり(モーセでさえ預言者)、地上には民主的な組織・自治の仕組みだけがあるのです。モーセの負担が軽くなっただけではなく、モーセの権限も減らされたことにも注目すべきです。

エトロはモーセに、「千人隊長以下を選べ」と勧めたのですが、大勢の「神を畏れ・私心がなく・信実な人」を選ぶことは、モーセ一人にはできません。彼は新参者なので、名前と顔も一致しないでしょう。おそらく部族・氏族・家族の中から互選されて選ばれたと推測します。一種の「選挙」があって、民主的な方法で千人隊長以下は選び出されたと思います。

モーセは素直に舅の助言に従います(24節)。この素直さはモーセの優れたところです。いわゆる「スーパーマン症候群」に指導者は陥りがちです。自分で何でも掌握して、自分で何でも解決したがるし、本気で自分で何でも解決できると思いがちです。それが実は民全体をくたびれさせたり、誰かが犠牲になっていることに無自覚な集団を生み出したりするのでしょう。支配することと支配されることは裏表のことがらです。支配したがる人だけでは支配は完成しません。支配されたがる人々がいて初めて完成するのです。支配/被支配の関係には平和はありません。混沌と疲労があるだけです。全体として良くないことは平和ではありません。「良い」(トーブ)は円満を意味し、「平和」(シャローム)と意味が重なります。混沌も平和ではありません。自治の精神と、整った組織による自治も、平和の一部です。人間にとって誇りや尊厳、「自分たちはうまく暮らせている」という自己実現が、大切だからです。「平素は(直訳「すべての時」)・・・すべて、彼ら自身が裁いた」(26節)ことに、自治を実現した組織としての自信が与えられます。

ちなみにイスラエルの自治の精神と裁判による統治という伝統は、この後長く続きます。王制が敷かれるまで、誰もが裁判に主体的に関わることや(ルツ記4章)、「士師」(ショーフェート)と呼ばれる裁判官による統治が、当たり前となります(士師記4章5節)。軍事支配や独裁制はイスラエルになじまないものなのです。平たい場で、話し合いで争いごとを解決することに価値があったということです。この価値観は今でも通用するものです。

わたしたちは先々週「対アマレク戦争」において反戦を学びました。先週は「自分たちとは異なる他者を認めること」において平和のつくりかたを学びました。今週は「自分たちの内部の組織を整えること」において平和のつくりかたを学びます。そこに今日の小さな生き方の提案があります。

第一に王を置かない、ウリムとトンミムを誰にも引かせないということです。話し合いによる解決、自治による自己実現という価値観を、イスラエルの人々と共に共有したいものです。

その上で第二に規模に応じた組織をつくるべきということです。バプテスト教会はある意味で今日の聖句に忠実です。たとえば30人規模の教会でも、5人の役員を選び、5つの委員会の長とし、その下に4人の委員を選んだりします。毎週のように各委員会の話し合い、役員会の話し合い、信徒会の話し合いを持ち、ボトムアップで民主的に運営しようとします。さらにその他にも教会学校や聖歌隊などの活動や、研修会や伝道集会などの行事。他にも女性会や壮年会、青年会、少年少女会などのサークル。それぞれに自発的な民主的運営組織があります。自治の精神です。

今申し上げたような活動は30人規模では兼任が多すぎて忙しくなり、今日の聖句に反するとも思います。負担が軽くならないからです。イスラエルの人々は180万人いて「五審制」でした。ご承知のとおり泉バプテスト教会は日本一ひまな教会づくりを目指しています。極限まで小さい運営組織(3人の責任役員と年2回総会:超短時間)と、極限まで少ない会議数を誇っています(役員会のみ年8回)。「負担を軽くするため」にふさわしいでしょう。「十人隊長」規模なのですから、牧師を全員が取り囲んでもくたびれません。なるべく会議をしないで日曜日を平和に過ごしたいと願っています。