あなたは、わたしに従いなさい ヨハネによる福音書21章20-25節 2014年12月14日礼拝説教

いよいよヨハネによる福音書も最後の箇所になりました。1年9ヶ月ほどかけて少しずつ読み進めてきましたので感慨もひとしおです。それはヨハネ福音書の独特の意義を確認する「旅」でした。ヨハネは挑戦者です。マルコに対して、また使徒言行録に対して、それらを知りながらあえて別の物語を加えていきます。さらに言えば、元来の著作に書き加えた編集者たちや21章の著者たちも挑戦者です(24節「わたしたち」)。聖書はこのようにして多様な考えの付け加えという挑戦によって豊かに育って、現在の分量になったのです。

来週12/21のクリスマス礼拝はクリスマスの箇所を取り上げますが、再来週12/28からは出エジプト記を1章から少しずつ読んでいこうと考えています。新約と旧約を交互に同分量ずつ講解説教のかたちで進める予定です。

さて、今日の聖句はペトロとイエスの対話の続きです(21:15以下)。前回の箇所と併せて、ヨハネ福音書においてはいつもどおりのことですが、ペトロはヨハネの引き立て役となります。

「従う」(19節)という言葉は、「後ろを歩く」「ついて行く/来る」(20節)という意味が元来の含みです。19節でイエスに「わたしに従いなさい」と言われたペトロは、実際にとある場所までイエスの後ろを歩いて行ったのでしょう。他の者たちはイエスとペトロの対話を聞いているので、気を使って先を歩くイエスと、そこについて行くペトロを放っておきました。二人きりで話し合いがあるのだと思ったのでしょう。「わたしについて来なさい」とイエスが言ったとも考えられるからです。素直にペトロはイエスの後ろを歩いて行きます。

するとペトロは自分の後ろに人の気配を感じました。そこで振り向くと、もう一人の人物が自分の後ろを歩いていることに気づきます。イエスの愛しておられた弟子・ヨハネです。「あの夕食(「晩餐」と訳すべきでしょう)のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である」(20節。13:25参照)。そして、このヨハネが元来のヨハネ福音書を書いた著者でもあります(24節「この弟子」)。

ヨハネは他の弟子たちのように気を使わずに、イエスとペトロの二人きりの場面を邪魔します。空気を読まなかったわけです。イエスはペトロだけに「わたしに従いなさい」と言ったのですが、ヨハネはその命令を自分のこととして受け止めたのです。自分もイエスの後ろを歩きたいと考え、イエスに従うペトロに従って歩き始めたということです。ヨハネはペトロとの対抗意識に基づいて、この行動に出たのではないでしょう。もしそうであれば、イエスはヨハネをも叱りつけたと思います。「ペトロのことはあなたとは関係がない。あなたは、わたしに従いなさい」と言うはずです(22節参照)。

イエスはヨハネの行動に何らの評価を加えませんが黙認をしています。ヨハネの行為は悪くはないのです。その積極性は、むしろ良いことです。従うことの連鎖反応は悪くありません。それが他人との比較でない限り、「わたしもイエスの後ろをついて行きたい」と考えて実行するということは、望ましい行為なのです。

このことは「第三者」と呼ばれる人の態度について示唆を与えます。この場合、イエスとペトロが「第一者」と「第二者」、つまり当事者です。二人は当事者として対話をします。その対話の内容をヨハネや、その他の弟子たちは第三者として聞いていたわけです。ヨハネはただの第三者としての振る舞いに耐えられなかったのでしょう。熱のこもったイエスの言葉に、ヨハネは身を乗り出して聞き続けました。そしてペトロに言われた言葉を、自分自身への言葉として受け取ったのです。

振り返ってみると、十字架前夜からこの箇所に至るまでのヨハネという人物の行動力はずば抜けていました。祭司長アンナスの家に潜入し、十字架のすぐ近くまで赴きイエスの死を目撃し、イエスの母親を引き取り、イエスを埋葬し、空の墓に遺体が無いことを確認し、復活のイエスを見て、さらにガリラヤ開拓伝道まで開始しています。この行動力の源は彼の聞く力にあると推測します。第三者として立ち会うさまざまな場面で、ほとんど「第二者」として情報を聞くという能力です。ヨハネは常に「自分ならば何をするだろうか」という主体性をもって生きています。だから、ペトロ以外の弟子との対話でもヨハネは聞き逃さず「自分に言われたこと」として受け取り、行動していったでしょう。

このヨハネの態度は、情報社会と呼ばれる現代に生きるわたしたちに深い示唆を与えます。わたしたちは多くの情報を得ています。それらすべてに生真面目に接すると膨大な労力がかかるので、ほとんどの情報を聞き流し読み流しゴミ箱に捨てているのです。自分にとって関係がありそうなものだけを素早く拾うこと・集めること・切り貼り編集することが、現代人に求められている能力です。その時わたしたちの態度はある意味で貧しくなりえます。じっくりと人の話を聞くということ、しかも第三者の位置にあっても、食い入るように物語に入り込んでいくことがしにくくなるからです。

日本には演説の文化がありません。アメリカに住んでいた時に驚いたことは、小さい子どもの話にも大人が熱心に聞いていることや、公に話している人の言葉を小さな子どもでも一応は聞こうとすることです。黒人教会でも話者に対する相槌が激しくなされていました。そこでは第三者がいなくなっていきます。また、選挙活動でも日本では戸別訪問もできないので、候補者とじっくり話し合うこともできません。選挙期間というものを設けて規制を厳しくしすぎなので、当事者意識をもって選挙に臨みにくくなっています。現代日本に住んでいるということは、当事者意識を薄くさせる社会に生きるということです。

今日の一つの小さな生き方の提案は、ヨハネのように「何でもかぶりつこう」という姿勢です。それは挑戦者として生きることでもあります。

さてヨハネがある意味で評価されている一方で、ペトロはここでも反面教師です。ペトロが野暮で余計な一言を語るからです。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21節)。ペトロは常に比較の中にいます。前回も一人だけ優等生になろうとしていました。弟子の中で一番であるという自負を持っていました。だからこっそり自分の後をつけ回していたヨハネのことが気に食わないのです。「自分だけがイエスを独占すべきなのだ、そのような特別な位置にいるのは自分だけでなくてはいけない」と思っていました。ライバルとの優劣状況を知るために、ペトロは「この人はどうなるのでしょうか」と尋ねたのです。自分が段々に力を失い老衰して死ぬとしても、この人はどのような死に方をするのかがペトロの関心事です。この人(ヨハネ)は頑健なまま生きかつ死ぬのか、そうなれば自分の地位はいつか逆転されるのかなどなど、気にし始めていました。

このペトロの姿勢が戒められます。「わたしの来るときまで(世の終わり)彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(22節)。この言葉の意味は、世の終わりまでヨハネが死なないという意味ではありません。23節に念押しされているように、「仮にイエスがそれをヨハネに望んだとしても、ペトロには関係がない」という意味の発言です。要するに自分と隣人を比較することを止めなさいということです。「ヨハネが従うから自分は従わない」とか、「ヨハネが従うなら自分はそれ以上に従う」とか、このような比較・競合には意味がないからです。

すべての人は個人として尊重されるべきです。その人であるということがかけがえのないことです。誰かとの比較の中で「より優れている/劣っている」ということはありえません。だから威張ったり見栄を張ったりする必要はありません。逆に卑下する必要もありません。ペトロはヨハネがどうなるのかということを知って、その比較の中で安心を得ようとしています。それが問題です。それは偏差値的安心です。全体の分布の中のどの辺りに位置するかで安心を得ようというわけです。

信仰というものは、およそ偏差値的な発想からはかけ離れています。「あなたは、わたしに従いなさい」(22節)とイエスは言われます。原文においても、「あなたは」は強調されていますので、日本語の取立て助詞の「は」を用いる仕方で直訳風です。「ヨハネのことは気にしない方が良い。ペトロ、あなたがわたしに従うだけで良いし、正にそのことが尊いのだ」とイエスはペトロに教えました。当然イエスは今までの両者の競合関係を知っています。それが共同体にとって極めて大きな問題だから、まともに指摘したのでしょう。

考えてみれば、この「他人を気にしないで自由に信念を貫くこと」の実行は現代日本社会において極めて難しいと言えます。まさに比較の社会(学校化社会)を形作っているからです。元々の村社会・島国根性・世間の目を気にする文化もあります。その上に東大を頂点にした受験制度があります。すべて「より優れているか/劣っているか」が考え方の基本です。自分の意見は言うべきではない、試験に出る問い立てを覚え、回答を覚え、効率よく得点するかどうかが優劣の基準です。いかに目立たない形で比較的優れた学校・就職先に行かれるかが鍵です。そして、子どもたちは本当に忙しくさせられ、人格の完成のための遊ぶ時間・考える時間・政治参加の時間が削られています。この結果、現代日本社会はヨハネではなくペトロに満ちています。

今日の二つ目の生き方の提案は、せめて教会だけでも脱学校化社会を作りましょうということです。教会はイエスの後ろについて行く人々によって成る信仰共同体です。その際に隣人との比較を避けなくてはいけません。そうして本当の意味で自由な交わりをつくっていきましょう。優等生も劣等生もいないという集団、すべての人が個人として・神の子として尊重される共同体です。

イエスが中心点の円をイメージしましょう。それが教会です。円周上のどこかにわたしたちは居ます。そして各人と中心点には、それぞれ直線が伸びています。隣人の線と、自分の線は決して交わることも重なることもありません。どんなに近い友人同士でも、そうです。しかし、それぞれの線の長さは同じです。同等にイエスとの距離は保たれ、同じ重さですべての人はイエスに従っているのです。人の線を見て、羨ましがったり落ち込んだりする必要はまったくありません。それぞれはぶどうの幹にそれぞれなりにつながっている枝だからです。それは必然的にゆるやかなネットワークになります。締めつけの厳しい組織は、模範となる画一的な線の太さ・色合いを個人に要求してくるからです。

バプテスト教会は迫害の中で生まれました。その背景があり「契約共同体」としての教会形成を重んじ、一種の血盟団的求心力も伝統にしてきました(ヨハネの教会も)。教会という組織の締めつけが強いわけです。その延長に連盟の旗振る「教会教育」「信徒訓練「研修会」などの忙しいプログラムがあります。その一方でバプテストは個人の自由も重んじてきました。ここは思い切って個人の自由に天秤を傾ける時だと思います。それが脱学校化に資するからです。「比較文化」「~らしさ」の中で苦しむ一人ひとりを救うために、教会は「人を教育しない」集団になり、社会のオアシスとなっていきたいものです。それがヨハネ福音書の批判精神を受けたヨハネ福音書への批判的応答・挑戦です。