あらわにならないものはなく ルカによる福音書8章16-21節 2017年1月22日礼拝説教

今日の箇所は、一つの譬え話と一つの物語です。どちらもマルコ福音書から書き写したものです。新共同訳聖書の小見出しの下にある丸括弧書きの並行箇所にマルコ4章21―25節とマルコ3章31―35節とある通りです。しかし少し変です。ルカが、マルコの物語の順番を逆にして、3章にあった「イエスの母と兄弟の訪問」を後ろに配置し(19-21節)、4章にあった「灯火の譬え話」を先に配置しているからです(16-18節)。マルコ福音書では、母・兄弟訪問は、先週の種蒔きの譬え話の直前に置かれています。

まとめて言えば、マルコ福音書の順番は、①母・兄弟訪問⇒②種蒔きの譬え話⇒③灯火の譬え話です。それをルカ福音書は、②種蒔きの譬え話⇒③灯火の譬え話⇒①母・兄弟訪問と変えています。

ルカという人はほとんどの場合、このようなことをしません。マルコを用いる場合は、マルコの物語順通りに書き写すことを旨としています。ということは、ルカはあえて三つの話題の配置を変えたということになります。内容に入る前に、まずルカの編集意図を探っていきます。なぜなら、構造・配置・順番も文章にとって重要な要素だからです。新聞で、何を一面のどこに配置するかが重要なのと同じです。配置そのものに読者への訴えがあります。

いくつか理由が考えられます。一つは、8章1-3節との関係です。ルカにだけある大勢の女性たちが弟子として一行に加わっていたという記事は、ガリラヤの女性たちを高く評価しています。それに対して、「イエスの母が批判された話」は繋がりが悪いものです。イエスの母も弟子となり、十字架も復活も見届けているからです(23章49・55-56節、24章10節)。褒めた直後にけなすのは奇妙な感じです。①をなるべく3節から離したいという意図があります。

もう一つは、「神の言葉を聞いて実践する」という主題を一貫させたいという意図です。マルコ福音書において①と②の区切れ目が、3章と4章の区切れ目と一致しているように、①と②は別の話題です。マルコでは「神の言葉を受け入れる」ことが種を蒔く人の譬え話で勧められ(マルコ4章20節)、「神の御心を行う」ことが「母・兄弟の訪問」で勧められています(同3章35節)。御言葉と御心は別の主題です。

それに対してルカ福音書では、②種蒔きの譬え話でも「御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ」ことが勧められ(15節)、①母・兄弟訪問でも「神の言葉を聞いて行う」ことが勧められています(21節)。こうして、ルカは元々別の主題であった二つの物語を、「神の言葉を聞いて行うように」という共通の教えにまとめあげたのです。

これは、間に挟んだ③灯火の譬え話にも影響を与えています。「神の言葉を聞いて行う」という教えを軸にして、この譬え話も読み解いていくことが勧められます。構造というものの持つ力です。

ともし火をともす行為は、神の言葉を聞くことにたとえられます。そして火の点いたともし火を器で覆い隠したり、燭台の下に置いたりする行為は、神の言葉を聞いても行わないことにたとえられます。これらの行為は、頑なな態度であったり、冷たい態度であったり、軟弱な態度であったりするので、勧められていません(5-7節・11-14節)。

むしろ、ともし火は部屋の高いところにかざしたり、燭台の上に置いたりすべきです。そうすれば、部屋全体が明るくなるからです。神の言葉を聞いた人は、世界の中でその言葉を実践すべきです。そうすれば、世界を照らす光となるからです。

このように言われると、少し困ります。わたしたちは生れつき、神の言葉を行うことが苦手なようにできているからです。神の言葉(正典)とは聖書です。そして聖書は「神はあなたと全世界を愛している」というラブレターであり、その教えは「神を愛せ・人を愛せ」という命令にまとめられます。神の言葉を聞いて行え、つまり「神を愛せ・人を愛せ」と言われても、そんなことができるだろうかと思うものです。

神を愛するということは、礼拝をするということです。唯一畏れるべき方がいることを認め、その方の前で謙虚に堂々と生きることです。人を愛するということは、誰とでも隣に座るということ、特に困っている人の助けをするということです。礼拝をし神に仕えながら、自ら他人の隣人となり人と仕えることが、神の言葉を聞いて行うことです。確かに良い言葉ですが、恥ずかしくて隠したくなったりするのが自然です。

ところが、神の言葉は仮にわたしたちが隠しても、驚くべき光としてあらわになります。「隠れているももので、あらわにならないものはなく、秘められたもので人に知られず、公にならないものはない」(17節)からです。わたしたちはイエス・キリストを否定したり、神の言葉をおろそかにしたりしがちなのですが、しかし、イエス・キリストご自身が働きかけて、知らず知らずのうちにわたしたちに神の言葉の実践ができるようにします。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである」(テモテへの手紙二 2章13節)。それがイエスの霊である聖霊の働きというものです。肩肘張って、力んで「神の言葉を行うぞ」という類のものでもありません。

「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」(18節)。そもそもわたしたちの内側には生まれつき神の言葉がありません。アダム伝来の罪と言うべきか、神を愛することも人を愛することも苦手です(創世記2-4章)。外から種のように蒔かれなくては神の言葉に接することはできません(4-15節)。この情報は慰めです。どうせ自分の中には愛が無いと思えば楽ではありませんか。謙虚で自由になります。この態度こそ、神の言葉の聞き方です。

横道に逸れますが、インターネットやSNSがもたらす情報には傾向性があります。自分の聞きたい情報が得られやすく、純粋に外からの言葉ではないということです。仲間内・内輪受け・楽屋落ちの言語です。有益な情報かもしれませんが、神の言葉とは少し性質が異なります。わたしたちを活かす言葉はわたしたちの外から来るものだからです。

自分自身には何も無いと認めること、そして、蒔かれた種が実を結ぶための努力や、ともし火を覆い隠す器を除ける努力を自力でしないこと、霊の神が働くことに信頼してその導きに委ねること、これこそ望ましい聞き方・行い方です。逆に、神の言葉よりも自分の方が優れているとか、神の言葉をどうやって実践しようかとか、今日はできなかったと落ち込んだり、あの人はできないと非難したりするのは、間違えた聞き方・行い方でしょう。

入るとき(聞くとき)には柔らかく受け入れる姿勢と、出るとき(行うとき)には導きに委ねる姿勢。このような姿勢で神の言葉を「持っている人は更に与えられ」ます。それは100倍の実りを結びます(8節)。その一方で、このような姿勢で神の言葉を「持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」のです(18節)。空の鳥に奪われたり、人々に踏みにじられたり、岩の上で枯れたり、茨の中で伸び悩みます(5-7節)。以上が前半の説明です。

さて、後半の「母・兄弟訪問物語」に入りましょう。冒頭に申し上げたとおり、ルカはマルコの物語順を組み替えました。それだけではなく、母・兄弟の訪問物語を短縮し、内容をかなり改変しました。どこをどのように変えたかによって、ルカの主張があぶり出されます。

たとえば、イエス自身の親族に対する冷たい態度は削除され(「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」マルコ3章33節)、母・兄弟は「群衆のために近づくことができなかった」とされます(19節)。イエスのせいではなく、群衆が母・兄弟の面会を邪魔しているというのです。全体的にマルコはガリラヤ群衆を贔屓する福音書ですが、ルカは群衆全般を嫌う福音書です。先ほどの脇道に関連して言えば、おそらくルカは大手報道やインターネット報道などに操作されがちな「匿名の大衆」について批判的であろうと思います。

ルカ福音書は母マリアを評価してきました(1-2章)。また、後の初代教会の指導者になるイエスの実弟ヤコブに対する配慮もあるのでしょう(使徒言行録15章13節)。「イエスに対して無理解な身内」という主題も薄めています(マルコ3章21節。ルカの並行箇所からは省かれている主題)。この辺り、ルカは配慮の人でもあります。

また、マルコ版イエスは、周りに座っている人々を見回して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と目の前の人を指定しました(マルコ3章35節)。しかし、ルカ版イエスは端的に、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言います(21節)。マルコ版のイエスによれば、イエスの肉親ではなく、イエスの周りに群がる個別的・具体的なガリラヤの群衆がイエスの母・兄弟・姉妹だったのです。それをルカ版イエスは、普遍的・抽象的にふわっとくるんで神の言葉を聞いて行う者全般に(マリアもヤコブも含まれる)、イエスの母・兄弟になるための門戸を広げています。

一方で、マルコはイエスの周りに座るだけで神の御心を実践していると考えますが、他方でルカは神の言葉を行うことまで要求します。マルコはある意味でハードルを下げながら門戸を狭め、ルカはある意味でハードルを上げながら門戸を広げています。ガリラヤ地方の住民でなくても、ユダヤ人でなくても、イエスの母・兄弟になることはできます。神の言葉を聞いて行うならば、誰でもなれます。このような均衡の取り方に福音書記者ルカと、ルカの連なる教会の信仰上の主張があります。

神を愛せ・人を愛せという神の言葉を聞いて行う実例が、「善いサマリア人の譬え話」です(10章25-37節)。この譬え話もルカにしかありませんから、ルカの主張を窺い知ることのできる素材です。ユダヤ人ではなくサマリア人が、申命記6章5節とレビ記19章18節を聞いて行ったという譬え話です。サマリア人は肩肘張らずに、その場の衝動で、自分のできることを・できる時に・できる範囲で強盗に遭った人の命を救いました。このように小さな愛の行いをさり気なく誠実に行う人こそが、神の国の住民とされるのです。その輪は血縁という近さによる交わりではありません。匿名による遠く希薄な関係でもありません。お互いを名前で呼び合いますが、それほど互いの生活を知りません。多分サマリア人は自分の善行を信仰共同体の中でひけらかさなかったと思います。適度な距離を保ちながら、互いに仕え合い・尊重し合う信頼のネットワークです。共に同じ神を礼拝するという距離感の交わりです。

今日の小さな生き方の提案は「神の言葉を聞いて行う」交わりへの招きです。世の中には様々な社会があります。教会はその中でどの位置にありどのような貢献が求められているのでしょうか。それは個々人の生活・人生にとって必要な交わりの提供です。わたしたちは「共に礼拝するとさりげなく善行ができる群れ」です。そこに価値があります。豊かな人生へようこそ。