お前は神の子なのか ルカによる福音書22章63-71節 2018年10月21日礼拝説教

キリスト教は、ナザレのイエスを神の子・救い主と信じるという宗教です。聖書の読者は、福音書の主人公であるイエスに向かって、「あなたは神の子なのか」という問いをもって聖書を読んでいきます。現代人聖書読者にとって信用できないのは、聖書記事の中の、合理的説明がつかない出来事でしょう。処女降誕、奇跡行為、復活あたりを読むと、イエスが神の子・救い主ということを信じにくくなります。文書の事実としての信ぴょう性がない場合に、キリスト信仰そのものに価値が無いように思えるものです。現代人は合理主義者です。

逆に古代人にとっては、これらの不思議な記事の方が、イエスが神の子・救い主であることを証明するために有益です。むしろ古代人にとってイエスを救い主と信じる最大の関門は十字架という史実です。神の子・救い主が死刑囚であるということは、古代ユダヤ人にとってはつまずきであり、古代ギリシャ人にとっては愚かな教えです。だから古代の本である聖書は、いかにして十字架にかけられたイエスが神の子・救い主なのかということの説明に一所懸命です。

このような理由でイエス受難の物語はすべての福音書が丁寧に掲載しています。十字架の救いを説明するためです。この特徴は現代の読者に有利に働いています。十字架の虐殺の方が復活よりも理解しやすいからです。古代ローマの処刑法である十字架は史的信ぴょう性が高い。だから十字架は、それが史実か否かという点ではなく、この十字架をどのように捉え、どのように信じるのかという点だけが重要となります。十字架の道を歩むイエスに向かって問うことは有効です。「本当にあなたは神の子・救い主なのか」。

ルカ福音書だけはユダヤ植民地政府による裁判を、夜が明けた後の朝の出来事としています(66節)。イエスに対する侮辱行為が裁判の前にあるのもルカ福音書だけです(63-65節)。これらの不自然な物語の流れの原因については先週申し上げたとおりです。つまり、ペトロの否定事件にイエスを居合わせさせるためのものです。

ルカ版イエスはペトロと目を合わせ、ペトロの方に歩みだし、ペトロのために涙をし、そのために侮辱・暴行を受けます。中庭には依然ペトロがいたかもしれません。その目の前でイエスは侮辱され、殴られ、罵られます。ペトロほど、自分のせいでイエスが尊厳を奪われ殺されつつあることを思い知らされている弟子はいません。イエスの加害者である時に、無条件の赦しという愛を信じやすくなります。

イエスに暴力を振るう者たちは「あなたは預言せよ」(64節、直訳。新共同訳「言い当ててみろ」)と罵ります。罵る者のこの言葉は、皮肉にもイエスが預言者であることを告白しています。すでに見てきたように、イエスは自分自身を預言者、または預言者以上の者と任じています(7章26節)。民衆もそのように考えていました。本日の箇所は、一貫してイエスを殺そうとしている加害者が、皮肉にもイエスが誰であるかを告白してしまいます。

この特徴は最高法院の裁判においても当てはまります。「もしもあなたがキリストであるならば、あなたはわたしたちに言いなさい」(67節、私訳)。祭司長たちや律法学者たちはイエスに命令します。条件節の中に入っていますが、「もしも・・・ならば」を除外すれば(ギリシャ語では「エイ」という一単語)、皮肉にも彼らは「あなたがキリストである」と告白しています。

イエスは婉曲に、自分自身からはキリストであるとは言いません。「もしもわたしがあなたたちに言っても、あなたたちは決して信じないだろう」(67節、私訳)。「イエスがキリストである」ということは、イエス自身が宣言することではなく、イエスに対面する一人ひとりが言うべきことなのです。こういうわけで加害者がキリスト告白をしてしまうのです。

この仕組みは「神の子」に関して最も良く当てはまります。「実際、あなたは神の子なのですか」という全員からの問いに、イエスは答えます。「あなたたちは言っている、わたしこそが(そうで)あると」(70節、私訳)。イエスは、彼らが図らずも「実際、あなたは神の子なのです」と告白していることを、完全に皮肉っています。以前申し上げたとおり、最古の写本に疑問符記号はありませんから、ギリシャ語原文では肯定文とも理解できます。そしてこの発言がイエスを十字架へと決定的に追いやりました。「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」(71節)。

ここには一つの仕掛けがあります。イエスを殺す側に回る者たちが、皮肉なことに、イエスが預言者であり、イエスがキリスト(救い主)であり、イエスが神の子であることを図らずも告白しているという仕掛けです。そしてこの仕掛けは十字架刑の責任者であるローマ帝国の百人隊長に至るまで一貫します(23章47節)。まったく逆説的なのですが、イエスを殺すことと、イエスを救い主として受け容れることは、表裏一体のこととして考えられています。自分の罪を深く知る時に、神は近くにおられます。なぜなら、わたしたちが罪を知るのは、小さな存在を踏みつけている自分の現実を知る時だからです。

日常生活で、自分よりも弱い存在に遭った時にも助けない、見過ごす時に、わたしたちはペトロのようにイエスを十字架へと追いやっています。あるいは日本という国に住んでいるだけで、貧しい国々を搾り取っていることに気づく時、わたしたちは祭司長の手下や、祭司長・律法学者と変わりない存在であると思い知らされます。しかし、この人たちがイエスを殺したからこそ、十字架の救いが完成します。まったく奇妙な逆転ですが、そしてこの逆転に安住してはいけないのですが、わたしたちの罪がわたしたちの救いに作用しています。罪の多いところに恵みがさらに増し加わるということが起こるのです。

十字架でイエスはユダの罪も、ペトロの罪も赦します。同じように、ユダヤ人権力者や、その人々に扇動された武装右翼たちの罪も、さらにローマ帝国の総督ピラトやローマ兵たちの罪も赦します。この赦しが、罪を犯してしまった人々を悔い改めに導き、生き方を逆転させる力を持っているからです。だからわたしは死刑制度に反対です。厳罰を課すことは悪事の程度に応じてされれば良いし、その意味では性犯罪に対する厳罰化に賛成です。しかし、その人の存在を赦さないという死刑は、悔い改める機会を奪ってしまいます。人は大いなる肯定を受けて、初めて隣人を踏みつける生き方から解放されていくものです。

「ののしった」(65節。ギリシャ語ブラスフェメオー)は「冒涜する」という意味の言葉で、ルカ福音書に3回登場します(12章10節、22章65節、23章39節)。後二者はイエスに対する冒涜です。12章10節はそれに先駆けて、イエスに対する冒涜が全面的に赦されていることを告げています。「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は許されない」(12章10節)。イエスに対する侮辱、暴言、嘘の証言、死刑判決は、全て十字架のイエスによって赦されています。イエスが十字架で全世界の罪を被って殺されたのは、全世界のいのちが肯定されるためでした。その全世界のいのちに、イエスを虐殺した悪人たちも含まれます。

では「聖霊を冒涜する者は許されない」とはどのような人々なのでしょうか。新約聖書学者・青野太潮は、聖霊を冒涜する者を「自分が赦されていることを認めない者」と解釈します。ルカ版最高法院での裁判には、大祭司が登場しません。事実としてカイアファ(黒幕は彼の舅のアンナス)が最高法院の議長です(ヨハネ福音書18章12-24節)。大祭司の決済なしにイエスを殺す決議はできませんから、ルカ福音書の記述は不自然です。

ここには暗示があります。自分だけは加害者に含まれないという無責任な態度を取る者は、加害の事実(イエスとの関係)にも直面しないし、加害すら赦されているという真実(イエスとの関係)を見出すことができないという示唆です。聖霊はすべての人を覆っています。使徒言行録にあるように、聖霊はすべての出来事を引き起こしています。その場に居たのに、居なかったかのように振舞うのは、出来事を引き起こした聖霊への冒涜です。

ユダもペトロも、拷問をした武装右翼も、尋問をした祭司長・律法学者も、イエスと顔と顔とを合わせています。責任をとって行動をしています。そのような人々の罪は赦されるのです。あるいは、その人たちは自分が赦されているということに気づくことができます。しかし、「自分は関係ありません」という論法は決して赦されることはありません。神の赦しを拒否し、神の赦しを必要としない。健康な人に医者は要らないのです。強いからです。

大祭司という強者を登場させないことで、福音書は聖霊を冒涜する者が許されないという言葉を説明しています。それは、十字架における「弱さ」の強調と深く関わります。十字架の死刑囚がなぜ救い主・神の子なのか。イエスが徹底的に弱いからあなたを救うことができるのだと、福音書は語りかけています。

「さて、今から人の子は神の力の右に座ることになるだろう」(69節、私訳)。これは世界の終わりのことを予告しているのでしょうか。そうではなく、この数時間後に起こる十字架の出来事を語っていると、本日は解します。イエスは三本の十字架の真ん中で処刑されました。「ユダヤ人の王」の王座は十字架でした。中央が王座だとすれば、イエスの左側に架けられた死刑囚が「神の力」だと69節は言っています。左右どちらの死刑囚がイエスを冒涜した方なのか、それともイエスを庇った方なのかは不明です。いずれにしろ、殺されてゆく弱い死刑囚にルカ福音書は逆説的な「神の力」を見ています。その隣に居るイエスにも、さらにその隣に居る死刑囚にも「神の力」を見ています。

この三人は深い連帯感のもと対話を行っています。同じ苦しみを負い、同じ弱さを感じる経験、どん底の体験です。死にゆく数時間を苦しみ喘ぎながら三人は共有しています。ある者はイエスを冒涜しながらも赦され、ある者はイエスに祈り願います。そして神の国の祝宴にあずかる約束を得ます。おそらく三人は初対面なのですが、深い交わりがそこに形成されています。これは教会の模範です。教会はお互いの弱さによって連帯する交わりです。それを可能とするのが神の力、聖霊の働きです。

わたしたちは人生の苦難を肯定することはできません。苦しんでいる人に「良かったですね」とは言えません。それは大祭司がしたような悪辣かつ無責任な悪事を肯定することができないのと同じです。わたしたちに苦痛を与え、わたしたちを弱くする事柄について、一足飛びに「良い」とは評価できません。

しかしわたしたちにはこの「弱さ」をテコにして、多くの人々と繋がることができます。自分の弱さを思い知らされる時に、他人の弱さに共感できるようになるからです。似たような人生の十字架を理解しやすくなるからです。弱い時にこそ強いという逆転が生まれます。十字架は神の力なのです。

今日の小さな生き方の提案は、加害者性という闇に気づくこと、そして弱さに気づくことです。十字架のイエスはあなたの弱さに共感してくれます。この方に存在を赦され愛されていることを受け取りましょう。そうすれば苦しみの多い人生から救われます。弱さで連帯する交わりに入りましょう。そうすれば重い足取りが少し軽やかになります。