かまわないでくれ ルカによる福音書4章31-37節 2016年8月7日 礼拝説教

今日の箇所は、マルコ福音書1章21-28節とほぼ同じです。ルカはマルコをかなり忠実に記載しています(62ページ)。ついでに言えば、ルカ4章31-44節の三つの物語は、マルコ1章21-39節と順番も含めてほぼ同じです。こういったところから、ルカがマルコを参考にしたことがよく分かります。

両者がほとんど同じ内容を記す箇所というのは、ルカでさえ変えることができなかった内容であるということです。そこに福音の本質があります。マルコもルカも、また両者の背後に居る信徒たちも心から同意している内容があります。彼ら彼女らが心から信じてやまない教えと行いが、今日の箇所に記されています。それは人を解放する言葉と行為、考え方と生き方です。

マルコとルカに共通する二つの鍵となる言葉があります。一つは「かまわないでくれ」(34節)と翻訳されている言葉、もう一つは「権威」(32・36節)と翻訳されている言葉です。これらの言葉が重要であることを頭に置きながら現代の事情に引きつけて物語の説明をしていきます。

「かまわないでくれ」という表現は四つの単語から成ります。順番通り記すと、「何が/如何に・わたしたち・と・あなた」です。補って訳すなら、①「わたしたちとあなたと(の間に)何が(あるのか)」、もしくは、②「わたしたちとあなたと(の間を)どのように(すべきか)」でしょう。これは疑問文です。しかも含蓄のある質問です。自分とイエスの関係性を問うているからです。

「汚れた悪霊に取りつかれた男」はなぜこのような質問を叫んだのでしょうか。ここで彼の置かれていた苦しい境遇について考えてみましょう。

新約聖書の中でイエスが悪霊に取りつかれている人に対して悪霊祓いをする出来事はいくつか報告されています。悪霊に取りつかれている人々の特徴は、社会で生きにくいというところにあります。ある者は自傷行為をし、ある者は暴力を振るい、ある者は突然に引きつけ発作を起こし、ある者は暴言を吐きと。これら「面倒な」人々と関わりたくない共同体から排除されていました。

現代で言えば、知的しょうがいや、精神しょうがい、発達しょうがい、またてんかんなどと呼ばれるかもしれません。いずれにせよ、悪霊祓いを積極的に行うことは、イエスが視覚しょうがい者、聴覚しょうがい者、肢体不自由な人、ハンセン病患者と触れ合ったことと軌を一にします。古代人にとって病気としょうがいの差はほとんどなく、どちらも神の呪いの結果と受け止められていました。イエスは神の呪いという考え方に切り込んでいきます。

今日のこの人の場合は、おそらく悪態や暴言を吐いてしまうという性質が当時の医者にかかっても治らないので、周囲からは悪霊にとりつかれている状態と理解されていました。本人にしか分からないルールで語るので、その言葉が他人を傷つけるかどうかが想像できないのです。

カファルナウムという町の安息日の礼拝に、この男性が来る時、会堂の中はどのような雰囲気になったのでしょうか。「なぜ、今日もここに来たのか」「また攻撃されたら嫌だな」と思う人が多くいたことでしょう。「あの男がいなければ良いのに」と思う人もいたでしょう。共に礼拝を捧げているのですが、いつも意地悪な気持ちがどこかにある、排除したい考えがどこかにあるのです。〔※彼は男性なので、会堂の中で礼拝ができました。女性たちは会堂での礼拝は許されていなかったので、ある意味で彼以上に排除されていました。〕

彼らはいつもこの男性に悪意を込めて思っていました。「何が、わたしたちと、お前との間にあるのか」。そして、実際に何回も会衆は、この男性に「お前には関係ないだろ」という心無い言葉をぶつけていたのだろうと思います。世間が「あの人は悪霊に取りつかれている」と認定するということは、このような暴力が黙認されるということになります。

彼は攻撃的な言葉、暴言しか使うことが難しいので、どんなに反論しても「悪霊に取りつかれている人であることを証明する言葉」にしかなりません。安息日礼拝に通わないことも非常に不利益を被ることなので、仕方なく差別と偏見に満ちた礼拝の場に毎週通わざるを得なかったのです。

そのカファルナウムの会堂に、故郷ナザレから旅をしてきたイエスが立ち寄ります。イエスはナザレの会堂でしたように、新しい方法で朗読指定箇所からも自由に聖書を自在に読み、独自の解釈を施して会堂にいた人々を教えます。人々はあの厄介な男性を置き去りにしてイエスの話に夢中になっていたようです(33節)。「お前はわたしたちと関係がない」と思っているからです。

その会衆の排除の思想を反射して、極めて正確に反映して、悪霊に取りつかれた男が、イエスに向かって叫びました。「わたしたちと、あなたとの間に、何が」。これはこの男性の魂の叫びです。この言葉によってずっと苦しめられ、一緒に礼拝していても隅っこに追いやられていたのです。同じ社会の一員なのに、片隅に排除されていたのです。この状態から癒されたい・解放されたいと心から彼は願っていました。暴力的な言い方ですが、彼はイエスがメシアであることを知っていました。そして、彼はこの暴力的な交わりであるカファルナウムの礼拝共同体を滅ぼすことをもイエスに期待していました(34節)。排除の思想が支配している「神の民」なんぞというものは、どんなに敬虔ぶっても偽善者の集団でしかないからです。

そこでイエスは、まず「黙れ」と言います(35節)。「お前は関係ないだろ」という思想は、心の中で密かに思って自分自身を恥じ入るぐらいならば良いですが、外に発する言葉ではありません。隣人に向かって言う言葉ではないのです。黙らなくてはいけません。この「黙れ」によって、カファルナウムの会堂に蔓延していた悪霊、すなわち人々を分断する罪の力が、追い出されました。「どのように・わたしたち・と・あなた(は、生きるべきなのか)」。イエスは、「わたしたち」と「あなた」を二つに分ける言葉を禁じます。黙れと。会堂において礼拝する者たちは、すべてのものを含んで「わたしたち」を構成しなくてはいけません。

その後、「この人から出て行け」とイエスは命じます(35節)。これにより、この男性は暴言を吐いてしまう性質から抜け出ることができました。共同体の悪霊が追い出され、その後個人の悪霊が追い出されます。彼が無傷であったことは示唆に富みます。礼拝共同体こそが、この事件で傷を負うべきだからです。

さてもう一つの鍵語は、「権威」です。ギリシャ語エクスーシアの訳語です。エクスーシアの語源は「自由」です。「中から外へ」と「存在」の合成語で、「~らしく生きるべき」という振る舞いの外へ解放されている状態を指します。そこから派生して、新約聖書の中では「自由、権利、権威、権限、権力」などを意味します。「権」の字が重要です。

「権利」というのは明治維新後に新設された翻訳語の一つです。英語のright、ドイツ語のRechtの訳です。最初は「権理」と訳されていたそうです。その方が意味を伝えていると思います。人権というものは生まれつきすべての人に与えられています(天賦人権説)。欧州を中心に人類は何千年もかけてこの普遍的真理に到達しました。この真理の基礎にはキリスト教信仰があります。すべての人は神の似姿という聖書の言葉です(創世記1章26-27節)。

「権利ばかりを主張するな。義務も果たせ」などという低俗な理屈が幅をきかせています。どうも「利」の字に引きずられているように思います。利得と損失のバランスを取れというように聞こえます。人権、人間に本来与えられている権利とは、そのようなものではありません。ただで与えられて、何の代価も要らずに主張できるものです。「権理」なのです。

カファルナウムの人々を魅了したイエスの教えの新しさは、貧しい人間にも人権があるというところだったのではないでしょうか(18-19節)。すべての人にその人のままで生きる自由があります。だから抑圧されているなら解放されなくてはいけません。「その言葉に権威があった」(32節)ということは、普遍的な真理があったので耳を傾けざるを得なかったということでしょう。「権理」について語っているからです。

現代日本において人権が普遍的真理であるということが一般に浸透していないことが根の深い問題であると考えます。どんなに人権侵害の発言を繰り返す政治家も圧倒的な人気で当選したり、「税金の無駄」という利得の問題で福祉が軽んじられたりと。「優生思想」の根っこに流れるのは人権軽視でしょう。

エクスーシアの翻訳の肝は「権」の字と申し上げました。もう一つ付け加えて「主権」という訳語もありうると思います。

悪霊を追い出したイエスの行動が人々の賞賛を呼んだのは、イエスの立ち居振る舞いが主権を持っている人にふさわしい、堂々とした態度だったからではないでしょうか。それが「権威をもって…命じた」(36節)ということです。「ヘイトスピーチを止めよ」と、いじめている人々に正論をきっぱりと公言する旅人に、カファルナウムの人々は神々しさを感じたのです。

旧約聖書の信仰においては神が主権者です。「神の自由」とも言います。唯一神教の中心に、権力・権限の源であり歴史の支配者である神への信仰があります。信者に操られない神、国家に利用されない神、敵国を用いて自分の民を裁くことさえなさる自由な神です。神が命じた言葉が、この世界で実際の出来事となるという信仰です(創世記1章)。

もしもこの神が人となったら、主権者として振舞うはずです。仲間内であろうが、論敵に対してであろうが、ぶらりと立ち寄った街であろうが、自分の故郷であろうが、たった一人で自分の見出した真理を堂々と自由に語るはずです。そして真理の言葉を、その真理を語ることで地上に実現するはずです(21節)。

三一神教であるキリスト教は、真の神の子・真の人の子であるイエス・キリストの主権も認めます。イエス・キリストの活動に主権者である神の振る舞いを見ます。そして神の霊でありイエスの霊でもある聖霊を宿す信者が、主権者となることをも認めます。イエス・キリストを通してわたしたちは神の子とされ、本当に人間らしく生きるようになるのです。どんな時でも「わたしはある」という心持ちで、自分の尊厳を保つことができるようになるからです。

次の週のカファルナウムの会堂で行われた安息日礼拝はどのような雰囲気になっていたのでしょうか。人々は悪霊から解放され、悪霊祓いをされた人を大切にする「わたしたち」という一つの交わりを作り始めたのではないでしょうか。一人一人はイエスの自由な振る舞いを真似て、主権者らしく堂々と自由に歩き出したのではないでしょうか。それは爽やかな交わりです。その会衆の一人にシモン・ペトロが居ました(38節)。〔この続きは来週〕

今日の小さな生き方の提案は「現代の悪霊祓い」です。言ってはいけない言葉について黙り、言わなければならない真理を語ることです。権理を侵す言葉を禁じ、権理を認める言葉を発することです。関係を断つ言葉ではなく、関係を創る言葉を用いることです。しかも主権者らしく爽やかにそれを行うのです。