こころを込めて フィリピの信徒への手紙4章10-14節 2022年10月9日礼拝説教(井馬佐紀子神学生)

主の御名を賛美いたします。このたびは神学生として、泉バプテスト教会でご奉仕させていただけることを心から感謝いたします。神学生としてまだ未熟者ですので自信はありませんけれども、皆さんと共に主のみ言葉を聞き、礼拝できる喜びを持って今日この時過ごさせていただきたいと思っています。

まずはじめに、いつも神学校のことを覚え、祈りや献金をもってお支えくださっていることを、神学生として心から感謝をいたします。私自身は神学校へ入学して3年が経ち、これまで城倉先生にはたくさんのことを教えていただき、村上先生にも大変お世話になっております。教えていただいたことをなかなか覚えられない、生かしきれない自分に腹立たしさを覚えるばかりですが、振り返って入学してよかったと思わされるのは、学びと、先生方、他の生徒さんのお話しによって御言葉の理解が深められていくという体験を何度もしていることです。教えてくださる先生方も解釈などでこれが絶対ということは仰らず、それぞれの考え方、聖書への向き合い方を大切にする素晴らしい学校だと思っています。今はバプテストに限らず、どこの神学校でも入学者が減少しているそうです。どうかそのために覚えてお祈りいただけたら感謝でありますし、少しでも興味がおありの方には、ぜひその一歩を踏み出していただきたいと願っています。

 さて、今日選ばせていた聖書箇所も、お祈りや献金に感謝を表す箇所であります。フィリピの信徒への手紙は、「喜びの書簡」とも呼ばれ、短い手紙の中に、何度もこの「喜び」という言葉が出てきます。著者パウロの感謝と喜びが溢れるばかりに伝わってくる手紙です。しかし書かれた時は到底喜ばしいとは言えない状況でありました。泉教会の年間聖句でもある使徒言行録16章に書かれている伝道旅行から、10年程経って書かれた手紙です。使徒言行録ではフィリピにおいて牢獄に入れられましたが、この手紙はローマの牢獄の中で書かれました。フィリピの信徒たちはパウロが捕まったことを聞いて、少しでも助けになるようにと献金を集め、それと共にエパフロディトという人をパウロの世話役として送りました。この手紙はそれに対する感謝のお礼状です。手紙の冒頭部分1章3節から、こうあります。

1:3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、

1:4  あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。

1:5  それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。

そんな風に自分の教会が感謝され、褒められたらどれだけ嬉しいかと思わされますけれども、今日の聖書箇所の最後である4章14節にも

4:14それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。

とあるように、フィリピの人たちはパウロのことを思い、助け支える共同体であり、パウロ自身にとって、祈り支え続けてくれる励ましと慰めの教会でありました。麗しい関係であります。

4:10さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。

「ついにまた表してくれた」とあるところを見ると、暫くぶりの贈りものであったことがわかります。この共同体には女性も多く、決して裕福ではなかったようです。そのような中での支援でした。パウロはこう続けます。

4:11  物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。

4:12  貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。

贈り物を送ってくれて非常に嬉しかった、けれど献金それ自体が嬉しくて、また欲しくて言っているわけではない、と書き送っています。パウロはローマ市民権を持っていましたから、食べるものに困らない豊かな生活も知っていたでしょう。伝道者として働く時には、貧しい生活に身を置きました。そして牢獄でこの手紙を書いている時も、物質的には何も自由にならない貧しさの中にありました。しかし満たされている、状況に左右されない秘訣を授かっている、とパウロは語っています。

ご自分の人生を振り返ってみて、これまでにどんな苦難や試練があったでしょうか。あれかこれかと沢山思い浮かぶ方もおられるでしょうし、今まさにその中にいますという方もおられるかもしれません。試練の中で平安を覚えられたら、どれだけ幸福でしょうか。その秘訣はどのようにしたら手に入れることができるのでしょうか。

私自身も、クリスチャンになる以前は、自分の状況に感情が左右され、置かれた境遇に満足できず、常に葛藤やどこか不安がある中で生活をしていました。教会に通うようになるまでの私には音楽家になる、という夢がありました。幼い頃からピアノを習わせてもらい、音楽が好きだった私は、結果的には音楽以外脇目も振らずに音楽大学へと進学をしました。純粋に好きなまま進んでいればよかったのですが、続けていく中で段々と、音楽を奏でるという喜びがなくなっていっていることに気がつき始めました。あるのはプライドだったり、明確な目的のない、先生に怒られないための練習、演奏でしかなくなっていました。評価されたら喜び、演奏したとしても他者にどう思われるのか、自分の演奏なんて、と卑下してみたり、とにかく自分の日々の状況に一喜一憂している状態でありました。しかしその時には音楽以外に情熱を傾けていたものもなく、悪循環な状況に目を背けて勉強を続けていた中、色々なご縁があり教会へと導かれました。最初は、当時足りていなかった奏楽者の問題から、奏楽の奉仕を担わせていただきました。その時から、教会の方々と共に賛美をしている時の自分が、私の一番目指していた音楽であったこと、本当にやりたかった音楽に戻れている自分に徐々に気付かされていきました。

 そして主イエスに出会い、自然と今まで掴んで離さなかった夢やプライド、それによって引き起こされる様々な罪を自覚することが出来、他でもない私のために、主が十字架についてくださったことを知ることが出来ました。胸の内から無限に湧き上がってくる本当の喜び、いつでも心を満たしてくださる方を知った私は、自然と教会にも仕えるようになっていきました。

パウロの言う状況に左右されない喜びの秘訣は、苦しみに打ち勝つ方法、耐え忍ぶ方法であるとか、豊かな時に思い上がらないための方法論のようなものではありません。苦しみの中を耐えながら、それでも日々一生懸命過ごすことは過去の私にも出来ていたことです。たとえその先で夢が叶っていたとしても、また他の問題が起こり、何かに囚われ、束の間の喜びしか体験できなかっただろうと思います。

イエスさまはそんな悪循環に終止符を打ってくださる方であり、根本を作り変えてくださる方であります。現実を変えることはできなくても、それを受け止める心は変えることができます。そして真に心を変えられるのは自分の力によってではなく主によって、イエス・キリストの十字架と復活によってです。いつでも、どんな時でも主が共にいてくださる、どんな状況でも本当の喜びに満たされて生きていくことができるのだということをパウロは教えてくれています。

そしてそれを理解できた時こそ、4:13  わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。と、私たちは告白できるのではないでしょうか。今こうして語ることも、本来の私には出来ないことであります。主がこの口を通して語ってくださると信頼しているから、怖じけず、勇気を出して立つことができています。

 神学校に入学した当初、礼典礼拝執事を担わせていただいておりましたので、どうしたらもっと礼拝を豊かに出来るだろうか、という思いがありました。最初の頃は方法論を知りたいと思っていました。この教会はこんな風にしていて、こんな効果が生まれているとか、実際にこんな工夫をしていったらいい、というのを求めていました。しかしそれも大事なことでありますけれども、まず大事なことは自分がどう礼拝しているかだ、ということに向き合わされる時が与られました。

その時から私の一つの指針は、どれだけ心をこめて、全身全霊をもってこの瞬間主を礼拝出来ているか? 御用に当たらせていただいているか? ということに変えられていきました。私たちが今この時にも自由に用いることが出来るものは、『心』ではないでしょうか。今この瞬間も、私たちには祈る『心』、神を思う『心』が与えられています。今でも忙しさや心の余裕のなさで、反省することが多々あります。そんな時にこそ、自分の言い訳や状況を置いて、心をこめて主を賛美し、礼拝したいと願います。その時こそ、状況がどのようなものであっても、喜びと平安で満たされ、困難があっても主が共にいてくださる、と力強く歩めるからであります。

 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、応答賛美に選ばせていただいた『善き力にわれ囲まれ』という賛美の詩も、獄中で書かれたものです。ドイツの牧師、神学者であったボンヘッファーはナチスに捕らえられ、1年半の獄中生活を経て、婚約者にこの詩を送りました。処刑される4ヶ月前のことです。元の詩の冒頭と最後の部分だけお読みします。

よき力に真実に、そして静かに取り囲まれ、不思議にも守られ慰められて、

私は毎日毎日をあなた方と共に生き、そしてあなた方と共に新しい年へと歩んで行く。

善き力に不思議にも守られて、私たちは心安らかに来るべきものを待つ。

神は朝も夜も、また新しい日々も、必ず確かに私たちと共にいて下さる。

切迫した状況の中、このような平安を語るボンヘッファーの詩に、どれだけの人が励まされ、慰められてきたでしょうか。私たちもどんな時にでも不思議に守られ、キリストによる平安が与えられていることをいつでも覚えている者でありたいと願います。

最後に、仙川キリスト教会のあるご高齢の信徒の方のお話しをして終わりたいと思います。今年の5月に、教会に長く仕えてくださっていたその方を天に送りました。本当に熱心な方で、礼拝にも祈祷会にも雨が降ろうとも槍が降ろうとも来るような方でした。口癖のように仰っていたのが、自分はパウロのような偉大な信仰者の足元にも及ばない。けれど少しでも彼のような信仰を持って歩みたい。そんな風に言っておられた姿は、本当に力強く、いつも姿勢を正しておられる立派な信仰者でした。その方の信仰も、状況に左右されないものであり、ご病気になっても毅然としておられ、最後イースター礼拝に来られた時も、ピシっとした姿勢で礼拝されていたのが今でも目に焼きついています。ブレない信仰、というのを私はその方から学びました。

私が神学校に入った時も、専攻科に進む決断をした時も、いつも「応援してるよ」と心からの声を掛けてくださった、その言葉が何よりも今、私を奮い立たせてくれています。私たちは、パウロに直接会うことは出来ませんけれども、聖書を通して、イエス・キリストの証しを通して、パウロの教えた信仰に近づいていく。私自身が、その信徒さんからもらったものは言葉だけでなく、その信仰の姿勢そのものだったように思います。

私自身も願わくばどうか、その方が私に残してくださったように、誰かの心のうちに一つの灯火となるような信仰者でありたいと願っています。クリスチャンは誰でも、主によって、そのことが託されています。何気ない一言が、いつかその人の励ましになるかもしれません。どんな時でも平安の中を生きる信仰の姿が、いつか誰かを力づけるかもしれません。こころを込めて、主に生かされる者でありたいと願います。

今私たちの生きるこの時代も、終わりの見えない戦争、痛ましい事件、そのような現実が常に存在しています。心に重荷を抱え、暗闇の中にある人が現実にたくさんおられることを覚えます。私たち自身がまず心の暗い部分を主の優しい、暖かな光によって照らしていただき、そして、その灯火を分け与える者でありたいと願います。

信仰の証し、姿を通して世に仕えていく。誰かに主の喜びと希望を残しながら生きていく。私たちは難しいことかもしれません、けれども主ならすべてが可能であり、聖霊の住まわれている私たちであれば可能です。そのことを信じて、今週も歩んでいきたいと願います。