この出来事を見て ルカによる福音書23章44-49節 2018年12月9日 待降節第2週礼拝説教

アドベントの第2週です。今回も十字架の出来事を、クリスマスとの関連を考えながら読み解いていきます。クリスマスは光の祭典と呼ばれます。多くの蝋燭を用いるからです。キャンドルサービスは闇を前提にします。「闇の中の光の祭典」です。ローマ人の習慣である冬至の祭(太陽神の祭)と、キリストの誕生を結びつけたことによって、闇の中の光がクリスマスを象徴することとなりました。真夜中、真っ暗な馬小屋に生まれた赤ん坊を、真っ暗闇の世界に光が差し込んだことと、わたしたちは信じています。

キリストは生まれた時も、また死ぬ時も闇の中にありました。十字架で殺されたときは真っ昼間であったにもかかわらず、皆既日食が起こり真っ暗になっていたというのです(44-45節)。誰も気づかないその時に、エルサレム神殿の幕が裂けていました。このことは、神を隠していた覆いが外されたことを意味します。見えない神が見えた。神が現れたということです。真っ暗なゴルゴタの丘で十字架上に神が現れたのです。もし、神が地上に来られるなら、飼い葉桶に寝かされるだろうし、十字架上で処刑されるでしょう。これらのことは世界の暗さを強調します。人間の社会は誰かを排除するということを、示しているからです。不正義というものの横行が、闇で象徴されています。

新生児はせめて十分に保護されるべきです。冤罪などという悲劇はなくさなければなりません。飼い葉桶と十字架は、不正義というものを教えています。この闇の中で、神の言葉が一条の光として差し込みます。

「アッバ、わたしはわたしの霊をあなたの手の中へと(わたし自身を)側に置いています(現在形)」(46節、私訳。43節「楽園にいる」は未来形)。使徒言行録7章59節に初代教会の指導者ステファノが似たような言葉を述べながら殺されています。イエスに影響されたステファノの遺言が、再びイエスの言葉に戻ってきたという事例です。ルカ教会にとって非常に重要な言葉です。わたしたちはこの言葉にルカ文書を貫く光・神の義を見なくてはいけません。

クリスマスの時に、義人イエスは自分自身を丸ごと保護者のマリアとヨセフの手に委ねました。十字架の時に、義人イエスは自分自身を死刑執行者のローマ兵の手に委ねました。神が他人の手の中に、他人のすぐ側に自分自身を置きました。その他人は、自分を育てる人であったり、殺す人であったりします。それでもイエスは、そのことに不平不満を述べません。なぜなら自分の生涯が全てに渡って神の手の中の出来事であることを信じていたからです。回りの人間たちの手に委ねることは、神の手に委ねることと同じです。

 聖霊によって生まれた方は(1章35節)、聖霊によってバプテスマを受け(3章22節)、聖霊に促されて活動をし(4章14・18節)、聖霊ごと自分のからだを神の手の中に常に委ねておられます。ある種の悟りと言っても良いでしょう。不正義の世にあって、正義とは何でしょうか。神の手の中へと常に自分の全てを置く。実は自分の側におられる神に委ねる。その心持ちで生きることが、ルカ文書の示す義です。イザヤ書53章に描かれた救い主の姿を、ルカ福音書・使徒言行録は強調します(使徒言行録8章32-33節)。自分を殺している人も、殺害の実行中に赦すという義人です。この義は、一般的な正義というものをゆるがせにしています。悪人がのさばってしまうかもしれないからです。しかしこのような義人を、つまり人生の十字架を黙々と担い続ける義人を、神は必ずよみがえらせてくださいます(24章26節・46-47節)。

 「正しい」(ディカイオス)という単語は、ルカ文書で特徴的な使われ方をしています。一つは、イエスを「正しい人」「義人」と呼ぶという特徴です。本日の箇所もそうですが(47節)、その他にも使徒言行録3章14節・7章52節・22章14節などでもイエスを義人と呼んでいます。神の子/キリストではなく、義人と呼ぶ場合があるのです。義人は、ルカの教会が重んじていたイエスのための肩書きです。

もう一つは、クリスマス物語の脇役たちです。ザカリヤ・エリサベト夫妻(1章6節)、シメオン(2章25節)は幼子イエスの誕生を喜びます。あの赤ん坊を歓迎する人は義人です。その意味ではマリアもヨセフも羊飼いも義人です。Christmasは「Christキリスト・Mass礼拝」という意味です。イエスを礼拝する人も義人です。だから、来週登場するアリマタヤのヨセフという議員や(50節)、ヨーロッパ系初の受浸者・ローマ人百人隊長コルネリウスも(使徒言行録10章22節)、イエスに従う礼拝者という意味で義人と呼ばれています。

ところが、自分自身を「正しい」と思っている人は義人となれません(15章7節・18章9節)。義人であるかどうかは、すべて他人が決めることです。究極的には、神のみぞ知る領域です。イエスも含めて今紹介した義人たちは自分で自分を義人と任じた人たちではありません。人々や神によって義と認められた人たちです。義認も人の手の中・神の手の中に委ねられています。これらの義人たちを神は必ずよみがえらせてくださいます(14章14節)。

正しい人が虐げられながら沈黙を強いられていることは、正義をゆるがせにしています。しかし、その人たちが復活させられるということで、神は均衡を保っています。イエス・キリストは、よみがえらされた義人の第一号なのです(使徒言行録3章15節)。 

義人イエスの潔さがローマ人の百人隊長を感動させました。マルコ福音書ではイエスの神を呪う絶望の叫びが百人隊長に「神の子告白」をさせます。ルカ福音書はそれを180度変えました。イエスの神への従順な一言が百人隊長に「義人告白」をさせました。「さて百人隊長はこの出来事(単数)を見ながら神を賛美し続けた(未完了過去)。曰く、『本当にこの人は義人であり続けていた(未完了過去)』」(47節私訳)。彼は義人イエスを礼拝しています。イエスが他の死刑囚のように自暴自棄にならない。むしろ常に神の手の中に自らを置き続けたことが、死の瞬間に明らかになったからです。新共同訳が正しく訳出しているように、48節は「これらの(諸)出来事」と複数ですが、同じ表現の単数形「この出来事」が47節で使われています。百人隊長は、最後の一言を聞いて、その一言を語るイエスを見て、「本当に、この人は義人だった」と言って、神を賛美し続け、神に栄光を帰し続け、神を礼拝し続けました。

これに対して十字架刑の光景に関して集まっていたエルサレムの住民たちは、「これらの(諸)出来事」を見て、胸を打ちながら自宅に帰ります。彼ら/彼女たちは、総督官邸での裁判から、ゴルゴタの丘への途上、三人の死刑囚の言葉、日食、イエスの最後の絶叫、そしてローマの百人隊長の賛美、これら一連の出来事をすべて見渡して、胸を打ち・嘆きます(27節「泣き女」とは異なる動詞)。エルサレムの住民は、一連の冤罪事件・イエスの十字架刑に直接の責任を負っています。バラバを救いイエスを殺した責任です。「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」(18章13節参照)。神に義と認められて帰宅する悔い改めが、すでにこの時点から始まっていることを示唆します。

ペトロがペンテコステの日に、このエルサレム住民に向かって「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またキリストとなさったのです」(使徒言行録2章36節)と語っています。この言葉が人々の胸に刺さって、バプテスマを受ける人・教会員になる人が多く起こされ、キリスト教会が設立されました。ルカ教会は、そのことを知っていて十字架を再現します。胸を打ちながら帰った人々の中から、将来の教会員が生まれたのです。

多分ペトロは、「実は自分もその群衆の中に居た、隣にはユダも居た、自分たちもイエスを殺す側に回った」ということも語ったと思います。49節「イエスを知っていた全ての男性たち」が、ルカ福音書にだけ付け加えられているからです。以前申し上げたように、マルコ福音書の「男性弟子が皆逃げた」との記事をルカ福音書は省いています。また使徒言行録はユダの死を十字架前としていません。本日の箇所もマルコ福音書の「女性弟子だけが目撃した」との記事を変えて、男性の知人も全員目撃したのだと言っています。歴史の事実としては、男性弟子はいなかったのでしょう。しかし、信仰の真実としては、ペトロもユダも他の弟子たちも、全て十字架を見たのです。復活のイエスが、出会ってくださって手足の釘の跡や脇腹の槍の跡を見せた時に、彼らは、自分たちが十字架に磔にした現場に連れて行かれたのでした(24章38節)。

黒人霊歌の中に「あなたもそこにいたのか」という有名な歌があります。十字架のもとに立ち尽くすことが誰でもできることを教える歌です。全ての人に他人を犠牲にする罪・不正を見過ごす罪・悪に加担する罪があります。時空を超えて、わたしたちは十字架の下手人です。ペトロたち男性弟子たちも、復活の主に罪を赦されて、主を十字架に架けて自己保身を図ったという罪を悔い改める機会が与えられました。赦された時に初めて、自分の罪の深さと恵みの大きさが分かります。放蕩息子の譬え話が示している通りです。

「あなたがたが殺したイエス――いや、わたしもその場にいてイエスを殺す側に回ったのだが――そのイエスの赦しはわたしにも及んだので、あなたがたにも及ぶのだ。共にイエスを礼拝しよう。義人イエスによって、義と認められよう。自分の正義を振りかざさない生き方。他者に評価を委ね、他者に頼る生き方に悔い改めよう。互いの弱さでつながり合う交わりを作ろう」。三回イエスを否定した、無様なペトロがこのように語る時に、説得力が生まれます。

ガリラヤからイエスに従ってきた女性弟子の名前を、ルカ福音書は省いています。マルコ福音書によれば、マグダラのマリア、イエスの母マリア、サロメの三人の女性です(マルコ福音書15章40節)。イエスの母マリアを重視するルカ教会がなぜ省略したのかは不思議です。ルカ版のクリスマス物語はマリアを主人公としています。あえて匿名の効果を狙っているのだと推測します。つまり、それにより、すべての女性たちが含まれるという効果です。

このような記述も、ペンテコステ以来の初代教会の現実を映し出しています。ガリラヤ地方もユダヤ地方もない、中央/周辺間の差別もない。ユダヤ人もサマリア人もない、いわゆる「混血」差別もない。ユダヤ人もギリシャ人/ローマ人もない、民族差別もない。男性も女性もない、男女という単純な二分法もない、性差別もない。著名な人も市井の人もない。健常者もしょうがい者もない。教会においては、全ての人は義とされた罪人です。全世界の人々は、イエスによる「赦しの祈り」の対象者です。すべての人は委ねる生き方に招かれています。そのことに自覚的である人が、教会の礼拝をかたちづくっています。

今日の小さな生き方の提案は、時空を超えて自分自身を十字架の場面に置くことです。自分がイエスを殺したと考えることです。イエスは無力にも殺人者たちに身を委ね、それによって神への従順を示しました。神はこのイエスを復活させられました。それは天上の者・地上の者・地下の者がすべて「イエスは主/義人/神の子/救い主である」と賛美をし、栄光を神に帰すため、礼拝者となるためです。神による義認(絶対的な肯定)をいただいて、邪悪なこの時代から救われましょう。