その人に触れ ルカによる福音書5章12-16節 2016年8月28日礼拝説教

1907年、大日本帝国、明治天皇の名において名前の無い、一つの法律が制定されました。1931年に「癩予防法」と名付けられ、1953年日本国となった後に「らい予防法」と改称された法律です。ハンセン病患者の隔離を合法とするものでした。この法律に基づいて早くも1915年から、隔離されていた療養所では優生思想に基づいて、患者への断種・不妊手術を条件にした結婚という慣例が横行し、人工妊娠中絶や新生児への殺害すら行われたと言われます。ハンセン病が遺伝しないにもかかわらず。

このような人権侵害を支えていたのは、人々の差別意識に基づく具体的な排除の運動です。1930年代全国各地であった「無癩県運動」は、患者を摘発して強制的に療養所に送り、県内からハンセン病患者をゼロにすることを目指しました。そして患者たちは、周囲の差別に悩まされる家族に頼まれ、戸籍を書き換えられ、死んだことにされて、別の名前で療養所に隔離されることもありました。いないことにされたのです。

世界的には1941年に特効薬プロミンが開発されていました。ハンセン病は治るのです。また1950年代から、ハンセン病患者への偏見と差別を解消しようという運動が国際的に広がっていました。しかし、日本では1996年にやっとこの「らい予防法」を廃止する法律が制定されたのです。ほんの20年前のことです。わたしたちは古代の聖書の世界を決して嘲笑うことができません。同じような反省をもって、イエス時代の人々の日常と重ね合わせたいと思います。

2000年前のパレスチナでは旧約聖書の中心部分・律法(創世記から申命記まで。Torah)が、日常生活を律する法律でもありました。その中のレビ記13-14章に、「らい予防法」と同じ考え方が記されています。なお新共同訳聖書が「重い皮膚病」としているのは、原語ツァラアトはハンセン病だけを指していない、もっと広い意味の皮膚病だからです。新改訳は「ツァラアト」とします。

この箇所には、ハンセン病であるかないかの判断基準や、医者ではなく祭司という宗教者が判断をする権限を持っていることが記されています(レビ記13章2節以下)。そして一旦ハンセン病であると判断された患者は、「わたしは汚れた者です。わたしは汚れた者です」と公に告げなくてはなりません。「その人は独りで宿営の外にすまねばならない」(同45-46節)。

このようにハンセン病患者の隔離は合法化されていました。しかも、祭司の判断によって、宗教上の清い/汚れている、神聖なる者/罪深い者という烙印が押され、人々の差別意識が助長されるようになっていたのです。祭司は共同体から人を排除する権力を持っていました。汚れているとされた患者に触れた者は、祭司に密告されるかもしれません。患者と一緒に町の外に放り出されるかもしれないので、人々は積極的に患者を排除しました。「汚れ」は伝染ると信じられていたのです。

ルカ福音書に戻ります。イエスを探し当て、町の中に入ってきたハンセン病患者は、すでに法律違反をしています(12節)。彼は「わたしは汚れている者です」と二回以上公表し、町の外に出なくてはいけないのです。しかも、彼は全身の皮膚に症状が出ていたのですから、見た目にもすぐに分かったはずです。彼がイエスに会うまでに、この町の人々は有形無形の圧力で彼を追い出そうとしたことでしょう。

差別を受けている当事者は、声を上げにくい状況に追いやられます。人並み外れた勇気がなければ、当事者は発言できません。だから殻に閉じこもらされがちなのです。「自分は罪深い男と呼ばれても良い」という風に諦めさせられる、これも差別構造の一環なのです。シモン・ペトロが「わたしは罪深い男だ、それでもう結構」と言いました(8節)。しかしハンセン病患者は「わたしは汚れている者です」とは言いません。この法律そのものがおかしいからです。

彼は堂々と町に入り、イエスを探します。そして見つけ出し、ひれ伏して頼みます。「主よ、あなたが望む(セロー)ならば、あなたはわたしを清くすることができます」(直訳)。回りくどい願いです。「治してください」ではなく、「あなたが望むならば」と言って、イエスの意思を問題にしていることが分かります。彼が問うているのは、この法律のおかしさをイエスがどのように考え、どのようにすべきと考えているのかです。ハンセン病患者であれ神の子であり、平等なはずの人の子であるはずです。それなのに勝手に汚れた者と決めつけられ隔離され排除されて良いとする法律について、あなたの意思はどこにあるのかと患者はイエスに問いただしています。この非常に重い問いの前に、わたしたちも立たされています。

イエスは手を伸ばし、その人に触れます。言葉を発する前に、この行動に出たことが、彼に対する答えになっています。触れるということは、「自分も法律上汚れているとみなされても構わない、この男性と一緒に町から追い出されても良い」という意思表示だからです。汚れは伝染ると信じられ、ハンセン病も接触によって感染ると考えられていたからです。

さらに「触る(ハプトマイ)」という単語について深掘りしてみましょう。この単語をマルコは用い(マルコ1章41節)、ルカはそのまま踏襲しました。しかし、使い方が違うと思います。ルカは元々ギリシャ人で、当時一般で使われていた広い意味でハプトマイを用いていると思います。マルコはギリシャ語が苦手で、ルカはギリシャ語が母語なのです。

ハプトマイの辞書の第一の意味は、「自分自身を括りつける」「つかむ」です。ここから派生して、「深い交わりを持つ」「従事する」、あるいは「把握する」「理解する」という意味に広がります。「触れる」という意味ももちろんあり、そこから「到達する」「実行に着手する」という意味にも広がります。ちなみに本多哲郎は、「触れる」を「抱きしめる」と訳しています。

イエスが言葉に先立って、ハンセン病患者に触れたことは、彼との強い連帯感を示すものでした。自分自身をこの事柄に括りつけ、法改正に従事する決意を示す行為でした。そして、患者のことを深く理解することでした。今までの苦難の人生を抱きしめ、町に出てきた勇気をたたえ、二人は人格的交わりを言葉無しで成し遂げたのでした。黙って抱き合うその行為がどれほど長かったのか、聖書本文からは分かりません。

その後、イエスは言葉でも答えます。「わたしは望む(セロー)。あなたは清くされなさい」(13節。直訳)。この答えは、彼の問いかけに真っ直ぐに答えています。おかしな法律についての意思を問う彼に、イエスは自分の意思を語ります。わたしもこの法律を変えたいということです。そしてイエスも法律違反ぎりぎりの意思表明をします。「(神によって)清くされなさい」。

イエスは、「祭司が清い/汚れているという判断をしうる神学」の問題を指摘しています。唯一神だけが人を清い/汚れていると判断できるいのちの主です。そして、神が創った被造物はすべて極めて良いのですから、汚れているいのちなどというものはありません。神が清いと言っているものを、人間が、仮にそれが祭司という宗教者であっても、人間ごときが汚れていると判断してはいけないのです。患者に向かってイエスは、「あなたはただ神によって清くされているということを確認しなさい」と、聖書の信仰に基づいて語りました。

すると、悪霊や熱病と同じく、ハンセン病が彼から出て行きました。イエスはその人を清いと判断したのではなく、その人を清めてしまいました。なぜなら、その人は生まれつき清いからです。すべての人は生まれながらに神の似姿であり、神聖な存在です。途中で病気になろうが、関係無いわけです。イエスの行動と言葉によって、当時の法律が「天賦人権説」に立っていないことが批判されています。どんな人も個人として幸福を求める権利があります。このことは人類普遍の定めです。ハンセン病を理由に町から追い出してはいけません。

さて次のイエスの指示はさまざまに議論を呼ぶところです(15節)。問題ありありの祭司のところに行って、問題ありありのレビ記14章の法律の規定通りに、共同体復帰のための「清めの儀式」を施してもらえと言うからです。イエスは法改正を目指さないのかと疑える記述です。

イエスはしたたかな現実主義者であると思います。理想としてはこの法律そのものが廃棄されるべきですが、人々の理解が追いついていないことを良く知っています。祭司制度の堅牢さをよく知っています。法律の枠内での解決を図り、まず元患者の共同体復帰を実現させようとします。そのために、自分が治したということを伏せさせます。祭司が反発するかもしれないからです。法律には治癒のされ方は清めの儀式を受ける要件になっていませんが、念のため何も言わない方が安全です。権力者を善行に方向づけるためには。

法律の改正はイエスの生きている間には成し遂げられませんでした。彼はソクラテスや孔子と同じく本を書きませんでした。旧約聖書の法律の明文での改正は、新約聖書を書くことであり、それはイエスの弟子たちが行ったのです。イエスは大きな方向性を行いで示し口頭で伝えました。弟子たちはハンセン病患者と共に生きた師匠を思い出し、福音書において法律を改正したのです。「後法は先法に優先する」わけです。浄/不浄の法律は一括してイエス・キリストによって廃棄されました。イエスが結論となる理想を示し、弟子たちが人々の理解の速度に合わせて文書化して、段階的に法改正をしていったということです。多くの人びとが新約聖書の真理に気づいていった時に、世論が天賦人権説を受け入れたのです。そこに数百年・数千年必要でした。

まず本当に困っている当事者の救済。問題の多い法律の下でできることを権力者にさせる。その後、社会に横たわる根本的な問題を、同時代の人々と共にゆっくりと、法律を少しずつ変えていくことで解決していくことが必要です。新約聖書という新しい法律があることは、日本においても確かに影響しました。日本のキリスト教は少数者ですけれども、すべての日本のハンセン病療養所に教会は設立されております。これは他の宗教に無い現象です。理由は、新約聖書のイエスがハンセン病患者と共に生きたから、それを新しい法律としているからです。らい予防法廃止運動にもキリスト者は関わっていきました。

おそらく様々な問題ありありの法律についてもわたしたちは同じように対処しなくてはいけないのでしょう。「あなたの敵を愛せ」という命令が新約聖書において信者にとっては法制化されているので、安保法制は廃棄されなくてはいけないとわたしは思っています。ただし、理想は掲げつつもすぐに実現できるはずはありません。その問題を同時代の人に根気よく伝えながら、少しずつ変えていく努力が、悪法をなくしたいと思う人に必要とされます。

今日の小さな生き方の提案は、理想を高く掲げること。そしてそれと同時に今自分のできることを小さくても行う現実主義者になることです。できることから突破していくのです。たとえばまず偏見から取り除く。これは今からできる実践です。世の中で困っている人の声を聞く。少し努力が必要です。解決してくれと法律を作っている人に告げる。大変ですが少しずつしてみましょう。