その業を信じなさい ヨハネによる福音書10章31-42節 2014年2月9日礼拝説教

「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い身を結ぶ・・・このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」(マタイ7:17、20)。良い人(真の預言者)と悪い人(偽の預言者)を見分ける方法を、イエスはこのように言いました。要するに「結果がすべて」ということです。これはマタイとルカに記されている言葉ですが、わたしたちの今日読んでいる聖句についても重なり合う、同趣旨の言葉であると思います。今まで、良い羊飼いと悪い羊飼い、羊飼いと強盗などの対比を考えてきたからです(10章全般)。

政治の世界は「結果がすべて」なのだそうです。「結果責任」という言い方は政治にはあてはまります。どれだけ人格的にすばらしい人であっても、どれだけ良い言葉を語り、優れた公約をしても、何を結果として残せたのかということが重要です。小泉政権以来の「劇場型政治」は多くの人に多くの印象や感動を残したかもしれませんが、結果として社会に何を残したのか、そこで判断されるべきでしょう。実によって木を見分けることが必要です。格差の拡大、教育統制、日米軍の協同の強化という美味しくない実を食べさせられているわたしたちに必要な知恵です。

政治の世界の格言にヒントを得ながら、さて信仰の世界において「結果がすべて」ということはどのような意味において用いられるべきでしょうか。イエスが、「自分を信じなくても構わないが、自分のなした業(行い/労働)を信じなさい」と言っている言葉をどのように理解すべきでしょうか(38節)。イエスは結果に注目せよと言っています。結果が神の求める「良い業」であるのなら、イエスは神から遣わされた者・神の子だからです。

わたしたちは「結果がすべて」という考え方をとても慎重に用いなくてはいけないでしょう。極めて冷たい表現です。結果に至るまでの過程がまったく評価されていないように聞こえます。まず注意点を述べます。その上で、積極的な意味づけを読み取っていきたいと思います。

注意点の一つは、ヨハネ福音書が「しるし(奇跡)」(41節)を見て信じる人々を批判しているということです(2:23-24)。「結果がすべて」と言う時に、「しるし(奇跡)」は除外して考えなくてはいけません。カリスマ性のある人物による虚仮威しの類のパフォーマンスは、現代における「しるし(奇跡)」に似ています。ここには英雄待望や権威主義への批判があります。知名度やマッチョな発言を参考に指導者を選ぶことの愚かさを繰り返さない注意が必要です。

さらなる注意点は、ヨハネ福音書が弟子の数の増減を気にしていないということです。増えることが良い結果、減ることが悪い結果とは考えていません。イエスでさえ弟子を減らしてしまったことがあるからです(6:66)。ここには「成果主義」「効率主義」への批判があります。教会はイエス・キリストの福音を告げ知らせ、イエス・キリストの愛を証するための集団です。それは信者を獲得するという狭い意味の業ではありません。「資本主義社会における効率の良い拡大再生産」ということが直ちに聖書の教える良い結果というわけではありません。教会と株式会社は違うのです。

教会を含む現代社会は、今申し上げた二つの注意点/誘惑に常にさらされています。これから申し上げる「結果がすべて」「その業を信じなさい」ということは、以上の意味では言っていないということを予めお含みおきください。

イエスの勧める「結果がすべて」ということは、自分の聖書の解釈を自分自身の生き方で表現するということです。かいつまんで言えば、愛するということです。愛を語る聖書をどう読んで、どのように愛を生きるか。そこにその人そのものが現れ、その現れたもので人は評価されるということです。愛するということができているかどうか、その点だけは結果で判断されます。ここに「結果がすべて」の聖書的・積極的意味づけがあります。

今日の聖句に照らして、イエスの行動(業)を模範例として、それと同時にユダヤ人権力者たちを反面教師として、愛するということについて考えていきましょう。

愛するということは暴力を棄てることです。ユダヤ人権力者はイエスを取り囲んで(24節)威圧し、石で撃ち殺そうとします(31節)。そしてイエスを殺すために聖書を用います(33節)。これらはすべて暴力です。暴力には三種類あります。①狭い意味の暴力、②言葉による暴力、③態度による暴力です。①の暴力は、相手の身体に危害を加える行為です。ここでは、石を投げつけてイエスを殺そうとしています。これは狭い意味の暴力です。最も一般的で分かりやすい暴力と言えます。②の暴力は、相手の身体ではなく心を傷つける暴力です。「神を冒涜している」(33節)という誹謗中傷は、言葉による暴力です。名誉毀損という人権侵害です。③の暴力は、相手に恐怖を与えて、自分の支配下に置こうとする行為です。8章に登場した女性の恐怖を思い起こしましょう。ひとりを大勢で取り囲むことは、身体に直接危害を加えていません。仮に無言でなされたら、言葉による暴力とも言えません。たとえば「無視」というものは典型的に③の暴力です。

イエスはあらゆるかたちの暴力をここで被っています。暴力こそ愛の反意語です。①の暴力に関して言えば、ここでは合法的な暴力でさえも批判されています。ユダヤ人権力者には、人を死罪と定める力がありました。そして石打の刑で処刑する権限もありました(レビ24:14-16)。しかしその判断が間違える場合もあるのです。合法的な国家的暴力は二つあります。戦争と死刑です。どちらも愛の反意語として斥けられるべきものです。政府も間違えることがありえるし、裁判所も間違えることがありえるからです。イエスの十字架を見れば、国家権力に間違える可能性があることは明らかです。

この場面イエスは相手に対して石を投げつけ返すことをしませんでした。そうではなく聖書の解釈によって議論をしました。権力者たちは、「イエスは神を『わたしの父(アッバ)』と呼んだ、それは神と自分を同一視している、人間は決して神にはなりえない、それゆえに自分自身という人間を神とする神冒涜の罪を犯している」と主張しました。

イエスは詩編82編6節を解釈して、自分が神冒涜を犯していないことを主張します。これは大変な努力です。まったくの多勢に無勢、そして相手は凶器の石を持っているし、強大な権力を持って取り囲んでいます。孤独と恐怖にさらされながらも聖書の一節をもって、イエスは穏やかに毅然として反論していきます。この非暴力的な方法こそ、暴力にさらされている者たちの採るべき態度です。

詩編82編(旧約920頁)は多神教的な匂いのする詩です。旧約聖書には唯一神教というものが時代を経ていくうちに成立していった跡が見えます。この詩は最も多神教的な表現を採っている箇所です。不正な権力者たちを神々の間の合議によって裁く神の姿を描いているからです。「不正な権力者たちも神々のように正しく裁判を行うべきだ」ということが82編全体の言いたいことです。この多神教的表現は、三位一体の教理と重なるものがあります。イエスは、アッバと呼ばれた神との合議体をかたちづくるからです。

「わたしは言う。あなたたちは神々である」(34節)。この言葉をイエスはひとまず自分自身を指して言っています。「アッバと一心同体であるわたしは神の子であり神である」という意味で、詩編82:6を引用しています。自分は神の言葉を受けた人たち/神の言葉が実現した人たちの一人である、そのような意味で神々の一人であると考えています(35節)。

自分が神から派遣された神の子であり神々の一人であるということに基づいて、イエスは「今まで自分が行ってきた業を思い起こして信じなさい」と言います(36-38節)。もしその業が愛でないならば、イエスは神ではありえません。神は愛であるからです。イエスは「結果がすべて」と言います。愛については結果がすべてです。差別を受けていたガリラヤ地方の者を弟子とすることは愛の業です(1章)。結婚披露宴を手助けすることは愛の業です(2章)。国会議員を諭し弟子としたこと(3章)、差別されていたサマリア人と交わり、行政官の息子を癒し家族ごと弟子としたこと(4章)、38年間病気で苦しんでいた人を治したこと(5章)、一万人以上の人を満腹させたこと(6章)、陰謀に悪用されて殺されかかった女性を助けたこと(8章)、目の見えない人の名誉を回復させたこと(9章)は、すべて愛の業です。これらの愛の業をイエスは暴力的な支配者と対峙していく中で行ってきました。彼らは神殿の利権に群がる権力者たちでした(2章以来)。だから、権力を委ねられている者たちこそが愛を行うべきであるという主張がイエスにはあります。そこに、詩編82編引用のもう一つの趣旨があります。

「不正な権力者たちよ、あなたたちは神々である。あなたたちも神の似姿である。隣人を愛するために創られている。自分の神の子性を取り戻せ。愛するということによって神の子であることを示せ。不正な権力者たちよ、あなたたちは神々である。神の仕事である政治を担うからだ。厳粛な委託を受けていることに畏れを感ぜよ。愛するということで、神に栄光を帰せ。あなたたちも自分を神の子であると任じて、神の業を行なえ。それは決して神冒涜ではありえない」。イエスは自分の真似をするように、愛を行うように聖書を用いて権力者たちを招いています。ここにわたしたちの模範があります。聖書を、敵を含めて隣人を活かすために用いるのです。

ユダヤ人権力者たちはイエスの言葉に反発し逮捕し処刑しようとします(39節)。イエスはからくも逃げて、原点に返ります。名誉ある撤退です。いのちの危険を感じたら逃げるべきなのです。イエスもヨハネからバプテスマを受けた場所に逃げたからです(40節。1章も参照)。すごろくは振り出しに戻りました。裸一貫の旅、ゼロからのスタートがまた始まります。恐らく滞在中に、散り散りに逃げた弟子たちが少しずつ集まったのでしょう。また、ヨハネの弟子だった者たちもイエスの弟子となっていったようです(41-42節)。この後日談も印象深いものです。イエスのかたちづくった信頼のネットワークの伸縮自在ぶりが現れているからです。

イエスの始めた愛の交わりづくりは教会の模範です。教会においては、こと「愛」に関して結果がすべてです。愛するということを教会内外で行ったか、それによって判断されるべき集団です。世の中で不条理の苦しみに遭っている人と共に生きているのか、利権に群がる権力者たちの不正をただしているのか、暴力を棄てて互いに尊重し合っているのか、聖書を読み聖書を生きているのか、愛に関しては結果がすべてです。

イエスは愛と正義を貫いて、ある時は敢然と立ち向かい、ある時は飄々と逃げながら信頼のネットワークを自在につくりつづけました。弟子は多い時もあれば少ない時もありました。教会もまたそういうものです。数に一喜一憂するものではありません。むしろ「愛」を生きているか、そこに常に敏感であるべきです。そうすればその他の事柄は結果としてついてくるものです。