ただ一つ知っていること ヨハネによる福音書9章24-34節 2014年1月5日礼拝説教

2014年を迎えました。年末年始も首相の靖国神社参拝や、恒例となって大手報道も批判しない閣僚らの伊勢神宮参拝が行われました。暗い世相です。そのような中にあっても、わたしたちはいつものように復活の主イエスを地道に礼拝し続けたいと思います。それこそが暗闇の中で光を灯し続けることだからです。昨年に引き続きヨハネ福音書を少しずつ読んでいきましょう。

先週は、目が見えなかった人の両親に対する証人喚問がなされたところまででした。被告人であるイエス不在のまま、会堂における裁判が続きます。イエスが神からの人間(33節)ではないことを実証するために、本日の箇所で目が見えるようになった人が再び呼び出されます(24節)。「神の前で正直に答えなさい」という言葉は、裁判の前の宣誓です。直訳は、「神に栄光を与えなさい/帰しなさい」。古代の裁判は神の意思を問うものでした。事実や証拠などは二の次です。裁かれている人が宗教的な意味で敬虔であるか、それとも敬虔でないかということを基準に、無罪か有罪かが決められるのです。そういうわけで、今日の箇所においても「(宗教的な意味での)罪人」(25・31節)か「神をあがめ(敬虔)、その御心を行う人」(31節)かどうかが問われているわけです。

この判断をする権限を持っているのは、宗教的指導者でありかつ政治権力も握っていた人々です。「モーセの弟子」(28節)を自認する人々が、モーセが書いたと信じられている律法(「トーラー」または「モーセ五書」)に記されている法律部分を解釈します。また、書かれていない部分についてもラビたちは法律を付け加えて行きました。「口伝律法」と言います。たとえば徴税人という職業は律法には書かれていません。書かれた当時存在しない職業だったからです。そのような場合、ラビたちは自分たちの時代にあった解釈をします。たとえば「異教徒に触れる人は汚れる。徴税人は異教徒ローマ人と仕事柄接触する。それゆえに徴税人の家に入ったら一日中汚れる」などの法律を付け加えます。その根拠は、「実はモーセが口伝えでそのような内容も弟子たちに伝授し、現在にまで伝言が続いているのだ」と考えることにあります。モーセの権威をラビは受け継いでいると考えるわけです。こういうたぐいの慣習法を口伝律法と言います。イエスの生きていた時代には、この口伝律法はまだ口伝のままでした。100年後ぐらいに、口伝律法がまとめられ書物の形になります。

文字となっている律法(モーセ五書)と、膨大な数の慣習法である口伝律法を、ユダヤ人権力者たちは任意に当てはめて裁判をおこなう権限を持っていました。彼らこそ「神の意思」を知っているとされていた人々なのです。ここには三権分立の無い社会の恐ろしさが現れています。新たに法律を作ることも、法律からはみ出た広い裁量をもって行政を行うことも、法律を解釈して裁判を行うことも、すべて「最高法院(サンヘドリン)」と呼ばれる機関が自在に行えたのです。彼らは「罪人」を拡大再生産する人々です。自分たちにとって都合の悪い人物を、「罪人」と宗教的に認定することで社会的に抹殺することができる、これは恐ろしい力の濫用です。「わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」(24節)というユダヤ人権力者たちの宣言の意味するところは、強大な権力の誇示であり、また「元盲人」への恫喝です。自分たちの思うような証言を語れという圧力です。さもなければお前も罪人として抹殺するぞという脅しです。

この圧力に対してすでに「わたしはある」(9:9)という態度を身につけている元盲人は、毅然として穏やかに反論します。「イエスが罪人かどうかは知りません。ただ一つ知っていることは、目の見えなかったわたしが今見えているということだけです」(25節)。見事な答えであり、勇気のある証言です。先週の両親の言葉に引き続き、この答えは権力者たちの悪・罪を暴いています。イエス殺害という悪巧みのために行動しているために、隣人の名誉回復を喜べない者たちが悪いのです。

権力者たちはもう少し誘導尋問を続けます。彼らはどのような証言を求めていたのでしょうか。安息日に対する言及はもはやありません。安息日の労働かどうかは、もはやどうでも良いことがらになっています。イエスの行為は安息日に禁じられていた労働です。イエスを安息日禁令違反で訴えても、民衆のイエスに対する人気は衰えないことを権力者たちは知っています。いやむしろ人気は増すばかりなのです(マコ2:27)。

問題は、目が見えるようになったことが、イエスが神に願ったことを神が聞いた結果の出来事なのか、つまり神が起こした奇跡なのか、それとも呪いや魔術のようなものなのかということです(26節)。ですから、元盲人が「イエスがいかに神を常日頃冒涜していたか」とか、「イエスがおよそ神に祈らずに悪霊を呼ぶ呪文などによって目を見えるようにした」とかの証言をすることを、彼らは期待し強制していたのです。そもそも、彼らがイエスを死刑に処したいと考える理由は、安息日禁令違反よりも、イエスが神を「アッバ(わたしの父)」と呼んで自分を神と同一視しているという神冒涜にあります(5:18)。神冒涜という罪名ならば、民衆も権力者側につくはずという読みがあったのでしょう。

「あの方が、わたしの目に練薬をつけました。そして指示通りに目を洗うと見えるようになりました。このことは以前に申し上げたとおりです(15節)。なぜその時の証言を聞いてくれないのですか。なぜ二度も会堂に足を運ばなくてはならないのですか。両親とは無関係に、個人としてわたしはあの方の弟子です。だからナザレのイエスに不利な証言などはいたしません。あなたたちもあの方の弟子になりたいから、何度も同じ奇跡物語を聞きたいということですか。そんなはずはないでしょう。あなたたちはあの方を殺そうとしているのだから。」

この言葉に権力者たちは激怒します。およそ力を濫用する人は感情を用いて威嚇します。負の感情の発露もまた力の濫用の一種、暴力の一種です。28節「彼らはののしって言った」という記載は、発言の内容だけではなく、「隣人をののしる」という発言の様子そのものの問題を言い当てています。もちろん発言内容も権力者の傲慢を露骨に物語っています。しかしそれ以上に大声で怒鳴って相手を貶めることこそ大問題です。なぜなら相手を軽視する人だけが相手をののしることができるからです。これこそ「尊重」「仕え合うこと」など、イエスのかたちづくっている信頼のネットワークのモットーに反する言動です。

この威嚇に対して、元盲人はきわめて冷静です。「あなたたちはイエスが預言者の一人であり神から遣わされたということを知ろうとしないから、『イエスがどこからの者か知らない』、『彼は神を冒涜している』、『彼は罪人だ』などと言いのけます。その態度こそが不誠実であり、まったく不思議です。知っている事実だけを積んでいけば、結論は明らかではないですか。わたしは目が生まれつき見えないことで宗教的な意味で貶められていました。両親もそうです。そこにイエスが現れ因果応報を否定し、わたしたちの名誉を回復したのです。そして彼はわたしの目を見えるようにしました。神は義人の祈りを聞く方です。罪人の願いなどを聞く方ではありません。イエスがわたしとわたしの両親の名誉を回復したい、わたしの目の開きたいと神に願っていたのは明らかです。神がその願いを聞いたのだから、イエスは神を崇める敬虔な方であり、神の意思を地上で実現する方です。義人です。聖書のどこにも目の見えない人を見えるようにしたという奇跡は書いていません。だからどのように解釈するのも自由でしょう。目が見えるようになったわたしから見れば、イエスは神から遣わされた方です。そうでなくてはこのような出来事は起こりません。」

この言葉にユダヤ人権力者たちはさらに怒ります。まったく反論できないからです。理屈の上でも、人々の共感を得る語り方の点でも元盲人は彼らに優っています。そして裁判という場面でここまで能弁に説得力をもって語る胆力・意志の力はすばらしいものです。

知においても情においてもかなわない時、卑劣な人々は最も醜い言動に出ます。相手の人格を攻撃する言葉です。「お前は罪の中に生まれたのに我々に教えようとするのか」(34節)。こういう言葉を吐く人間にはなってはいけません。彼らから見れば「元盲人」は依然として生まれながらの罪人です。因果応報という迷信を振りかざし続けて相手を非難しているからです。そして力を濫用して、この人を会堂追放の刑罰に処したのです(22節参照)。彼らは隣人の市民権を不当に奪いました。このような行動は罪そのものです。

今日の物語も、わたしたちが見習うべきでない人々と、見習うべき人を例示しています。ユダヤ人権力者たちは反面教師であり、元盲人はわたしたちの模範です。わたしたちは見せかけの対話路線、卑劣な誘導尋問、第三者の言葉を悪用して隣人を貶めようとする行為、つまりは悪巧みをすると愉快であるという誘惑に勝たなくてはいけません。この嘘っぱちの裁判はイエスを処刑する裁判の前触れです。そして、イエスの弟子たちが教会・信頼のネットワークを形作ろうとするときに直面する迫害の前触れです。

ユダヤ人権力者のような言動は現在の社会においても見られます。特に三権分立していない社会(日本も含む)にあって、権力は腐敗します。政教分離していない社会(日本も含む)において、宗教が政治に利用されさらに腐敗は悪化します。教会の外だけではありません。教会自身もまた「罪人」を定義づけるときに気をつける必要があります。聖書を用いて隣人の名誉を貶めてはいけないのです。教会形成と言いながら悪巧みをしてしまうような倒錯・罪を、わたしたちも犯してしまう可能性を認める方が神の前に正直な態度です。どうすればより良く生きることができるのでしょうか。元盲人がそのヒントです。

一つは毅然として悪巧みに抵抗する意思を持つことです。三権分立だけでは駄目なのではないかという指摘があります。「四権目」としての市民参加が求められます。三権を監視し補充する市民の活動です。住民投票や、行政交渉や、立法行為のための草の根会議、選挙・裁判の監視などなど、主権者としての行動です。「わたしはある」という人になることがその基礎です。

二つ目は、「自分の知っていること」に集中することです。多くの情報を得られることはわたしたちの時代の利点です。ネット選挙が解禁されました。その反面、情報の扱い方を知らないと悪巧みに誘導されかねません。ネット、メール、SNSには注意が必要です。キリスト者市民として一つの筋を持っていないと翻弄されます。ただ一つの筋とは、自分が知っている事実です。神がわたしを愛していること、わたしは隣人を愛することを期待されていることです。元盲人はこの筋を貫き、イエスの解放に感謝し、イエスに不利な偽証を避けたのです。この集中が信頼を広げる鍵になります。逆説的ですが自分の救いの経験に集中して感謝するときに、数多くの隣人を愛することができるのです。隣人を愛さない方向の悪巧みを斥けることは、神の愛との類比によってなされるからです。「神は名誉を回復してくれた、だから隣人の名誉を回復しよう、だからそれと反対の方向の悪巧みを見抜いて避けよう」ということです。唯一良い方の良い行いに集中しそれを基準に歩む一年・一週間となりますように。