なぜ泣いているのか ヨハネによる福音書20章11-18節 2014年11月9日礼拝説教

今日の箇所の主役はマグダラのマリアという弟子です。おそらくこの人物は初代教会の柱と目される中心的な信徒であり、ペトロと拮抗する実力者だったと推測されます。復活のイエスを最初に見たのは誰かということについて、ペトロか(マルコ福音書、パウロの手紙)マリア(ヨハネ福音書)かで論争があるということは、両者の拮抗関係や対等の競合を示しています。ペトロと競合していたからこそマグダラのマリアは不当に貶められ、偏見に満ちた人間像を張られ続けています。今日は、彼女の名誉を回復させることから、お話を始めます。

マグダラのマリアは、「七つの悪霊を追い出して病気をいやしていただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」(ルカ8:2、マコ16:9)と紹介されています。マグダラは地名です。マリアは旧約聖書の偉人ミリヤム(モーセの姉)のギリシャ語読みです。ちなみに16節はギリシャ語で「マリアム」と綴られています。

これだけの情報しかないのですから、悪霊を追い出され、病気を治してもらったことをきっかけに弟子になった人とだけ考えれば良いのです。ところが、後世、偏見に基づいたいくつもの論理の飛躍をほどこして、マグダラのマリアは独特の特徴を備えて西洋美術などで描かれることになります。

第一の飛躍は、このマリアをルカ7:36-50に登場する「罪深い女」と同一人物であるとみなすことにあります。食卓の場面で、泣きながらイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、香油を塗った女性です。この出来事は、ヨハネ福音書ではベタニアのマリアによる行為とされています(ヨハ12:1-8)。同じマリアという名前の連想から、罪深い女はマグダラのマリアと、決めつけられました。

第二の飛躍は、「女性の場合、罪深いという形容詞は、『性的に問題のある』という意味である」という思い込みです。特に聖書読者・キリスト教徒にそのような思い込みが強いものです。その思い込みをヨハネ8:1-11の物語も強化してきました。いわゆる「姦淫の女性」の物語です。

こうしてマグダラのマリアは娼婦だったという、根拠薄弱な憶測が、ある種の定説としてキリスト教史の中で定着し、今日に至っています。職業差別・性差別を前提にしながら、マリアを貶めるためにつくりあげられた誹謗・中傷・名誉毀損です。

ヨハネ福音書はマリアの名誉を回復させる手段の一つになります。彼女は復活のイエスを最初に見た弟子なのです。ペトロではなくマリアが最初に見たという情報は史的信ぴょう性が高い話です。後代の教理に適合しない物語の方が、史的信ぴょう性が高いからです。ペトロが最初に見たという方が、後代の教理に適合しています。ペトロが初代教皇とみなされるほどに権威を持つからです。

本論に入ります。十字架刑の後、三日目の朝マリア(と他の二名の女性)は墓に行きました(1節)。そして墓石が取り除けられていることを知って、ペトロとヨハネのもとに来ます(2節)。今日の場面では、再びマリアは墓の近くにいます(11節)。ペトロとヨハネが戻ってきた後に、マリアは再び墓に行ったということでしょう。それはもう少し詳しく見るためです。マリアは泣きながら身をかがめて墓の中を見ます。自分が埋葬し安置したイエスの遺体が、置いた場所にありません。マリアは絶望します。ヨハネと異なり、見ずに信じることはマリアにはできませんでした。

その場所には天使が二人いました。天使は墓の中から声をかけます。「女の人、なぜ泣いているのですか」(13節)。新共同訳の「婦人よ」はあまりにもジェンダーまみれの訳語です。女偏に箒という漢字「婦」は、「女性のみが掃除をすべき」という性役割分担を刷り込んでいるので、避けるべきです。これは「婦人連合」が「女性連合」に改称した理由でもあります。

墓の中からの呼びかけは神の声です。天使は神の伝言者と観念されているからです。しかしマリアは天使を認識できていません。おそらく園丁が二人墓の中に居ると思っています。マリアは、ペトロとヨハネに言った言葉を、もう一度繰り返します(2節参照)。「わたしの主が取り去られました(上げられました:ギリシャ語アイロー)。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」(13節)。

マリアは後ろにも人の気配を感じて振り向きます(14節)。もう一人園丁が立っているのが見えました。逆光だったのでしょうか。朝日を背にして顔がよく分かりません。「女の人、なぜ泣いているのですか。誰を捜しているのですか」(15節)。ほとんど同じ問いです。マリアは園丁の一人だと思い、「あなたが運んだのなら教えてください。わたしが引き取ります(上げます:ギリシャ語アイロー)」となじります。そして再び墓の穴の方を見ながら泣き始めます。

ここには、神の声を認識できない人間のあり方が描かれています。墓の穴の方向に体を向けている限り、正面に神の使いがいても分かりません。正面から「泣く必要は無い」と言われても涙は止まりません。後ろからイエスが声をかけても分かりません。「泣く必要は無い」と言われても涙は止まりません。墓の穴の方角とは、絶望の方角です。体の向きが180度変わらない限り、どんなに慰めに満ちた言葉かけであっても意味がないのです。

イエスがいつものように「マリアム」と呼びます(16節)。するとマリアは、聞き慣れた呼び方で本名を呼ばれ、本心に立ち返ります。もしかするとイエスがよみがえらされてそこに居るのではないかと信じ始めたのです。からだを完全にイエスの方に向けました。マリアもいつものように「ラボニ」と呼びました。「わたしの先生」という意味です。ラビと同じ意味ですが、少し大げさな言い方です。おそらくマリアがイエスを呼ぶ際には、ラビではなくラボニを常に用いていたのでしょう。

ここには墓穴の方角とは逆の方向に向き直ることの大切さが言われています。闇ではなく光を見るということです。絶望の方向にからだを向けながら、後ろをちらちらと振り返る程度ではだめなのです。希望の方向にからだごと向き直ることが大切です。生き方の方向転換です。そうでなくては、どんなに良い言葉をかけられても、どんなに良い問いだて(希望を持つためのきっかけとなりうる問いかけ)を与えられても、何も聞こえないものです。墓穴の方角は、過去の絶望を象徴します。朝日の方角は、将来の希望を象徴します。

さらにもう一つ、イエスとマリアがいつもの呼び方で相互に呼び合っていることの大切さも、ここでは言われています。このことは、十字架で殺された方が、三日目によみがえらされた方と同じ人物であるということを示しています。さらに言えば、よみがえらされた方はガリラヤで苦しむ人々と共に生きた方です。徴税人・娼婦という職業差別を受けていた人、罪人とレッテル貼りをされた人の仲間です。差別されたサマリア地方に入り、サマリア人と仲間となった方です。エルサレムとガリラヤを何回も往復し、私腹を肥やすユダヤ人権力者たちを批判した方です。愛を教え、愛を行った神の子です。その結果、十字架で処刑されたのでした。クリスマス、愛の生涯、十字架、復活はすべて一つの出来事です。

マリアは、このイエスの旅を共にしていました。その間、何回もラボニと呼び、マリアムと呼ばれてきたのでした。両者の間に人格的な交わりがあります。それは長期間かけて築き上げてきた関係性です。この関係性に基づいて、マリアはイエスが復活したことを目で見て耳で聞いて信じました。このこともわたしたちに示唆深いものです。

見ること・聞くことについては了承されながら、触ることだけは禁じられました(17節)。おそらくこの理由は、「見ずに信じる」ことが最高だという価値観のせいでしょう。見て・聞いて信じることは、次善の策、やむをえない代替えです。さらに触ることは禁止事項という考えがあります。この三段階は、キリスト信徒が置かれている状況を説明しています。

復活のイエスは天に上っています(17節)。だから教会の中でさえもイエスを見ることはできません。この状況下では見ないで信じることが勧められます。しかし例外的に直接ではなく間接に教会ではイエスの姿を見、イエスの声を聞くことができます。それが礼拝の場面です。主の晩餐式でパンを分かち合う時に信徒の交わり越しにイエスの姿を見ます。聖書を読む時にイエスの姿を文字越しに見ます。説教の時に説教者を透かしてすだれ越しにイエスの声を聞きます。それを見て・聞いて信じることは、次善の策です。イエスそのものではないからです。ぎりぎり赦されるのはそこまでであって、神そのものに触ることは許されません。触って信じるということは、信仰ではないからです。自分が触ったものを良いものと考えるのは、納得なのであって信仰というものではありません。

マグダラのマリアと復活のイエスの出会いは、多くのことをわたしたちに教えています。その中で今日の小さな生き方の提案は、弾力性を持つことと継続性を持つことです。

弾力性理論というものがあります。大災害の被災者や、暴力を受けた被害者たちが持っているしたたかさを肯定的に捉え直すという考え方です。ゴムまりはもっとも押しつぶされ変形されている時に、もっとも跳ね返る力を秘めるものです。悲劇が大きければ大きいほど、反発する跳躍力も大きくなります。それが弾力性というものです。被災地で被災している人々と復興・回復の計画を建てるとき、災害前には思いもよらなかった奇抜で建設的な、しかも全体にとって益になる企画・活動が生まれることがあります。従軍慰安婦とされた人々や、その他の性暴力被害者が勇気ある告発をした時に、大きく世の中が良い意味で揺さぶられ、新しい地平が拓かれたのです。戦時性暴力は、平時の性差別と深く関わるという知見が得られたからです。男女の力関係の不均衡と力の濫用を許す社会全体の有り様が問題なのです。

体ごと向きが変わる体験と、弾力性とは関係します。十字架と復活が一体のものであることと、弾力性は関係します。わたしたちの身に降りかかる悲劇は、わたしたちを希望の方角におもいっきり跳ね返らせるための神の計画なのです。それを復活信仰と呼ぶのです。イエスの神が、わたしたちの神だという信仰、イエスを復活させた神が、わたしたちをもよみがえらされるという信仰です。

理想的にはわたしたちはこの復活信仰を見ないで身に付けることが望まれています。しかし、人間は弱いものです。次善の策がなければ信仰を持つことは容易ではありません。そこに教会における礼拝という儀式の必要性があります。聖書や信徒の交わりの存在意義があります。直接触ることはできませんが、間接的に復活のイエスを見る手段が、用意されているのです。

わたしたちが互いに名前を呼びかけ合い、主の食卓を中心に給仕をし合い、神の言葉を読み聞くときに復活のイエスは立ち現れています。この営みを自分のペースで地道に継続するとき、神との人格的交わりが確立されます。共に礼拝をし続けましょう。そうして永遠のいのちを輝かせましょう。