ぶよとあぶ 出エジプト記8章12-28節 2015年5月24日礼拝説教

今日は第三の災いと第四の災いの話です。ぶよとあぶが大発生してエジプトの人々を苦しめたというのです。この二つは、大元の言い伝えとしては一つの物語だったと言われます。ヤハウェがイスラエルのためにエジプトを虫によって撃ったという伝承が、P集団(12-15節)とJ集団(16-28節)に流れ、それぞれなりに記述したと学者たちは推測します。この類の物語を「重複記事」と呼びます。

この分析は話の大筋を把握するために役に立ちます。少し振り返りながら、大筋を理解してみましょう。最初にあったのは杖が大蛇/鰐になったという「前置き」です(7章8-13節)。王宮でアロン・モーセと魔術師たちが腕比べをしました。両者ともに杖を大蛇に変えることができましたが、アロンの大蛇が全部飲み込みました。人々には何の被害もありません。

次に、第一の災いでナイル川が血に変わり魚が死にました。魔術師もナイル川を血に変えることができました。エジプトに住む全ての人々に被害がありました。しかし王宮は安全でした。第二の災いではナイル川から上がってきた蛙が大量に死にました。魔術師も蛙をナイル川から上らせることができました。この時には王宮にまで被害が及びました。

第一と第二の災いにはナイル川という共通する部分があります。魚も蛙もナイル川に生息している水に群がる生き物です。その意味では、前置きの大蛇/鰐も水に群がる生き物です。ここには天地創造物語との対応があります。創世記1章20-23節の「創造の第五日」に創られた水の中に住む生き物たちが、前置き・第一の災い・第二の災いで登場しています。以前申し上げたとおり、アロンの杖から変化した「大蛇/鰐」は創世記1章21節の「大きな怪物」と同じ単語です。水が産み出す生き物というまとまりがあります。

だから第三の災いと第四の災いにおいては、「創造の第六日」との対応があると推測するのが自然です。第六日には、地が生み出す生き物が列挙されています。家畜、這うもの、地の獣です。「ぶよ」と「あぶ」は共に虫です。そして地に住む虫もこの六日目に創られた仲間です。

アロンが土の塵を打ち、塵がぶよになったという言葉は(12-13節)、地が虫を生むということを含んでいます。また、魔術師が「これは神の指です」と告白しているのは(15節)、「天地創造の神の業を読み直せ、読者よ悟れ、この記事は関連しているぞ」という指示なのです。

このように鳥瞰し巨視的に見渡すと、ファラオとの交渉ごとが少しずつ先に進んでいることが確認できます。読者はファラオによって焦らされていますが、しかし落胆してはいけません。出エジプトという出来事は必ず達成されるものです。実際、最初はアロンとモーセを相手にもせず歯牙にもかけなかったファラオが、王宮にまで被害が及んだ時に条件交渉に応じました。わたしたちは第三・第四の災いにおいても、「何らかの進展」を期待できます。あるいは、「新たな論点の提示」や、「さらなる条件交渉」を期待して良いのです。

たとえば、魔術師はとうとうアロンと同じことをすることができませんでした(14節)。これは第三の災いとなって初めて起きた事態です。たとえばファラオは、「エジプト国内での礼拝の自由を保障する」と言いました(21節)。これは第四の災いとなって初めて示された許可内容です。神の救いの出来事は少しずつではあるけれども、着実に前に進んでいます。ここにわたしたちへの教えがあります。取り組んでいる事柄が滞っているように思えるその時にも、救いの出来事は進展しているということです。取り巻く状況がまったく変わらないように見えても、がっかりする必要はありません。歴史を導く神の指は今も働いているからです。

さて細かい言葉の意味についても探っていきましょう。何と言っても、「ぶよ」と「あぶ」について考える必要があります。なぜこのような似た生き物に翻訳したのかの理由は、冒頭に申し上げた「重複記事」という仮説に引っ張られているからだと思います。

この二つの単語の意味は不確定です。古代以来、翻訳は揺れに揺れています。わたしの結論は、「ぶよ」(キンニム/キンナム)については「虱(しらみ)」という翻訳を採り、「あぶ」(アロブ)についてはあぶだけでなく、蝿/蚊でも構わないというものです。「群がる羽虫」がアロブの意味合いです。

虱という訳語は、最も古いギリシャ語訳旧約聖書の立場です。その意味で説得力があります。確かにぶよよりも虱の方が「地の塵」から変身した生き物としては素直でしょう。また、「襲った」(13・14節)と新共同訳は訳しますが、直訳は、「ぶよは人と家畜の中に生じた」です。ぶよが体の外側から飛んできて人体を刺したというよりも、しらみが頭髪などにわいて出てきて不快感を覚えたということの方が、ヘブライ語の表現にも適っています。

虱の災いは蛙の災いよりも直接人間と家畜の体に働きかけ、不快感を与えています。今回初めて「家畜」も被害の対象となりました。災いの程度が強まっている、だからファラオへの影響力が強まっていると考えるべきです。微細なもの過ぎて魔術師にとって難易度が上がっているのでしょう。Pの強調点は「ヤハウェがファラオの心をかたくなにさせている」というものです。どんなに強い働きかけも神が逆に働きかけているのでファラオは第三の災いで話し合いすらしていません。

同じ虫の害をJはどのように語るのでしょうか。〔脇道ですが、「あぶ」を「野獣の群れ」と解する人々も古代には居ました(ヨセフス)。20節にある「エジプト国中を荒廃させる」のに、虫程度では力不足なのではと考えた翻訳家・解釈者たちもいたのです。〕

Jは礼拝の自由と、民族差別という主題をここに持ち込みます。沖縄の基地の問題を「安全保障」という単語ではなく、「沖縄差別」という視点で切り込むのと似ています。

エジプトのファラオはなぜ早朝ナイル川に下りてくるのでしょうか(7章15節、8章16節)。学者たちはファラオが神官としてナイル河畔で国家儀礼を上げていたと推測します。新嘗祭のようなものです。政教一致した古代エジプトにおいて、ファラオは神の子であり大祭司です。ファラオとモーセの会見場所は、出エジプトは礼拝に関わるということを印象づけます。

ヤハウェの主張も礼拝の自由を求めています。「わたしに仕えさせよ。さもなければ羽虫の大群が国じゅうを覆う。そうなれば誰も強制労働=ファラオに仕えることはできなくなる。ただしゴシェン地方だけは別だ。わたしはゴシェン地方に隔離されたヘブライ人の真ん中に座す。そこには羽虫の大群は来ない」(16-19節)。

Jは創世記のヨセフ物語と関連付けます。創世記43章32節には、「エジプト人はヘブライ人と共に食事をすることを忌み嫌った」とあります。また創世記46章33節には、「ヤコブ一家(ヘブライ人の祖先)はエジプト人が羊飼いを忌み嫌ったためにゴシェン地方に住まざるをえなかった」とあります。すべての民族に固有の文化があります。宗教・礼拝儀式は文化の代表例です。ヘブライ人たちは、羊などの動物を一頭丸ごと燃やして犠牲に捧げるという礼拝をしていました(21-25節。創4:4、8:20、12:8、22:13、35:7)。

それに対してエジプト人はせいぜい肉片ぐらいの大きさしか神々に供えなかったようです。また、先週も登場したクヌム神という創造神は羊の顔を持っていました。その姿のままで羊を燃やす犠牲祭儀はエジプト人にとって忌み嫌われるものだったのです(22節)。こうして力を持った先進国のエジプト人たちは、寄留のヘブライ人たちを民族的・宗教的・職業的に差別をし、隔離政策を取っていたのです。古代版アパルトヘイトです。

神は抑圧された者たちの神です。馬鹿にされ押し込められ隔離された場所が守りの砦とされます。米国の黒人教会と似ています。ゴシェン地方だけが羽虫の害から守られたということは、過ぎ越しの予兆(12章)・「贖いのしるし」です(19節)。危機の只中に救いがあります。イエス・キリストが茨の冠をかぶせられ、ヤハウェが柴の中に座す方だからです。

ファラオは「あなたたちの神にこの国の中で犠牲をささげるがよい」(21節)と最大限の譲歩をします。話し合いの大きな成果です。この提案には一理あります。いわゆる共存政策は一つの理想です。今日のパレスチナ問題の解決の一つでもあります。同じ土地に住みながら、それぞれの文化を尊重しようということだからです。

モーセとアロンは強い口調でこのファラオ提案を拒否します。そこに欺瞞性があるからです。「現に差別が国家的に保証されている中で、礼拝の自由のみを保証しても、リンチにあって殺されるだけだ」という主張は的を射ています(22節)。さらに言えば、エジプトに居続ける限りはファラオ崇拝と強制労働=ファラオに仕えることは継続させられます。それではヤハウェに仕えるということは実現しません。上下関係と差別がある限り「多様性の尊重」は画餅です。

こうしてファラオは二度目となる発言「ヤハウェに犠牲をささげるがよい」を言います。しかも今回アロンとモーセは「荒れ野で」という場所の指定も引き出しています(23-24節。4節と対比参照)。確実に話し合いは前に進んでいるのです。そのことへの感謝なのか、前回の反省なのか、モーセは羽虫の大群を飛び去らせます(25節)。蛙のように殺さずに、元々の場所に返してあげます。その代わりかもしれませんが、一言念を押します。「二度と・・・我々を欺かないでください」(25節)。

モーセの話し合いの能力が高くなっていることに注目です。初め現人神ファラオの前に立つことすら恐れ多いと感じていた老羊飼いが、徐々に出エジプトの交渉を担う人物へと成長して行っています。通訳のアロンの協力も良かったのでしょう。ここにわたしたちの模範があります。

それに対してファラオはどうでしょうか。第二の災いの結び11節で「心を重くし(直訳)」、「心をにぶくし(関根正雄訳)」、つまり失望してやる気を失くしたファラオは第四の災いの結びにもまったく同じ反応をとります(28節)。今回のモーセは前回よりも情理にかなった話し合いをしました。無用に相手を傷つけないように運びました。譲れないところは主張もしました。それに比べてファラオには何の成長もありません。単純にアロンとモーセに手玉に取られたことで心を重くしているのです。物語はファラオの幼稚さを印象づけて、次に進んでいきます。

今日の小さな生き方の提案は、先週に続き話し合いの能力を高めようというおすすめです。その際に対話相手に過度の期待をしてはいけません。「信頼すれども信用せず」です。自分は成長しても相手は成長しない場合がありえます。仮にそうであっても話は前に進みます。なぜなら神が救いの計画を少しずつ進めておられるからです。わたしたちは心を重くすべきではありません。むしろ心を高く上げてあらゆる場面で話し合いによる解決をはかっていくべきです。