ますます豊かに 創世記30章37-43節 2019年6月9日ペンテコステ(聖霊降臨祭)礼拝説教

本日の箇所は昔から(前3世紀のギリシャ語訳から)解釈者を悩まし続けています。第一に、一貫性の問題があります。どのようにして直前の文脈と筋が通るように訳せるでしょうか。特にラバンが白くない羊を依然所有しているように読めることが問題です(40節)。第二に、信ぴょう性の問題があります(38-39節)。本当に縞模様を見ると縞模様の羊が生まれるのでしょうか。疑問だらけの箇所ですが、ある意味ペンテコステにふさわしいかもしれません。不思議な言葉、不思議な風が、教会というものを成り立たせているからです。

「ヤコブは彼のために生のポプラ(LiBNeh)の枝とアーモンドとプラタナスを取った。そして彼はそれらのうちの白い(LaBaN)皮を剥いだ。その枝の上にある白(LaBaN)を露わにしながら」(37節)。ラバン(LaBaN)を出し抜く行為が、語呂合わせによって始まります。これが読み解きの鍵です。ラバンという単語を、人名「ラバン」と訳すべきか、それとも形容詞「白い」と訳すべきか、工夫次第で意味が通りやすくなるかもしれません。前回までのところ、ラバンの群れはすべて白い羊となりました。ぶちとまだら、灰色の羊は、ヤコブのものとなるはずでしたが、すべてラバンの息子たちに不正に譲り渡されました。ヤコブは、ラバンの白い羊を飼い続け、ただ働きが再開されます。

しかしヤコブは、白い羊と白い羊の交配によっても白くない羊が生まれることがあることを知っていました。元々両者が混在しているということは、その証拠です。メンデルの法則に従っても、両親の上の代で白くない祖父母がいれば、白くない孫の羊は生まれえます。隔世遺伝です。だからラバンの羊を飼っていても、必ずヤコブのものとなる白くない羊は生まれえます。メンデルの実験の場合比率にして3対1です。羊の出産頭数は同時に2、3頭だそうです。一回の出産で1頭生まれるか生まれないかの縞・ぶち・まだらの羊。ヤコブの課題は、どうすれば少数の白くない羊を多数にしていくかということにあります。

ラバンはたかをくくって、ヤコブに自分の群れをすべて任せていました。息子たちの群れとは距離を保って交配させないようにもしています。それはラバンがヤコブを監視しにくい状況でもあります。本日の箇所でラバンは共に働いていません。すべて白い羊なのだから、その中で年間少数の羊がヤコブのものとなっても構わない。かなりの長期間、「債務奴隷」としてヤコブを縛りつけておけるとラバンは思っています。

「そして彼は皮を剥いだ枝を、羊が飲むために来る水飲み場にある水槽の中に、群れに向き合うように置いた。そして羊は飲むために来た時に発情した。そして羊はその枝に向かって発情した。そして羊は縞・ぶち・まだらを生んだ」(38-39節)。ヤコブにはもう一つの知識がありました。羊が皮を剥いだ枝を見たり、水槽に入れて水を飲ませたりすると枝に向かって発情するという傾向です。物語は「媚薬・恋なすび」(14節以下)の主題を引き継いでいます。このことには科学的根拠がありません。むしろ呪術の一種と推測する学者もいます(岩波訳)。呪術は当時の人にとっては立派な科学です。少なくともこの物語を言い伝えていた人々にとって、わかりやすい説明だったのです。優秀な羊飼いヤコブは羊を増殖させる方法に長けていたと物語は主張しています。

白い羊同士が盛んに交尾をし4分の1の割合で白くない羊も増やしていきます。本文は縞模様の枝を見ると、縞模様の羊のみが生まれたかのように読めますが、実際には白い羊も生まれたのだと思います。そちらの方が最初は多数だったことでしょう。元々全ての羊は真っ白だったのですから。多数の白い羊が生まれても、自分だけが得をする策がヤコブにはあります。

「そして子羊をヤコブは分けた。そして彼はその羊の顔を、白い羊の中の縞と全ての灰色のものに向けて与えた。そして彼は彼のために別に群れを置いた。そして彼はそれらをラバンの羊に接して置かなかった」(40節)。40節は「解釈の十字架」です。新共同訳も非常に苦労しているのが分かります。

私訳のように考えれば理解できなくもありません。つまり、生まれた子羊たちを二分したのではなく、生まれた子羊たちと元々のラバンの羊たちとを分けたと考えるのです。枝の力で生まれた子羊と、白い(「ラバンの」ではなく)羊の中の縞とぶちの羊とは、同じ時期に生まれた同じ羊たちのことであると理解します。ヤコブは生まれつき精力が強く成長が早い子羊を取り分け、その元気な若い羊を白同士にはしないようにして交配させていったというわけです。

「そして成長が早い羊が発情する全ての時に、ヤコブは枝を羊の目のために水槽の中に置いた、その枝によって発情させるために」(41節)。羊には通例一年に一度の発情期がありますが、呪術的な力を得た羊は年に何回も発情します。新たに生まれた子羊の多数(4分の3)は生まれつき力を得ています。その羊にさらに枝によって力を与え、発情・出産の回数を増やすのです。

取り分けた子羊は最初「白い羊3:白くない羊1」の割合でした。しかし全ての羊を白くない羊に向かわせることで、ちょっとでも黒い部分をつければ良い。よく考えてみれば真っ白な羊をつくる方が難しく、人類は元々白くない羊を徐々に白くさせていったのでした。ちょっとでも黒くさせることは簡単です。そして枝の力があるので、多くの羊は精力が強いのです。

もちろん、取り分けた羊から真っ白で元気な羊も生まれます。おそらくヤコブは、かなりの数の真っ白い羊をラバンの群れに返さず、高価な値をつけて別の商人に売ったり、別の遊牧民と物々交換をしたりしていたと思います。彼は昔から商談に長けています。そして男女の使用人や、ラクダ、ロバ等の別種の家畜を外部から得ていたのでしょう(43節)。証拠の隠滅にもなるし、財産を増やすことにもなる。正に一石二鳥です。

またもちろん、真っ白で弱い羊も生まれます。これまた3対1の割合で、4分の1は弱い羊となります。そのような羊が生まれた場合、ヤコブは密かにラバンの群れに返します。それが42節に書かれている事態でしょう。「そして羊が弱さを見せる時、彼は置かなかった」。ヤコブは、ラバンの群れを世話している時には強壮剤である枝を使いません。多分ラバンの群れについては共同管理している井戸を用いて水を飲ませているので、水槽を使いその中に枝を入れることができなかったと思います(29章8節参照)。ですから、ラバンの群れに合流させた弱く白い羊もまた強壮剤無しに過ごすということになります。

強壮剤を用いた新しい羊たちのみの交配は、六年間に渡って秘密裏になされたことだと思います。主にヤコブが頻繁にラバンの家の近くでラバンの羊の世話をし、秘密の群れの方は主にラケルと子どもたちに世話させる。ヤコブは、勤勉に働く自分の姿をラバンに見せながら、別にしていた隠し財産を家族の力で増やします。あたかもラバンに騙されて、渋々ただ働きを続けているように見せるのです。そのためラバンはヤコブの計略に気づきませんでした。毎日のように見ている自分の白い羊には何の異常もないように見えます。真っ白な羊の群れは数を保っています。ヤコブは、ラバンの群れに一年ごとに生まれる少数の縞・ぶち・まだらの羊についてちゃんとラバンに報告し合法的報酬として自分の群れに加えます。その一方で白い羊も含む自分の群れが爆発的に増えていることは、六年間隠していたわけです(31章38節参照)。

「そして弱さを見せるものはラバンに属するものとなった。そして成長の早いものはヤコブに(属するものとなった)」(42節)。風来坊の居候としてラバン家に来てからヨセフが生まれるまでの十四年間、ヤコブはラバンを出し抜いて自分の財産を得る策を練っていました。とうとうその計画が実行され、実際に六年間で効果を上げたのでした。独り両親の家を離れ、20年が過ぎていました。自分が所有する様々な白黒模様の強い羊たちの大群を前に、ヤコブは満足します。画一化された白一色は弱い。一つとして同じ模様が無い、この多様性こそが群れの強さです。それはペンテコステのメッセージでもあります。

「そしてその男性は、非常に・非常に広がった(パラツ)。そして多くの羊と、侍女たち・男奴隷たち・ラクダたち・ロバたちが、彼に属するものとなった」(43節)。この大成果は神の約束の実現です。「そしてあなたの子孫は地の塵のようになる。そしてあなたは西へ・東へ・北へ・南へ広がる(パラツ)」(28章14節)。このようにしてヤコブが、その勢力を拡大することはラバンを出し抜いてなされるべきです。なぜなら、ラバンの勢力が広がった(パラツ)のはヤコブを出し抜いた結果だったからです(30章30節)。動詞パラツが、物語に縦糸を与えています。その男性・「滅びゆく一アラム人」(申命記26章5節)であるヤコブが、どのようにして大富豪となったのかが大切な筋です。神の約束と、ラバンに由来する苦労と挫折、これらを経ての財産取得です。

またパラツは、後の物語の伏線になります。老ヤコブはエジプトに移住することになります。その地でイスラエルの子孫は迫害されればされるほど広がりました(パラツ。出エジプト記1章12節)。ラバンのヤコブに対する搾取は、エジプトのイスラエルへの搾取と重なります。この「奴隷の家」であるエジプトからの脱出と、約束の地カナンでの増え広がりが神の民の救いです。

パラツは、ヤコブの子であるユダの子ペレツの名づけと関わります(創世記38章29節)。双子の兄弟を出し抜いて長男の地位をかちとったペレツは、祖父ヤコブを彷彿とさせます。このペレツがダビデ王・ソロモン王の直接の先祖です(マタイ福音書1章3節)。ソロモンによってイスラエル(ヤコブの別名)は東西南北最大の領土に広がることとなりました。このように、28章14節の神の約束は、ヤコブ個人に対する約束というだけではなく、イスラエルという神の民への約束でもあります。それは新しいイスラエルである、キリストの教会への約束でもあります。縦糸は今を生きるわたしたちにまで及んでいます。約束の地である教会を通して、わたしたちの人生は広がるのです。

ラバンの財産は維持されています。それにも増してヤコブ自身が六年間で得た財産は、「非常に・非常に広がった」のです。まったくの無報酬から始まったことを考えると、驚くべき大成功です。「非常に・非常に(メオド、メオド)」という表現は非常に珍しく、全聖書中6回しか登場しません。稀有な成功であることが示されています。Aramaic Dreamです。

今日の小さな生き方の提案は、「非常に・非常に広がる」という約束を信じることです。復活の主イエスにあって、わたしたちの人生の苦労は決して無駄にはなりません。日常生活において神は自分の隣にいないかのように思えます。狭苦しい場所に押し込められている気がします。しかしどん底を生き抜く「十字架の知恵」として、神は伴っています。

20年かかるかもしれませんが、知恵の神は滅び行くわたしたちの窮地(狭い場所)を広げわたしたちを「広い場所」に伴います。教会で多様な出会いを経験し、実生活で多様な出来事に対応する。新しい知恵と可能性を与えられ、もっと広い世界に飛び出していく。礼拝共同体は、個々の人生が広がるためにあります。ヤコブの神を信じて人生の旅に出ましょう。