よこしまな時代 ルカによる福音書9章37-43節前半 2017年4月9日礼拝説教

本日は教会暦によれば「棕櫚の主日」と呼ばれます。イエス・キリストが首都エルサレムに入った時に人々が棕櫚の葉を振って歓迎したことにちなむ記念日です。イエスはエルサレムで生涯最後の一週間を過ごすことになりました。この一週間を「受難週」と呼びます。今週の木曜日が「洗足の木曜日(ヨハネ福音書版最後の晩餐の日)」。金曜日が「受難日」、つまり十字架で処刑されたことを記念する日です。土曜日は「暗黒の土曜日(よみ下りの日)」。そして金曜日から数えて足掛け三日目の来週の日曜日が「復活祭/イースター」です。教会暦が、一年の中では受難週の一週間を最も重視していることは確認できます。それは古代教会がイースターの日にだけバプテスマを執行していたことからも裏付けられます。暗黒の土曜日には洗礼志願者だけではなく、教会員全員が「キリストのよみ下り」に倣って断食と徹夜の祈りをし、共に死と復活を経験したのです。

古代教会で最初に文書化されたイエスの伝記は、その生涯最後の一週間についての物語(受難物語)であったと言われます。最古の福音書であるマルコ福音書は、「長い序文付きの受難物語」と呼ばれることすらあります。マルコとマルコの教会が福音書を書く前から、受難物語は文書化された物語としてかなりの程度確定されていて(それはマルコの教会の礼拝で用いられていた)、マルコはそれをほぼ丸ごと受容し、その他の部分でさまざまな編集を施し、全体を編纂したからです。

ちなみに受難物語の分量は、マルコ福音書全体の分量の3分の1にのぼります。時間にすれば数年間あったイエスの活動のうち、最後の一週間だけにかなり焦点が当たっていることに気づきます。イエスが苦しみを受け、十字架で殺されたことは古代教会全体にとって極めて重要だったということの証左です。

実際イエスの十字架刑死はキリスト教信仰の中心なのです。イエスが不当な裁判で冤罪を被り死刑判決を受け、鞭打ちの拷問を受け、嘲笑われながら荊棘の冠をかぶせられ、十字架を負わされ、衣服を剥がされ、手足に釘を打たれて十字架に架けられ、罵られながら処刑された出来事。ナザレのイエスは、人間の尊厳を奪い取られながら暴力的な仕方で殺された政治犯・死刑囚です。

この虐殺をどのような意味として考えるのか。特に自分にとってイエスの十字架が何なのかを考え、十字架のイエスを自分の救い主として信じるのか信じないのか。無関係の古代人か、尊敬すべき偉人か。仮に信仰の対象としても、どのような救い主として信じるのかが、常に問われています。

わたしたちキリスト者は、イエス・キリストの十字架を罪の贖いと信じています。伝統的な贖罪信仰とは次のような教理です。

すべての人間には罪(自己中心、支配欲、差別意識)がある。それゆえにこそ、この社会にも罪(支配/被支配の仕組み)がある。2000年前のイエス・キリストの十字架の殺害は、すべての人間の罪の結果のものであり、すべての人間の身代わりのものでもある。わたしのための(わたしのせい/わたしの代わり)十字架である。十字架は、神の子がすべての人間に永遠の命を捧げた行為である。

受難物語はこの教えを礼拝で朗読するために作られました。十字架で絶望の叫びを上げて殺されていったイエスを見た、処刑の責任者であるローマ人百人隊長は、「本当にこの人は神の子だった」と信仰告白をします(マルコ15章39節)。ユダヤ人以外でも「自分がイエスを殺した」という罪を自覚する者こそが、逆に罪からの解放を心から願い、逆転の贖いを受け入れるということの生きた教材です。わたしがイエスを殺した。そのイエスがわたしを救うという、いささかややこしい宗教的救済をキリスト教は伝えています。

マルコ、そしてマルコに続く他の福音書記者(ルカ、マタイ、ヨハネ)は、十字架を頂点とする受難物語に、イエスの活動を接続させました。特にガリラヤ地方でなされたイエスのさまざまな活動や教えをくっつけました。死に様だけではイエスという人物がよく分からなくなるのをおそれ、生き様をも付け加えたのです。福音書よりも先に書かれ、古代教会のあちこちの礼拝で用いられていたパウロの手紙にも、イエスの生き様は一切書かれていないという事情もありました。贖罪信仰は悪い意味の「お題目」になりやすいのです。自己満足の装置に堕してしまって、個人の生き方が問われないならば、宗教はアヘンに成り下がります。だからこそのイエスの活動と十字架の接続です。このような生き方と、あのような死に方は関係があるということをすべての福音書は言いたいわけです。復活したイエスは、ガリラヤで見られると天使は弟子たちに約束しています(マルコ14章28節、16章7節)。

こうしてエルサレムにおける十字架刑死による贖いを信じる者は、そこから遡ってガリラヤでのイエスの活動に倣う生き方へと押し出されます。自分の命を投げ出すほどに利他的だったイエスの命をいただいて、イエスのように利他的に生きるようにと変貌を遂げることが求められています。それが「仕える」というキリスト者の生き方です(マルコ10章35-45節)。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け(従え)」(ルカ9章35節)という先週の言葉は、「イエスに倣って利他的に生きよ。良い意味で変われ。おごり高ぶりふんぞり返るのではなく、跪いて腰をかがめて神と人に仕えよ」という促しです。

今日の物語もその視点から読み解きたいと思います。十字架へと続くイエス独自の活動・利他的な生き方とは何かという視点です。裏返せば、イエスを十字架へと追いやった利己的な生き方とは何かという視点でもあります。つまり、利己的な生き方を推し進める「不信仰でよこしまな時代」の問題と、利他的な生き方とは裏表の関係にあるのです。復活のイエスは、礼拝で福音書を読んでいるわたしたちに、利己的な世相の只中で「利他的に生きよ」と勧めています。それが、永遠の命を輝かせて生きることであり、よこしまな真っ暗闇の時代にあって星のように輝いて生きるということです。

イエス独自の活動の代表的な一つが「悪霊祓い」です。古代人は理由が分からない病気をすべて「悪霊の仕業」と考えました(8章2節)。それらの病気と呼ばれる中には現在発達障害や精神障害と分類されるかもしれないものも含まれます。たとえば、4章31-37節に登場する「汚れた悪霊に取り憑かれた男性」は、アスペルガーのように悪態・暴言・攻撃的な言葉を吐き続けます。また統合失調に似た症状の人物も「悪霊に取り憑かれている男性」として登場しています(8章26-39節)。人々は病気に悩まされるのと同じように、汚れた霊/悪霊に悩まされ、そこから癒されることを望んでいます(6章18節、7章21節)。安易な同定は避けるべきですが、悪霊に憑かれることの守備範囲が非常に広いということだけは確認できます。

このような古代人の考え方は、てんかんについても当てはまります。今日登場している、とある男性の「一人息子」(38節)は、てんかん発作の一部のような症状を起こしています。痙攣し、泡を吹き、ひきつけるという部分です(39・42節)。良い薬が開発されている現代でも強い偏見や深刻な差別が、これらの症状の患者に対してなされています。ましてや古代社会です。今よりも厳しい周囲の目と言葉と態度にさらされていたことでしょう。少年は生きづらさを抱えていました。

実際に命の危険もありうるので片時も一人では過ごすことができません。火の中や水の中に落ちることもありえます。常に父親が同伴しないといけないほどの激しい発作が起こるのだと思います。少年の力は母親や祖父母では抑えきれないものがあったのかもしれません。福祉(国家による生存権の保障、社会権)という考え方がなく、家族だけが介護をしなくてはいけない時代のことです。家族にとっても担いきれない負担となっていたことでしょう。

イエスは悪霊の憑かれているということの守備範囲を個人からさらに広げて、社会の仕組みにまで及ぼしているように思えます。安全網が整備されていない社会は悪霊に憑かれているということです。

そこに弟子には悪霊祓いができなかった理由があるように思えます(40節)。イエスはすでに「あらゆる悪霊に打ち勝つ権能」を弟子に与えていました(9章1節)。だから、ここで弟子が少年の悪霊祓いをできないはずはないのです。物語の内部で矛盾が起こっています。この矛盾を解くには、より大きな悪霊/より大きな主題がここにはあって、個人としての弟子ではなく神の子イエスにしかできない悪霊祓いが行われていると考える必要があります。個人の病気や障害の問題ではなく、その人を取り巻く「信のない、よこしまな世代/種族」(41節、直訳風)の問題、悪霊に取り憑かれている社会の問題です。

悪霊は少年を「ばらばらに粉砕し」(39節「さんざん苦しめ」の直訳)、「引き裂き」(42節「投げ倒し」の直訳)ました。それと同じように、悪霊に憑かれている社会は、人々をばらばらにし、分裂をさせていきます。それが、「信のない、よこしまな世代/種族」の特徴です。元々利己的にできている人々を、さらに利己的に対立させ合うことを、悪霊が推し進めます。「自己責任」「家族が世話するのは当然」という政策は、人々が信頼し合うことを邪魔しています。貧しい勤労者たちが、生活保護を受けている人を非難するという、ぎすぎすした構図を脱する必要があります。イエスもまた、このようなぎすぎすした構図によって、悪霊に憑かれた者の一人として、社会的に抹殺されたのでした。

弟子たちは自分たちだけでこの「より大きな悪霊」を追い出せると考えたのでしょう。彼らは彼らなりに利他的に、個人による個人に対する救済をしようとしています。悪いことではありません。しかし、一人が助ける数には限りがあります。良いサマリア人は一人のユダヤ人しか救済できません。より大きな悪霊に対しては、より大きな祈りが必要です。この類の悪霊は、神の国を望む社会システムの再構築という祈りによらなければ、追い出すことができないのです。福祉国家という制度によって、差別の実態と意識を同時に変えていかなくては、さまざまな難病患者や障害当事者・介護者との分断を克服することはできません。わたしたちはイエスに倣って、利他的な社会の仕組みをもっと創造的に想像しなくてはいけないでしょう。聖霊を受けて、信のある世代/種族に変わることが求められています。

今日の小さな生き方の提案は、「時代の十字架」とでも呼ぶべき課題を見つけることです。教会の語る救いは、個人の魂の救済だけにとどまるものではありません。人々を分断へ誘う仕組みという「より大きな悪霊」を、自分の生きている社会の中で見つけ、悪霊祓いを祈りながら知恵をいただき、聖霊を受けて人々をつなぐ社会を構想することです。利他的な生き方は個人の親切だけではなく、公共社会のあり方を考えることでもあるからです。キリストの体が裂かれた理由は、わたしたちがお互いの部分を配慮し合う一つの体となるためなのです。