わたしたちのように ヨハネによる福音書17章6-19節 2014年8月10日礼拝説教

八月になると戦争と平和について思いを馳せる習慣が日本にはあります。そこに教育効果があるので、良い習慣とも言えます。その反面、「八月だけ考えればよい」という態度や、習慣が悪い意味の慣れ・惰性となってしまう危険もあります。形骸化をもたらすおそれがあるので、ことさらに八月だけを特別視することも考えものです。むしろ常にどこかで起こっている戦争・紛争・武力行使・武力による威嚇に敏感でなくてはいけないでしょう。特に集団的自衛権の行使を認める閣議決定があったのですから、イスラエルという国の行う殺戮にわたしたちも直接関与する可能性が現実味を帯びています。両国が米国を起点にして密接な関係を持っているからです。常に世界に目を向けつつ、同時に日常生活で平和を造りだす不断の努力を普段から行わなくてはいけないでしょう。

八月に平和を学ぶことが、日本においては戦争の悲惨さを学ぶこととほとんど同じ意味で考えられています。いわゆる「日本型平和教育」の特徴がそこにあります。「平和教育と呼びながら内実は戦争教育」と揶揄されるゆえんです。そこに潜んでいる危険があります。

一つは被害者意識が強まり、当事者意識や加害者意識が薄まることです。「国民は騙されただけ、わたしたちは戦争の被害者」という考えを促すことは、個々人の戦争責任をあいまいにするので危険です。同じように「騙され」同じように言い訳を繰り返す可能性があります。本当は騙されたのではなく、わたしたちが担った侵略戦争だったのです。東京大空襲を語る際に、日本軍による重慶爆撃も語られるべきでしょう。沖縄・広島・長崎を語る際に、三光作戦とその延長にある南京ほか住民虐殺・軍強制「慰安婦」も語られるべきでしょう。さらにすべての核実験による被爆者や劣化ウラン弾による被爆者も語られるべきでしょう。漠然とした抽象的な戦争なるものが悪なのではなく、個々具体的な殺人・人権の侵害が悪なのです。国家の名による殺人・人権の侵害であっても同じです。戦争(および死刑)とは国家の名による殺人です。

二つ目の危険は、未来に対する絶望を強めることです。戦争は恐ろしいものだということは真実です。ではどのようにすれば戦争を未然に防いだり、中断させたりできるのか。このことについてほとんど学ばないのが、日本型平和教育の特徴です。そのために、未来に希望を持つことができにくくなり、平和の造り方について考えることを止めてしまうのです。自分の生活とは関係のない、漠然としたかたちで悪とされた戦争と、漠然としたかたちで善とされた平和が頭の中に残されます。

ここに「武力行使によって平和をつくる」という詭弁、「武装することによって抑止力を保って平和を維持する」という詭弁が、入り込む余地ができます。武力によらない平和づくりの具体例を知らない、または学んでいないので騙されていくのです。

数年前、若者の貧困を訴える人の言葉で、「むしろ戦争を望む」という衝撃的な発言がありました。就職難・年金問題・国の多大な借金などなど、こんなに暗い未来しかないのなら、いっそのこと戦争を始めてほしい、そこで兵隊になった方がましだという趣旨の言葉です。貧しさこそ戦争の原因であることの一つの裏付けです。また絶望に基づく断念・諦念・自暴自棄・世界からの逃避こそ、戦争の原因になるのです。

今日の聖句は、武力によらない平和の造り方の具体例について示唆に富んでいます。平和の造り方の第一は祈ることであり、祈りながら世界から逃避しないことです。第二に国の名ではなく神の名を現し、神の言葉を守り・伝えることです。そして第三に、市民社会の模範として三位一体の交わりをこの地上に行うことです。

①ヨハネ福音書17章全体は、神へのイエスの祈りです。この部分はヨハネ版「ゲツセマネの祈り」です。マルコ14:36によると、イエスはこう祈ります。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてくださいください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。ここにはアッバと呼ばれる神への深い信頼が語られています。それと同時にマルコは、イエスのあきらめ感をにじませています。自分の願いではなく神の意志をと祈るからです。十字架に赴きたくない感じです(マコ15:34も参照)。

それに対してヨハネのイエスはもっと前向きです。十字架は不特定多数の人々全員に、自分自身をささげる行為なのです(19節)。十字架で犠牲になるために神から派遣されたと宣言する神の子の祈りは、世に打ち勝つ希望の言葉となっています(16:33)。

死の直前、絶望の闇の中で、イエスは神に祈ります。祈りは絶望に対する抵抗運動です。実に希望を持つ者だけが祈るのだし、祈る者だけが希望を持つのです。祈る者は絶望しません。絶望に基づく諦めが戦争の原因です。それならば逆を行えば良いのです。わたしたちは希望に基づく祈りを神にささげることから、平和を造りだすことができます。

あきらめない精神を提供することは宗教者の社会貢献です。社会の中の役割分担として、わたしたちは「世に属さない」(14-15節)精神性を持つこと、つまり浮世離れすることが必要です。一般的にはあきらめるところをしぶとく踏ん張る根性のようなものです。神の意志の実現という希求する理想があり、その目標に向かって常に体を伸ばして走り続ける原動力は、キリスト者の場合神への祈りにあります。だから祈ることは闇夜をにらみ続けることに似ています。次第に目が慣れてくると、小さな星も見えるようになります。そのようなかたちで希望の光を探すことが祈りです。平和づくりの第一歩は、平和を希求する祈りにあります。

さてイエスの祈りは、世に遺され・世に遣わされる弟子たちのための祈りでした(9節)。今日の聖句全体は、弟子たちのための執り成しの祈りです。わたしたちが希望をもって祈ることができる根拠は、キリストに祈られていることにあります。わたしたちが――神の意志を疑うことが多いわたしたちが――、イエスのように神の意志との合致を信じて希望をもって祈ることができるのは、キリストが先にわたしたちのために祈ってくださっていることにあります。

だから当然、イエスの願いは弟子たちが世界から逃避することではありません。浮世離れをしても良いが、浮世を実際に離れてはだめです(15節)。「世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださること」がイエスの祈願です。この部分は、マタイ福音書の「主の祈り」の一部引用でしょう(マタ6:13)。「誘惑に遭わせず悪より救い出したまえ」。世界に属さない原理を持ちながら(隣人に仕える愛)、世界に対して立ち向かうことが必要です。それは大きく生きる誘惑に抵抗して、小さく生きることです。平和はすべての人が小さく生きることによって成るのです。「足りるを知る」アイヌの知恵と通じます。

②イエスは神の名を人々に示し(6節)、神の名によって弟子たちを守り(12節)、神の名によって弟子たちが守られることを祈ります(11節)。ヨハネ福音書における神の名は、「わたしはある(エゴー・エイミ)」です(8:24・28・58他)。この神の名は、モーセに現れた神の名であり(出3:14。ヘブライ語エフイェ、ギリシャ語エゴー・エイミ)、「主(ヤハウェ)」という良く知られた神の名の原型と推定されるものです。ヨハネ福音書は旧約の「わたしはある」という神の名を、新約において復権させました。

「わたしはある」という名は神の本質を現します。それは「個の自由」です。自分がなろうとする者になる自由を持っているという意味の名前です。イエスは神が自由であることを現しました。風/霊なる神はその意志の通りに吹くものです(3:8)。イエスは弟子たちを「個の自由」という原理に基づいて守り、弁護しました。国会議員も、サマリア人も、病気で死にかけた行政官の子どもも、38年間病気を患う人も、迷信で苦しめられている人も、飢えている人も、嵐で漕ぎ悩む人も、殺されかけた人も、目の見えなかった人もその家族も、ギリシャ人も、死んだラザロも、みな個人として尊重され、「わたしはある」という境地を回復したのでした。唯一の例外はユダかもしれません(12節)。ただし「失いの子」(直訳・田川訳)にも、裏切る自由・自らを失う自由を与えているとも考えられるでしょう。イエスはユダの「わたしはある」を尊重しています。

イエスは自らのいない「中間/聖霊の時代」に、弟子たちが「わたしはある」という境地を持ち続けることを願っています。そして、隣人を解放する一人ひとりになってほしいと願っています。それが16-17節の意味でしょう。聖霊が神そのものであり、真理の霊であり、真理が人々を自由にするからです。この意味で御言葉を守る/伝えるということは、「あなたは個人として神に尊重され愛されている」ということを、人々に語ることです(6・14節)。

国家の名による人権侵害に対して、わたしたちは神の名による個人の尊重を打ち出します。すべての個人を尊重することを生活の中で実践することが、平和をつくるということです。その延長に戦争否定があるのであり、先後関係を間違えてはいけません。ここに戦争を未然に防ぐ道があります。

③こうして信頼のネットワークができあがります。個人として尊重された人々がお互いの信頼と共有する信仰に基づいて共同体をつくることを、イエスは祈願しています。個人主義と利己主義とを混同させて、「最近わがままな人が増えたのは憲法の個人主義のせい」と非難する人がいます。間違えです。個人主義に基づいて利他的な生き方をする人が現にいるからです。真に「わたしはある」という人は、自ら隣人となることができる人です。イエスがそうであり、三位一体の神がお互いにそうであり、それにならって教会も市民社会も成熟するようにと求められています。「わたしのものはあなたのもの、あなたのものはわたしのもの」(10節)とイエスは神と語り合い、「わたしたちのように彼らも一つとなる」(11節)ことをイエスは願っているからです。さらに、「わたしは弟子たちによって栄光化され尊重された」(10節)とまで言って、弟子たちをほめて育てようとしています。あなたにもできるという励ましです。

ここに具体的な平和づくりがあります。足りるを知る人が増えること、「わたしはある」という人が増えること。そのような尊重文化を持つ人々によって成るネットワークができること。上下関係をなるべく排した水平の人の群れが非暴力的に自治を行うこと。そのようないくつもの輪が互いに部分的に重なり合うというイメージの社会です。国家というものの役割を極限まで小さくして、地方分権だけではなく、市民によるネットワークにまで分権していくことです。三位一体の神を模範とする神の国というものはそういうものであり、教会はそれを暫定的・部分的に実現しているのです。ここに戦争を止める力があります。

今日の小さな生き方の提案は、大国間の安全保障による平和維持=小国間の紛争維持の欺瞞性を見抜くことです。そして、小さく生きる一人ひとりが集まることです。その集まりの重なりが国際的に広がり、国境を越えて仲間となり、国家の名による戦争と紛争の後押しを止めさせることです。