わたしはある ヨハネ福音書6章15-21節 2013年9月1日礼拝説教

新共同訳聖書は便利なことに並行箇所を示しています。それを見るとマルコ福音書6:30-52が、ヨハネ福音書6:1-21と同じ内容であることが分かります。著者ヨハネはマルコ福音書を知っていて、「5千人の給食」と「湖上歩行」の記事を書いたのです。先週に引き続き、著者ヨハネの強調点をマルコとの比較を通して浮かび上がらせ、小さな生き方の提案をしたいと思います。

マルコとの違いを三つ申し上げます。一つは行く先が違います。カファルナウムという町です(17節)。マルコではベトサイダです(マコ6:45)。二つ目は「安心しなさい」(マコ6:50)というイエスの言葉がヨハネにはありません。三つ目はイエスが舟に乗っていません(21節)。マルコではイエスが船に乗った時に湖が静かになるのですが(マコ6:51)、ヨハネでは湖の状態についても不明です。この三つを関連付けながら一つずつ丁寧に見ていきましょう。

(1)カファルナウム

ヨハネ福音書においては「王の役人」と呼ばれる領主ヘロデの家臣(高級官僚)が、カファルナウムに住んでいます。「死にかけた息子が生きている」という出来事を通して、家族中でイエスの弟子となったことを以前取り上げました(4:43-54)。

イエス一行は王の役人の家に泊まらせてもらおうとして湖を渡ったのでしょう。こうして放浪野宿の旅を宣教しながら続けていく弟子集団と、定住して放浪集団を泊まらせる弟子集団が、イエスの周りにいたのです。

4:46で「カナ」にイエスが滞在していたとありました。それは2:1のカナの結婚披露宴の出来事を受けています。ここには連鎖があります。一度イエスが行った場所には信頼のネットワークが作られ、次にもそこに泊まることができるという連鎖です。同じように、4章でカファルナウムに拠点ができたので、6章で泊まらせてもらうという連鎖が起こるのです。

伝道というのはこのような連鎖です。顔と顔を合せ、一宿一飯を共にする、そうして信頼関係をつくり、それが連鎖反応を起こしていくのです。ヨハネ福音書が地名を丁寧に扱っていることが分かります。

 

(2)「安心しなさい」の欠如

著者ヨハネは「安心しなさい」という言葉を省きました。そのことは「安心しなくてよい」と言っているようにも読めます。しばしばわたしたちは「イエスと共にいるから安心だ」と考えがちです。そしてそれはキリスト信仰の一側面です。霊であるイエスが一人ひとりのうちに宿っているので安心が与えられるということは、わたしもお伝えしていることです。

しかし著者はそこに切り込んできます。そのような安心・安全は神話に過ぎない場合があるからです。わたしだけは天災や人災に遭わない・わたしだけは大丈夫という妙な安心が悲劇を大きくすることもあるからです。関東大震災や阪神淡路大震災そして今回の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故において、奇妙な安心は決して良い結果に結びつきませんでした。「宗教的な安心」というものの危険性もわたしたちは深く知り悔い改めなくてはいけないでしょう。原発の安全神話というものは悪い意味の宗教性の一種なのです。

著者ヨハネの強調点は「安易に安心するな」ということにあります。現実逃避をする必要はないのです。むしろ、「わたしだ」という言葉に著者は強調点を置いています。なぜなら、「わたしだ」という表現はヨハネ福音書に何度も出てくる鍵語だからです。ギリシャ語「エゴー・エイミ」、英語にすれば “I am”、日本語ならば「わたしはある」「わたしは~である」という言葉です。たとえば4:26「わたしである」、6:35「わたしが命のパンである」、8:12「わたしは世の光である」という表現に、エゴー・エイミが使われています。

本多哲郎訳は今日の箇所に「わたしだ(=神の名)」という注釈を入れています。この意味は、この箇所は「わたしはある」という神の名前として翻訳できるということです。聖書の神は、「わたしはある」という一文の名前で呼ばれることがあります。本日の招きの言葉によれば(出3:13-14)、神はモーセにご自分の名前を、「『わたしはある』という者だ」と語っています。奇妙な感じですが、「わたしはある」という一文が名前であり(ヘブライ語「エフエ」)、この部分をギリシャ語で言うとエゴー・エイミなのです(七十人訳聖書参照)。

ヨハネ福音書は、この「わたしはある」という神の名前を何回も使う唯一の福音書です。新共同訳はそのことをはっきりと意識して翻訳しています。たとえば8:24「わたしはある」と鍵カッコ付きになっているのは神の名という意味です。同様に、8:28や8:58もそうです。

名は体を表します。神の名は神の性質を表します。神は「わたしはある」という性質を持っています。平たく言えばそれは堂々としているという性質です。穏やかであるけれども毅然としている様子です。自分の頭で考えて自分の意見をもって、「アーメン、わたしは言う」と多数の反対者がいても言える、それが神です。イエス・キリストという方に示される聖書の神は、「わたしはある」という方です。

安易な安心よりも「わたしはある」の方が大切だとヨハネ福音書は語ります。嵐の中で何を大切にするのでしょうか。わたしだけは大丈夫という逃避ではなく、恐るべき嵐・困難な現実を見ること、見た上でなお「わたしはこう思う」「わたしはここに立つ」と言い抜く毅然とした態度こそが大切です。イエスを信じるときにイエスにならい、イエスのようになっていくことが一人ひとりに起こります。

 

(3)船に乗らないイエス

この関連で、弟子たちの乗っている舟に乗らないイエスの有り様が意味を持ってきます。弟子たちはイエスを迎え入れようとしたのです。しかしイエスは舟に乗り込みません。そのような時間さえなく、舟は瞬間的にカファルナウムの港に着いてしまったというのです(21節)。19節によれば湖の4-5km沖に舟はいました。それは湖の真ん中ぐらいにあたります。だからここには湖上を歩いた奇跡と、もう一つの奇跡である舟の瞬間移動が書いてあります。逆から言えば、湖が静かになったことが書いていないということです。マルコ福音書では、イエスが舟に乗った時に湖が静かになりました。ヨハネはそれを知っていて改変しています。

かいつまんで言えば弟子たちはイエスなしで航海をしています。そもそも弟子たちは16-17節でイエスを置いて向こう岸に行こうとしています。これもマルコと異なる点です。ここにはイエスと離れても航海をするという弟子たちの意思を感じます。本当の信頼は距離をものともしません。

嵐の中の航海です。下手な気休めは必要ありません。悪い意味の「安心」はかえって危ないだけです。一人一人はイエスなしで「わたしはある」という固い意思を持っていなくてはいけません。その上で全員が信頼して協力しなくてはいけません。イエスは弟子たち相互の信頼関係・尊重文化をこの時までに作り上げていました。だからこそ自分なしの航海も許可したのでしょう。

個人の意見と確固たる意思を持つ一人ひとりが、運命共同体をかたちづくっています。それがこの嵐の中の舟です。その時、嵐があるままに意味のないものとなります。困難があるままに、困難が乗り越えられます。周りがどう騒ごうが、自分自身が固く立つことができるようになったからです。いつの間にか目標にたどり着いたという奇跡は、「わたしはある」という境地を表現しているのでしょう。

イエスは舟の遠くにいたり近くにいたりしながら、外から弟子たちを「『わたしはある』になりなさい」と励ましているように読めます。この場面、イエスはこの舟を嵐からは決して救っていないということが大切です。それと同時に、非常に深い意味においてイエスは、この舟を救い出し、舟を導いておられるということが大切です。師がいない時にこそ弟子はよく育つものです。子どもはひとりの時間に成長するものです。居るようでいないイエス、これは神と教会の関係を示すものです。神は直接介入しないという形でわたしたちを教育し養育し導いておられます。

ヨハネ福音書の著者はここで弟子たちの集団が「悪い意味の宗教性」をもってしまわないように警告しています。そのことは今日の世界においても全ての人・団体にあてはまるし、またわたしたちの泉バプテスト教会においてもうっかりしているとあてはまることがありうるでしょう。悪い意味の宗教性とはこういうことです。

自分たちの中に必ず神がいると錯覚することです。さらに、自分たち以外の人々の中に神がいないと錯覚することです。宗教団体が陥りやすい心理状態です。「神」を「正義」と置き換えれば、宗教でなくてもすべての人・団体にあてはまるでしょう。本当の神はもっと自由に動き回るものです。舟の中にイエスがいないということ、迎え入れようとしても最後まで乗り込まなかったことは、神の自由を示しています。弟子たちから見れば意味もなく湖の上を歩き回ることは、神の自由を示しています。

悪い意味の宗教性とは、自分のわがままを神が必ずその通り聞いてくれると錯覚することです。嵐を凪に変えて欲しいと願えばすぐにその通りに叶えてくれると考えるのは短絡です。現実の世界において、このような願いが常に叶うわけではありません。悲劇や不幸はどんなに祈ってもありえます。おさまらなかった嵐はわたしたちの現実を示しています。

問題はこのような自由な神と厳しい現実の間でどのように生きるのかということです。

今日の小さな生き方の提案は、「わたしはある」という生き方を身につけましょうという勧めです。それは個人として成熟するということです。誰かに依存していれば安心という人は未熟です。一人の人としてしっかりと意思をもち意見をもち生きるということです。安易に神のせい/神のおかげにしない、誰かのせい/誰かのおかげにしないということです。どんなに困難がゆさぶっても気を確かにもつことです。

毅然としていることは傲慢とは異なります。依存しないということは相手を見下すことではありません。成熟はお互いを尊重し隣人と対等の協力をすることでもあります。「わたしはある」ということは、「あなたはいない/無価値」ということではありません。むしろ、お互いに「わたしはある」と主張できる大切な存在として尊重し合うべきです。教会という舟はそのような乗組員によって成るのです。

神はわたしたちの成熟を願っています。この神の信頼に応えて、神と共に・神の前で・神なしで、「わたしはある」になっていいきましょう。