わたしはある 出エジプト記3章11-14節  2015年2月15日礼拝説教 

今日の聖句は「モーセの召命記事」の中心です。この部分のすべてはE集団の筆によります。

モーセの問いに対する、神の答えが大きな筋道をつくっています。「わたしは何者/誰なのか」というモーセの問い(11節)に対する、「わたしはある、あなたと共に」という神の答え(12節)。そして「神の名前は何か」というモーセの問い(13節)に対する、「わたしはある」という神の答え(14節)です。物語の順に従って、この問答について考えていきましょう

召しを受けた者が恐縮して、いったんは断るという物語は、聖書の中にいくつか保存されています。特に「わたしなど何者でしょう」という表現を使うのは、ダビデです(サム上18:18、サム下7:18)。ヘブライ語ではたった二単語です(ミー アノキー)。出エジプト記よりもサムエル記の方が先に書かれました。「申命記・ヨシュア記・士師記・サムエル記・列王記」というひと繋がりの歴史書が前7世紀にほとんど出来上がっていたからです。モーセ五書はその後の前6世紀のバビロン捕囚期に書かれたのです。つまり、E集団はダビデ王の口癖を知っていて書いています。

ダビデ王の口癖をあえてモーセの口にのぼせることに意図があります。モーセがダビデと同等もしくはダビデよりも優っているということを言いたいということです。ダビデはモーセを真似ているに過ぎないと読者に印象づけているからです。特にダビデ王朝が滅亡したバビロン捕囚の時代にあって、「ダビデよりもモーセが優先される」という言葉は、民の心に届くのです。

さてモーセの恐縮ということだけではなく、「わたしは誰なのか(ミー アノキー)」というモーセの問いはそれ自体で切実な内容です。ヘブライ人であるのか、エジプト人であるのか、ミディアン人であるのか。奴隷であるのか、王子であるのか、羊飼いであるのか。モーセは悩みつつ葛藤を抱きながらここまで歩んできているからです。その葛藤はバビロンの地でユダヤ人として生きる五書の読者と同じ類の悩みです。

在日コリアンの人々が持つ悩みと似ています。在日一世の人は、日本の植民地支配時代にさまざまな要因で日本に来ざるをえないように仕組まれていました。帰るに帰れなくなった人々が日本で子どもを産み、在日二世以降の世代になります。その人たちにとっては、「わたしが誰であるのか」が切実な問いです。日本に居ても選挙権も与えられない(ただし納税義務はある)、なぜなら日本人ではないからと言われるのです。そうかと言って韓国に渡っても、「あなたたちは韓国人ではない」と言われるのだそうです。日本の罪を覚えます。「わたしは誰なのか」という重い問いを押し付けているのはわたしたちだからです。

モーセはダビデのように単に恐縮しただけではありません。むしろ今までの辛い経緯を思い出してくれるように神に訴えているのです。ヘブライ人になろうとしてエジプト人を殺害したところ、ヘブライ人からもエジプト人からも排除された経緯から、自分はヘブライ人救出をするのにふさわしくないと言っているのです。「わたしは誰なのか」という問いに、「わたしはミディアン人羊飼いとして人生を終わるつもりだ」という答えをモーセはすでに出しているのでしょう。

それに対して神は「わたしはある、あなたと共に(エフイェ インマク)」と答え、これこそ派遣のしるしであると言います(12節)。この言葉は、士師ギデオンの召命物語にそのまま出てきます。士師記6:16です(390頁)。ここにおいても、神の召命を断ろうとするギデオンに対する説得として「わたしはある、あなたと共に(エフイェ インマク)」が語られます。サムエル記の場合と同じく、士師記が五書よりも先に書かれています。E集団は、ギデオンの召命記事を意識しています。その意図は、イスラエルの敵であるミディアン人を倒すために召されたギデオンの裏返しです。ミディアン人であると自認するモーセをイスラエルの指導者として用いるということです。ギデオンは軍事的指導者でした。しかしモーセは非暴力手段である行政交渉と亡命の指導者です。

さらにモーセは思想信条の自由のための出エジプトを実行する指導者です。「この山(ホレブ山/シナイ山)で神に仕える」という事態は、礼拝行為を指しています。この礼拝は民族の違いを超えています。ミディアン人もヘブライ人も仕えることができる神だからです。出18:1-12には、モーセの舅ミディアン人祭司エトロとの共同の礼拝祭儀が記されています。モーセは、ギデオンという民族主義的軍事的指導者を超える存在として、すべての民を含む礼拝を実践する出エジプトの民イスラエルの指導者なのです。

モーセは「わたしはある、あなたと共に」という深い慰めと励ましを感じました。「あなたモーセが何者か、誰であるかは関係ない」という言葉であったからです。何人であるとか、仕事が何であるかは関係ありません。わたしはわたしなのです。さらに神はモーセの隣にいて、あなたも「わたしはある」になりなさいと励ます方です。ヘブライ語には「共に」を表す典型的な前置詞が二つあります。今回のイムという単語は(インマヌ エルも同じ)、「対等の関係で肩を並べる」という含意です。神が穏やかで毅然としているように、モーセも隣にいる神を意識しつつ穏やかに毅然としてファラオに接し民を導けば良いということです。13節にあるように、モーセは神の召しを引き受けようとします。その理由は「わたしはある、あなたと共に」という言葉に力があったからです。思えばイサクもヤコブも同じ語りかけ(エフイェ インマク)をもらいながら、神と共に旅をしたのでした(創26:3、創31:3。どちらもE)。「わたしはあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(8節、E)。

召しを引き受けようとしたモーセは自分の致命的な欠点を思い出しました。それはモーセが礼拝の際に唱えるべき神の名を知らないという事実です。彼は三歳ぐらいまでヘブライ人として育てられましたが、その時は覚えていたであろう神の名(「父の神」の名)を、今はすっかり忘れていたのでした。この時点で多くの民と結婚を繰り返していたヘブライの民は、礼拝共同体としてのみ「一つの民」としての形を何とか保っていました。礼拝を共有するヘブライ人だからこそ、神の名を忘れたモーセを信頼してくれない可能性があります。

神の固有名は「ヤハウェ」です。新共同訳聖書では「主」と訳されています。E集団ももちろんヤハウェという名前を知っています。エリヤの思想(ヤハウェのみ)を引き継いでいるからです。しかしEは、あえてエロヒムという言葉で神を現していました。その理由はDやJがヤハウェを積極的に用いているからです(15節以下はEに対するJとDの応答です)。

ヤハウェとは「彼は成らしめる」という意味の動詞です。ヤハウェという名前は、全世界の創り主である神の性質や、救いの出来事を引き起こす神の性質をよく表しています。しかしE集団にとってはしっくりこないのです。他力本願という意味では、「彼は成らしめる」は正しいものです。しかし、信者の生き方・あり方はまったく問われないのでしょうか。救われた後にどのように生きるべきか、その方向性が示されないことにEは不満を感じます。急進的な服従を信者に要求するという特徴がEにあるからです。

こうして「わたしはある/成る(エフイェ)」という神の名が、「彼は成らしめる」に対する批判的応答として用いられます(14節)。ヤハウェと同じ動詞です。しかし、三人称ではなく一人称であり、使役ではなく普通のかたちです。この神の名は12節「わたしはある、あなたと共に(エフイェ インマク)」と語呂合わせになっています。12-14節に四回もエフイェという単語が登場するので、この単語は鍵語です。

そしてヨハネ福音書の講解説教でもしばしば「わたしはある(エゴー エイミ)」を取り上げたように、新約聖書との関連においても重要な神の名です。ギリシャ語のエゴー エイミは、ヘブライ語のエフイェの直訳です。イエス・キリストの振る舞いこそ「わたしはある」でした。神の子イエスは、エフイェを体現した神だったのです。すなわち、社会的弱者をかばい小さくされ見えにくくされた人を引き上げて尊重し、力を濫用する強者に対して穏やかに毅然と論争をするイエスの堂々とした振る舞いが「わたしはある」の具体的現れなのでした。

神の子イエスの生き方・あり方が、信者の生き方・あり方を規定します。エフイェの神は、エフイェ インマクと語りかける神です。「あなたもエフイェになりなさい」と呼びかける神です。ヤハウェという既成の神の名前、すなわち神理解に挑み、批判的に応答するEの創造的な営みを積極的にわたしたちも採り入れなくてはなりません。それはイエス・キリストの無条件の愛に救われた者が、どのような生き方・あり方で日常生活を過ごすべきかという課題です。

ギリシャ語訳旧約聖書はエフイェという神の名を「存在者」と解釈し翻訳しています。これはどっしりとした態度を示すもので、参考になります。穏やかで毅然としているということは、存在者という解釈と類似しています。ただし、動詞が名詞になるという弱点や、ヘブライ語にはBE動詞がないということに反するという弱点があります。わたしたちの日常生活を考え合わせても、「神がどっしりしているようにあなたもどっしりと不動の存在となりなさい」という勧めは、今ひとつ現実味がありません。わたしたちがかなり慌てふためいてばたばたと日常を切り回しているからです。そもそも神は無感動な存在者であり、またそもそも神の似姿であるわたしたちは無感動でありうるのでしょうか。やはりここで、ヤハウェに対する批判としてのエフイェということに立ち返るべきでしょう。「彼は成らしめる」という神だけではなく「わたしは成る」という神でもあるということが、最も重要な教えです。つまり自らの意思を強く持つことの勧めが、ここで言われているのです。

神は自由な方です。成りたいものに成るというお方です。それと同じように、信者もあらゆる枠組みやお仕着せに抵抗して、自らの意思で成りたいものに成るべきなのです。それこそ神に従うということです。こうしてモーセの葛藤も乗り越えられていきます。何者であるかは自分で決めるだけで良いからです。出エジプトの指導者に成りたいならば成りうるということです。神はここでモーセに自分の名前を表面的な意味で教えたのではありません。モーセもこの後エフイェという神の名を用いません。旧約聖書全体でもエフイェという名前はここにしか登場しません(例外:ホセ1:9)。ここでの問答は、神とはどのような方なのか、神を信じている者はどのように生きるべきなのかを教えるためにあるのです。

今日の小さな生き方の提案は、エフイェという生き方を身に付けるということです。すべての人は成りたいものに成るのです。すべての人の心は自由です。そして人間の持つ意思の力は尊いものです。だから画一的に枠組みを押し付けてはいけません。だから画一的な押し付けに負けてもいけません。意思が弱いと流され煽られやすくなります。夢と希望を粘り強く追い続ける意思が求められています。お互いの「わたしは成る」を応援していきましょう。