わたしはそこにいた 箴言8章22-31節 2022年3月13日礼拝説教

 箴言はことわざを集めた書です。しかし、ことわざと異なる内容も中には収められています。本日の箇所はそのような内容の典型例です。古代以来、三位一体の教理との関係で大いに論じられている箇所でもあります。なぜなら、30節「匠」(私訳)は「創造者」(文語訳)という踏み込んだ解釈を許すからです。こう考えると「知恵」(1節。女性名詞)=「霊」(女性名詞)=創造主という等式が成り立ちそうです(創世記1章2節参照)。さらには、中世ユダヤ教徒の解釈の一つに「愛児」があります。ユダヤ教徒の英訳聖書confidant(親友)も、キリスト教徒の欽定訳聖書one brought up(養育された者)も同じ理解です。母音記号を変えると、そのような解釈がありえるのです。「愛児」は神と神の子の親しい関係を裏付けるので三位一体論を補強します。

 つまり日常生活の具体的処世術ばかりを説く箴言に、なぜか教理的抽象的な言葉もあるということです。その教理とは、天地創造の神を崇める信仰です。非常に広い世界大の思想が繰り広げられています。本日の聖句には「世界」(テベル)という、ヘブライ語には少ない抽象的単語が二回も使われています(26・31節)。一民族イスラエルの救いよりもスケールの大きい世界の救いと、この小さな私の救いとが、一つとなって告白されています。

ロシアとウクライナが戦争を続けている今、私たちには「知恵」が必要です。世界大戦や核/原子力nuclearによる世界大の破滅が横たわっているからです。東京大空襲(3/10)、沖縄、広島・長崎、福島(3/11)という苦い経験に根差した知恵を聖書から求めたいと願います。バビロン捕囚(前587年)という苦い経験から生み出された「神の言葉」には、その知恵が備わっています。

22 ヤハウェは私を得た、彼の道の初め(として)。彼の業の起源(として)その時より。 

23 永遠より私は注がれた、初めより、地の起源〔複数〕より。

 「私」(22節)は、8章1節にある「知恵」(ホクマー)です。まるで人間のように登場しています。「得た」は、エバがカインを生んだ時に言った言葉と同じ動詞です(創世記4章1節)。しかし「生む」よりも「購入し、獲得する」という意味合いです。こう考えると「知恵」は、神や人ではなく、神の持っている性質・本質・特徴を指すことになります。

 聖書の神にはさまざまな性質・本質・特徴があります。「神は愛である」という言葉は、端的に神のあり方を示しています。神の子イエス・キリストによって現わされた十字架と復活の神は、愛そのものです。同様に「義」「信実」など神の本質的な特徴を示す鍵語はたくさんあります。「彼の道」(22節)は神のあり方という意味でしょう。

 愛をはじめとする多くの鍵語を差し置いて、本日の聖書は「知恵こそ最初に神が獲得した性質だ」というのです。その獲得の仕方も独特です。「注がれた」(23節)は、寒天が押し出されるような注ぎ方です。既に型が決まっていて、その通りに押し出されるという方法で、神は知恵を獲得しました。この意味では、「神は知恵である」と言い抜いても構わないのかもしれません。では神の本質である知恵とはどのようなものなのでしょうか。

24 淵〔複数〕の存在しない時に私は身もだえした。水〔双数〕が重たくされた泉〔複数〕の存在しない時に。 

25 山々が埋め込まれた以前、丘々の面前に私は身もだえした。 

26 彼が地と野とを造らなかったうちに、また世界の塵の初め(を)。

27 彼の天〔双数〕を据える時に、そこに私が。彼の淵の面に接して円蓋を切り出す時に。 

28 彼の上よりの雲〔複数〕を固めた時に、淵の泉〔複数〕を強める時に。 

29 彼が海に限界を定める時に――そして水〔双数〕はその端を渡らない――、彼の地の基を切り出す時に

 知恵は「身もだえする」(24・25節)ものです。多くの翻訳の「生まれる」は意訳です。「回る」「身をよじらせる」という意味が直訳です。

 神の知恵は、冷静な知識ではありません。無感動・無機質な測ることのできる数値化された知ではないのです。そうではなく、知恵は未来を予想し、被造物の苦しむ姿を連想し、被造物の苦しみを自分の苦しみに引き受けます。十字架の神は、共に苦しむことができる神です。

 神は、ご自身の知恵をもって、天地創造の業の行く末を予想しています。もしも人間を創造したならば、おそらく天も地も海も汚され破壊され、人間を含む多くの被造物が呻き苦しむであろうことを知っています。人間は善悪の知識の木の実を食べる存在だからです(創世記3章)。人間は、真の知恵の無いままに、すなわち被造物仲間への共感(身もだえ)がないままに、自らの善や知識を振りかざし、神になろうとする存在だからです。

 神の知恵は、人間の手によって生命の連鎖を断ち切る「淵」が現出される前から、例えば水俣や福島の海が「重くされ」(24節)る前から身もだえしました。淵は死の支配する世界です。天地創造以前の混沌とした世界が、人間の罪によって再び始まることを暗い予測として、創造主は知恵によって看取しています。このような世界の中で、被造物の一員であり、悪の一因でもある人間はどのように生きることが求められているのでしょうか。

 さてここで視点を変えて、文章の構造を見渡しましょう。「~の~する時に」という構文が八回も登場します(24・27・28・29節)。前置詞「ベ」+不定詞という特別な形です。意味的に重なる「~以前」(25節)と「~うちに」(26節)とを加えると合計十回。しかも、前半五回と後半五回の真ん中に、「そこに私が」という強烈な一文が置かれています。このような集中構造がある時には、真ん中に置かれた部分が、その一塊の中心的使信とみなしえます。

 この「そこに私が」と言っている「私」とは誰のことを指すのでしょうか。素直に考えると、神の特徴である知恵です。この理解に基づくと、創造主は「共感する愛」をもって、天や地や海を造られたということになります。30節でも知恵は「匠」と自己紹介しています。それは天地創造という大工仕事とぴったりと重なります。世界は愛に満ちた仕方で設計されたので、さまざまな生命もその中で暮らすことができるのです。これはこれで有意義な解釈です。しかしもう一つの解釈がありえます。

 「そこに私が」はわたしたち読者一人ひとりのことも指しえます。わたしたちが一人残らず「神の似姿」(創世記1章26・27節)であり神の子であるからです。すべての人の子は、神の子であることを呼び覚ますように呼びかけられています。わたしたちはみな知恵を持ち合わせているはずです。天と地と海を壊さないように生きる知恵、天と地と海の中に生きる生命に共感する知恵を持っているはずです。神が駆けずり回って一所懸命に作っている姿を、天地創造の神を信じる一人ひとりは、目に浮かべることができます。自ら泥んこになって泥をこねて人型にして、そこに命の息を吹き込む必死な神の姿です。そしてやっとの思いで作り上げた世界を何とか保とうとする神に、少しでも手伝いたいと願うはずです。「そこに私が」いたのですから。一人から始めるエコロジーを本日の聖句は後押ししています。

 戦争は最大の公害です。山の形を変え、天のオゾン層を切り裂き、きれいな泉の水を毒水に変え、唯一無二の海を汚染します。そして兵器は人を殺し、動植物を殺します。大量破壊兵器だけが非人道的なのではなく、すべての兵器は人殺しの手段として非人道的です。そして核技術を人間は制御しきれません。スリーマイル島も、チェルノブイリも、福島も教えるところです。原子力発電と同じ技術(人為的に臨界させる)が核兵器に用いられています。この技術は最高峰の知識の結晶ですが、知恵を持ち合わせていません。人間は、世界が神の創った器であること、そしてその器も器の中の被造物も壊れやすいということを知ろうとしていません。

 「正しい戦争」というものはありえません。その反対も真です。「誤った平和」というものもありえません。ウクライナ政府は徹底抗戦を止めアメリカ製の武器を棄てて直ちに降伏し、癪に障るかもしれない「誤った平和」をかちとるべきです。その後、国際社会によってロシア政府の蛮行を裁く方が被造物への損害が少ないことは明白です。ウクライナ政府を支援することは戦争継続への賛成です。わたしたちは国連自体も改革すべきです。国連憲章に日本国憲法前文と9条を記載するように、そして国家をまたいで金儲けをしているすべての「死の商人」を締め出すように働きかけるべきです。すべての原発を止め、すべての核兵器を廃棄するように、世界中の「私」が声を集めなくてはいけません。神の創った世界が人間の手によって壊されそうな歴史の現場に今わたしたちは立ち会っています。そこに私がいるのです。一人ひとりが「知恵」となり、巷に呼ばわりましょう。いつまで、神の子であるこの私が浅はかな者・不遜な者・愚かな者でありえるだろうかと声を上げましょう(1章20-22節)。

30 そして私は彼の隣で匠となる。そして私は喜び〔複数〕となる、日々。彼の面前で喜びながら、すべての時に。 

31 彼の地の世界において喜びながら、そして私の喜びは人の子らと共に。

一転して30-31節は「喜び」が支配しています。「私は~となる」(30節)には強い意志が示されています。神の名前でもある「私はある(エフエ)」と同じ言葉です(出エジプト記3章14節)。「そこに私が」という決然とした意志と呼応しています。「私は喜びとなる」という決意が重要です。

喜びというものが破滅に向かう世界を救うのです。その有様は、私の喜びが一日一日増えて複数になることから始まります。「日々」とまとめましたが、「日、日」と原文は記されています(30節)。貴重な一日一日を喜びながら過ごすことが大切なのです。その喜びの点が神の前で「すべての時」(全生涯)という喜びの線になります。さらにその「私の喜び」が同じように毎日喜ぶ「人の子ら」と共鳴し(31節)、喜びの面が地の面に広げられ延ばされていきます。神の創られた世界の中で人類(人の子)は、喜ぶ者と共に喜ぶ者となり、身もだえするほどに苦しむ者と共に苦しみ、呻く被造物と共に呻くのです。それこそ神の子としての人の子の自然な有様です。

神は平和をつくる匠になるようにと、一人ひとりを押し出しています。神の愛児であったイエス・キリストのように平和をつくりだす人々は幸いです。その人たちは神の子と呼ばれます(マタイによる福音書5章9節)。喜びなさい。大いに喜びなさい。

今日の小さな生き方の提案は、与えられている一日を決意をもって喜ぶということです。それがわたしたちの「神の子」性を保つあり方です。神の前では、一日は千年のようであり、一歩一歩はつながって千歩となります。喜ぶためには決意が必要です。なぜならばわたしたちの日常は、とても喜べるものではないからです。安易な処世術が通じない、厳しく苦しい現実があるからです。にもかかわらずわたしたちは小さな喜びを見出して大いに喜ぶべきです。そうでなくては、わたしたちは人に共感する神の子らしさを失ってしまいます。苦しみそのものに意義はありません。しかし苦しむと同時に喜ぶことに意義があります。その微笑みが未来を拓くからです(31章25節)。