わたしは復活であり、命である ヨハネによる福音書11章17-27節 2014年2月23日礼拝説教

今日の聖書の箇所は先週からの続きです。ベタニア村のラザロという男性弟子が死にました。その人を復活させるために、イエス一行はベタニア村へと向かいます。もちろん、死者ラザロの蘇生も主題です。しかし、福音書著者はそのことだけに主眼を置いていません。もしそうであれば、イエスがすぐにベタニア村に入り、ラザロの墓に直行し、死者をよみがえらせたことでしょう。

事態はそうではありません。ベタニア村に入る前にもう一幕あります。著者はラザロの姉であるマルタ・マリアとイエスとの対話にも紙面を割いているのです(17-37節)。この対話はどうしても必要です。先週申し上げた通り、イエス一行はラザロの死に責任を負っているからです。「二日間の滞在」(6節)が原因でラザロが死んだ、なぜイエスはすぐに来なかったのか、信頼のネットワークにひびが入っている状態なのです。マルタとマリアにはイエスに対する不信感があります。さらに「放浪の宣教者」である弟子たちと(トマスら十二弟子)、「定住の支援者」である弟子たちとの間に(マルタら)、きしみが生じています。

そういうわけですから「復活」という言葉の意味合いを、拡大させ膨らませて考える必要があります。この文脈で「復活」とは、死者の「蘇生」だけではなく、生者たちの関係性の「回復」も表現されています。実際の蘇生は再来週の出来事なので、今日はこの関係性の回復という視点で読み解いていきたいと思います。特にマルタという弟子に焦点を合わせて考えたいと思います。

イエスがベタニア村の近くまで来ると、マルタは村の外でイエスを出迎えました(20節。なお30節も)。ヨルダン川東岸のベタニア村から西岸のベタニア村までは直線距離で20数km、道のりにして30kmぐらいです。時速6kmならば5時間で着く道のりです。そしてラザロは墓に葬られて四日も経っていました(17節)。ということは、二日間の滞在を差し引くと、イエスがラザロの病気を伝えられ知ったころにラザロは死んでいたのかもしれません。しかし、そうだとしてもマルタやマリアの不信感にとっては何も解決になりません。どう考えてもイエスはすぐに来ようとしていないことが明らかだからです。マルタとマリアが使いに出した人は、すでに手ぶらで帰ってきていることでしょう(3節)。その人は「イエスは弟子たちに引き留められてエルサレム近くのベタニアには来ないのだそうだ」と告げていたことでしょう。

この報告はマルタとマリアの心を傷つけました。彼女たちもエルサレムの権力者たちから思想信条の抑圧を受けていました。常に監視されていました。イエスの弟子だからです。たとえば19節の「多くのユダヤ人」(冠詞付き)の中には、単純な弔問客もいれば、エルサレムの権力者たちの意を受けた密告者たちもいたことでしょう(46節)。イエスが指名手配されてから日常的に監視されている彼女たちから見れば、十二弟子らの引き留め方は「何をのんきなことを」という感想しかもたらしません。「イエスと共に放浪の旅を続けている割には覚悟が足りない」というようにも見えます。

イエス到着が仮にラザロの死んだ後であっても、もしイエスが息せき切って大急ぎで来てくれてさえいれば、彼女たちの憤りは和らいだかもしれません。「イエスは無情にも二日間わたしたちを放置した」。この思いが信頼のネットワークにとっての危機なのです。どのようにしてこの危機を乗り越えることができるのでしょうか。

イエスが近くまで来ていることを知った姉妹は、それぞれ別々の行動でイエスに対する批判をします。弟子たちは一人一人の個性が大切にされていました。このようなふとした時にも、別々の個性が発揮されます。マルタは村の外まで出て行って、真っ先にイエスに抗議をします。マリアは、家の中に座り続けることで、意思表示をします。気持ちは一緒です。なぜ、「イエスは今頃のこのこと来たのか」。彼女たちは怒っています(32節)。マルタの場合は家の代表者として公式に抗議を村の外でしました。「返答次第ではお帰りいただく」という強い意志を感じます。

「怒り」は重要な感情です。怒りのないところに正義の実現はないからです。ただし怒りのぶつけ方には注意と工夫が必要です。「報復の連鎖」のような怒り方では正義は実現しないのではないでしょうか。どんなに正しくてもやられた分をやり返すことでは問題は解決しません。それは殺人被害者家族の感情に配慮して、死刑という方法で仕返すことにおいてもあてはまります。もちろんヘイトスピーチのような憎悪むき出しの表現・名誉毀損はだめな怒り方です。また、「ストーカー殺害」のような倒錯した怒りと暴力的な怒りの表現、ドメスティック・バイオレンス(DV)の場合によくある「怒りという感情露出の悪用」では、信頼のネットワークは作れないし修復できないのです。今日の箇所のマルタはそのような「だめな怒り方」をしていません。穏やかであるけれども毅然とした態度で、非暴力的な方法でイエスに抗議をしています。丁寧な言葉を使って自分の意見を述べています。どんなに怒っていても、わたしたちは相手を尊重しなくてはいけません。感情の赴くままに感情をぶつけてはいけないのです。そしてこのような批判が信頼の回復にとって役に立ちます。

「主よ、あなたはどこにいたのですか。あなたがいらっしゃれば、わたしの兄弟ラザロは死ななくて済んだでしょうに。人が望めば神はあなたに何でもお与えになることを、わたしは今も知っています。わたしたちが病気の治療を望んだときに、神はあなたに時間と能力を与えておられましたが、なぜそれを用いなかったのですか」(21-22節)。マルタは男性中心の家制度から解放されています。たとえばルカ福音書10章においては、ラザロという人物が登場しないほどに家の中で影の薄い男性でした。イエスの弟子となった時から、彼女たちの間には水平の交わりができていました。だから師匠であるイエスに対しても正しいと思ったことは率直に言うことができたのです。

マルタの正当な批判に対してイエスは答えに詰まったのではないかと、わたしは推測しています。黙って頭を下げていたのではないか。そして小声で、「あなたの兄弟は復活するだろう(未来形)」(23節)とイエスは応えます。それは償いの行為です。その言葉を聞くやいなやマルタは鋭く突っ込みます。「その未来形は、世の終わりのことを指しているのでしょうけれども、そんな一般論なら知っています。問題は、四日前に死んだわたしの兄弟の死について、どのように責任を負っていただけるのかということです」(24節)。

マルタの怒りはもっともです。たじたじのイエスは丁寧に言い直します。ただしいつものこんにゃく問答なので、分かりにくい返答でもあります。「わたしこそが復活でありいのちである。わたしこそが命のパン(6:48)・世の光(8:12)・良い羊飼い(10:11)であるのと同じ意味だ。死んだ者も生きている者もわたしとの関係は切れることがない。もし全人格的にわたしに信頼を寄せるのならば、どんな人も信頼のネットワークに入っている。あなたはわたしを信じているはずだ。信じてほしい」(25-26節)。イエスは自分がラザロを起こす・復活させると明言していません。そのことよりもマルタとの信頼関係の修復に力を入れています。元々の大文字写本にはクエスチョンマークは書かれていないので、最後の一文も疑問文と考えなくても良いでしょう。「あなたは以上のことを信じている(はず)」という発言とも訳し得ます。「あなたもわたしもラザロも永遠の命のネットワークに入っていることを信じて、ひびの入った信頼を修復しよう・回復しよう・復活しよう」という呼びかけとわたしは解します。

27節のマルタの答えをどのように理解すべきか、ここに今日の最大の課題があります。肯定的な「キリスト告白(きっぱりと信じきる)」と採るか(岩波訳)、それとも否定的な「皮肉(今までは信じていたけどね)」と採るか(田川訳)判断が難しいのです。肯定的に採る場合、39節のマルタの発言はまったく愚かしく思えます。さっき信じた人が今は信じないという点でマルタが道化となってしまいます。文脈上否定的にとる方が滑らかです。その反面、肯定的に採る利点もあります。ペトロの地位を引き下げるという利点です。同じような「キリスト告白」は特にマタイ福音書でペトロだけが行い最大限評価されています(マタ16:16)。ペトロではなく女性弟子マルタが行うことはヨハネ福音書の意図に適うものですし、性差別克服に資する読み方です。

問題は、「わたしは信じております」(27節)が現在完了形であることにあります。日本語には無い時制です。これは過去の行為の効果が現在にまで及んでいる場合の時制です。単純な過去なら否定的な皮肉ですし、単純な現在なら肯定的な信仰告白です。その中間的な時制なので、どのように考えるべきかで困ってしまうのです。

わたしはこの曖昧な表現にマルタの本心が表れていると解釈します。別の言い方をすれば、不信感で関係が切れかかっていたのにもかかわらず(20節時点)、マルタとイエスとの対話努力によって、このような曖昧な表現で信頼が回復されつつあるという段階を示していると解します(27節時点)。マルタはイエスを村の外で追い返すことはしませんでした。ある種の合意をして妹マリアに取り次いでいくのです(28節)。完全には納得していないしラザロの身に何が起こるのかは良くわからないけれども、イエスという人格に信頼を寄せ直してみようとマルタは考えたのでした。なぜなら今までイエスを信じてイエスに仕えて従って、そうして人間として解放され、人間らしく生きることができるようになったのだから。イエスに面と向かってもう一度信じてほしいと言われて、マルタは過去のさまざまな出来事を思い出したのでしょう。イエスを神の子・キリストと信じる集団・信頼のネットワークづくりのために汗をかいていた自分、その効果は持続していたのです。この働きにいのちがあったではないか、自分はそこで生き生きと生かされていたではないか、よみがえりを経験してきたではないか。その限りにおいて、信じてみようという効果が残ったのです。

こうしてイエスとマルタの関係が復活しました。この交わりに永遠のいのちが宿ります。死者の蘇生という目に見える「しるし」よりも重要なものがあります。目に見えない信頼関係というものの回復です。イエスとマルタの対話努力が信頼を結び直しました。両者は決して暴力的ではありません。穏やかです。感情的でもありません。品位を保って理性的です。言い繕いもしていません。お互いに率直です。相手の人格を傷つけていません。尊重しています。どちらも上から目線、支配的ではありません。対等の話し合いです。こうしてどちらも折り合える部分を探っていき、見出したのです。それがマルタの曖昧な・両義的な信仰告白の真相です。

わたしたちの信仰とは理性を犠牲にするものではありません。思考停止でもありません。神に対しても率直に不信感を表す祈りがあって良いでしょう。わたしたちの信仰とは隣人を支配する道具でもありません。むしろ信仰とは信頼関係をどんな人とも結ぶ生き方です。普段からそうであれば、あらゆる関係性のひび割れ・きしみに対して、対話努力によって修復・回復・復活が可能になるのです。この修復的正義を追求する道のりに永遠のいのちが輝きます。なぜなら愛の神はそのような方だからです。この生き方に参与し復活しましょう。