アラムからの脱出 創世記31章10-21節 2019年6月23日礼拝説教

ヤコブと妻たちとの対話の続きです。

「その羊の発情する時に次のようなことがあった。すなわち私が目を上げた。そして私は夢の中で見た。そして見よ、縞、ぶち、およびまだらの羊の上に乗っている雄山羊たち。そして神の天使が私に向かって夢の中で言った。『ヤコブ』。そして私が言った『見よ、私を』。そして彼は言った。『どうかあなたの目を上げてください。そして縞、ぶち、およびまだらの羊の上に乗っている全ての雄山羊を見なさい。なぜなら、私はラバンがあなたに為している全てを見たからです。私はベテルの神――あなたはそこで記念碑に油を注ぎ、あなたはそこで私に誓約を誓った――。立ちなさい。出なさい、この地から。そして帰りなさい、あなたの故郷の地に向かって』」(10—13節)。

ヤコブはどのようにして神の召しを受けたのでしょうか。おそらくそれは白昼夢のような状況でしょう。復活のイエスに出会ったパウロに似ています。ラバンの顔がヤコブに向かなくなった時、羊の発情期の時、いつもの羊飼いとしての労働をしていた時、ぼうっと目を上げると雄山羊が羊の群れの上に乗っていたというのです。山羊と羊は自然交配しないというのが常識だそうです。最近はgeepと呼ばれる交配種も出現しているようですが、おそらくこの夢の前提は両者が交配をしないというところにあります。

羊は、縞・ぶち・まだらですからヤコブの羊たちです。その上に雄山羊が乗っかっています。雄山羊は、ヤコブの上に乗っかり、力を濫用して支配しようとしているラバンのたとえです。両者は交配しない種であるということは、両者は結局仲間になりえない、お互い別れた方が良いという意味でしょう。

そう考えると天使の発言は意味が通ります。新共同訳は訳出していませんが、雄山羊とラバンは「なぜなら」という接続詞で密接に繋がっています。ラバンがヤコブに行い続けている全てが、羊たちの上に乗り続けている雄山羊の姿に例えられているのです。現実世界では、羊が羊に発情していたのをヤコブはぼんやりと見ていたのでしょう。それが夢の世界では、羊ではなく上に雄山羊が乗っかっているように見えます。天使は、現実にはありえない状況に改めてヤコブの目を向けさせ、意味づけします。

「ラバンの家に呑み込まれてはいけない。決して交わることのない別の種類の動物のような存在だからだ」。だから故郷に帰れという召しにつながっていきます。アメリカの傘の下の日本という課題も沖縄に対する理不尽なしわ寄せから透けて見えます。神の召しは日常労働の最中に起こった出来事です。3節のヤハウェの召しが、ここではヤコブによって詳しく説明されています。

3節の言葉と13節の言葉は、重なる部分と重ならない部分があります。13節にのみあるのは、「ベテルの事件」についての言及です(28章10—22節)。反対に13節にないのは「エフエ(わたしはある)があなたと共に」という神の約束です。ここにはヤコブの気づきと「熟成」が見られます。「わたしはある(エフエ)があなたと共に」という約束は、20年前にベテルで出会った神の言葉と同じであると気づいたのです。「見よ、私は(アノキー)あなたと共に」(28章16節)。だからエフエの代わりに、「ベテルの神」をここで持ち出しています。エフエは「ベテルの、その神」(原文は冠詞付き)です。20年前の出来事と今の出来事がつながったという、喜びを伴う驚きが、ここに現れています。

20年前ヤコブはこの約束を信じきれませんでした。28章20-22節で、「もし神が私と共にいるなら・・・、ヤハウェが私に属する神になるなら・・・、私は十分の一をあなたに必ず捧げる」という、条件付きの不遜な祈りをしている通りです。一人で生き抜く自信を持っているヤコブにとって神は、共にいないかもしれない方・共にいなくても構わない方です。

そのヤコブが20年間外国人として暮らし、慣れないアラム語を使いアラム人になろうとし、知らない習慣に触れ、伯父に騙され、家族を得、思い通りにならないことにも直面し、自分の財産を拡大させていく中で、本当に神は共にいて守ってくださったと、しみじみと悟ったのです。真夜中の夢と、真昼間の夢。いずれも夢の中で語る神が、一つの神であることをヤコブは知ります。「この20年わたしは一アラム人として滅んでいく存在だったのにもかかわらず、また、神のことを忘れることの方が多かったのにもかかわらず、神が常に共にいて多くの家族と家畜を与えられた。神は信実な方で、神の約束は必ず実現する。神の声に聞き従い、あなたたちの父を捨て、カナンの地に帰っても良いか。それが逃れの道だ」。ヤコブはレアとラケルに尋ね、二人は答えます。

「まだ私たちの分け前と嗣業が私たちの父の家にあるだろうか。私たちは彼にとって外国人と思われたではないか。なぜなら彼は私たちを売ったのだから。そして彼は私たちの銀を徹底的に消費した。神が私たちの父から取り上げた全ての富は、確かに私たちと私たちの息子たちのものだ。そして今、神があなたに向かって言った全てを、あなたは行え」(14-16節)。

かつて競合したラケルとレアがここで共同戦線をつくります。父ラバンは夫ヤコブに対してだけではなく、自分の娘レアとラケルにもひどい扱いをしたことへの恨みが、ここで述べられています。彼女たちは共通の敵を知りました。それは「父の家」と呼ばれる家父長制度です。「父の家」(ベト・アブ)と「神の家(ベト・エル)」が鋭く対比させられています。家父長制においては長男だけが父の財産を相続するのですから、ラバンの長男だけに分け前と嗣業が約束されます。レアとラケルにはありません。もちろん、甥・婿の外国人であるヤコブに相続権はありません。ラバンは、カナン人ヤコブと、彼と結婚した自分の娘たちをまとめて「ガイジン」として差別しています。娘たちは、父が労働の報酬・賃金として自分たちをヤコブに与えたことを恨んでいます。「彼は私たちを売った」のです。銀貨30枚で売ったようなものです。

「私たちの銀」は、ヤコブが行なったラバンのための労働のたとえです。「私たちの銀を徹底的に消費した」という表現は、外国人労働者ヤコブを搾取したという意味だと思います。妻たちは夫ヤコブが昼夜を問わず重労働をこなし続けたことを知っています。特に無収入の14年間は惨めな思いを持ちながら、歯を食いしばって父の財産を増やすために働き詰めでした。最後の6年間は隠し財産を作るために、二つの群れを行ったり来たりして、これも重労働でした。

神は夫ヤコブに知恵を与え、ぶち・まだら・縞・灰色の羊を父ラバンから取り上げました。わずか6年間で与えられた夥しい富は、すべて私たち(ヤコブ・4人の妻)と私たちの子どもたち(12人の息子・娘)のものです。レアとラケルの発言の特徴は、「私たち」の連呼です。一つの共同体となった、私たち「イスラエルの子ら」の幸せのために、神の命令に聞き従うことを、レアとラケルがヤコブに命じます。「立て(復活せよ)。出よ。帰れ(生き直せ)」。みんなでアラムの地から脱出することがこうして決議されました。

「そしてヤコブは立った。そして彼の息子たちと彼の妻たちをラクダの上に持ち上げた。そして彼は、彼の全ての家畜と彼の全ての獲得物を駆り立てた――それは、彼が彼の所有の家畜として獲得したもの、パダン・アラムで獲得したものだが――、彼の父イサクに向かってカナンの地へ行くために」(17-18節)。

読者はラクダがこの逃走のために必要だったことを初めて知ります。ヤコブが物々交換を通して、白い羊をラクダに換えていたのは計画的な行為だったのです(30章43節)。苦労をかけた妻子らを良い乗り物に乗せて約束の地に連れて行きたいという願いです。それは素早い逃走にも役立ちます。

家畜がヤコブの獲得物であることがくどいぐらいに繰り返されています。ゼロまたはマイナスからヤコブが成り上がったことの強調です。ここには出エジプトの先行事例が示されています。奴隷のイスラエルがおびただしい家畜と共に夜逃げするさまと似ています。ヤコブ、レア、ラケルの決断は素早く、すぐさま逃走が始まります。その点も似ています。

「そしてラバンは彼の羊を刈るために行った。そしてラケルは彼女の父に属する神像を盗んだ。そしてヤコブはアラム人ラバンの心を盗んだ。(それゆえ?)彼は、彼が逃げつつあることを彼に告げなかった」(19-20節)。

ヤコブが隠し財産を公にしてから、ラバンは自分の白い羊を世話していたようです。ヤコブがレア、ビルハ、ジルパ、ルベンやディナら、家族と召使たちと家畜たちを連れて、天幕を畳んで逃げる時に、ラケルは一人でラクダに乗ってラバンの天幕に向かいます。積年の恨みを晴らすため、父に対する報復をすするためです。ラバンが羊毛を刈る作業をしている時に、ラケルはこっそりとラバンの拝んでいる家の守り神(テラフィムという神像)を盗みました。ラケルはリベカの姪です。思い切ったことをする人物です。ラケルもレアも「家の神々」に愛着はなく、ヤハウェの神、ベテルの神、共におられるエフエの神を信じ礼拝しています。だからこれは単なる報復です。

ラケルは自分だけがヤコブと結婚したいと思っていました。しかし、父ラバンがそれを勝手に捻じ曲げて、先にレアがヤコブと結婚することとなりました。ねじ伏せられた恨みは20年経っても決して薄れていません。レアと共有できないラケルのみが抱える憤りです。

その一方でヤコブは舅ラバンの心を盗みました。内緒で出て行ったからです。ラケルとヤコブ夫妻が、ラバンの精神的支えを盗んだと聖書は語ります。神と隣人への信頼が盗まれたのです。それはラバンがヤコブ、レア、ラケルから散々かすめ取っていったものでした。ヤコブの憤りも持続しています。

誰もラケルやヤコブに「ラバンを赦してやれ」と強要することはできません。二人がラバンを赦すか否かは、当事者である二人だけが決めるべきです。

「そして正に彼と全て彼に属するものが逃げた。そして彼は立った。そして彼はその河を渡った。そして彼は彼の顔を据えた、ギレアドの山へと」(21節)。

寄り道したラケルも合流し、ヤコブ一行は一路カナンの地へと向かいます。後ろからはラバンが追いかけてくるかもしれません。彼らは大河ユーフラテスを渡ります(アバル)。アラムを出て、この人々はアラム人からイブリーム(渡る人々=ヘブライ人)になります。ここに出エジプトの原型があります。神の民は、抑圧されている状況から脱出し、執拗に追いすがる迫害者たちを振り切って約束の地を目指す人々です。モーセたちが神と契約を交わすためシナイ山を目指したように、ヤコブは顔をギレアドの山に向けて置きます。長年計画をしてきた「取り返しのつかない行動」に出たのですから、前を向くのみです。

今日の小さな生き方の提案は、救いを信じるということです。20年かかるかもしれませんが、インマヌエルの救いは必ずわたしたちに浸透します。わたしたちが不誠実な時にもキリストは信実に伴ってくださったと確認し、狭苦しい現実から必ず救い出してくださると信じることです。救いが腑に落ちたなら、もはや前を向くのみです。大河を渡り、後ろを振り返らず、約束の地という目標に向かって体を伸ばすのです。わたしたちが与えられた救いは尊厳です。この前へ顔を据えて、自分の人生をしっかりと歩み出すことなのです。