アロンとの出会い 出エジプト記4章24-31節 2015年3月22日

今日の箇所は二つに分かれます。前半は「血の花婿」という謎めいた話であり(24-26節)、後半はモーセとアロンの兄弟再会です(27-31節)。全体的にはJ集団の筆によるものです。「神の山」だけがEの付加でしょう。

ヤハウェがモーセを殺そうとするということをわたしたちはどのように理解したらよいのでしょうか。Jはまたしてもわたしたちの神信仰を揺さぶる記事を記します。もし本気でヤハウェがモーセを殺そうとしたとすれば、今までの物語はいったい何だったのでしょうか。出エジプトの指導者として任命しようと、しつこくモーセに迫るヤハウェと頑なに拒むモーセのやりとりが、3章冒頭から4章17節にいたるまで延々と繰り返されていました。押し問答の果てにやっとモーセが受諾したその矢先に、なぜヤハウェがモーセを殺す理由があるのでしょうか。わたしたちはヤハウェに疑念を抱かざるをえないのです。

この深い謎については三重の答えがありえます。一つ目は合理化/非神話化です。古代人の表現を現代風に考え直すという作業です。つまりヤハウェがモーセを殺そうとしたという表現は、モーセが急病を患ったということの古代人なりの表現だと解するのです。そして妻ツィポラの看病(まじない的な行為を含む)によって一命をとりとめたと理解するわけです。ただしそうだとしても、なぜ病気にさせたのかについて、またなぜ回復の為に息子の包皮を切り取るのかについて、未だもやもやが残ります。

二つ目は「割礼」という風習からの説明です。モーセは赤ん坊の頃、ヘブライ人の通過儀礼である生後八日目の割礼儀式を施されていない可能性があります。なぜなら、その頃両親は男の子が生まれたことを隠していたからです。割礼は男性器の包皮を切り取るという儀式です。そしてミディアン人である、モーセの息子ゲルショムにも割礼は施されていないでしょう。

割礼の無いままにヘブライ人に合流できないという事情が、この物語が正にこの文脈に置かれている理由となります。ちなみに「両足」(25節)は、男性器の婉曲表現でもありえます。「手」「足」にそのような用法が、セム語族一般にあるからです。息子のゲルショムの割礼だけではなく、モーセも性器を血まみれにされる「擬似割礼」を施されたと考えることができます。だからヤハウェが殺そうとしたことよりも、息子の割礼とモーセの擬似割礼の執行に物語の重心はあります。

三つ目の説明は「花婿」という単語の意味に関係します。ヘブライ語でCHa-THa-Nと綴ります。この言葉は「舅」という単語と子音文字の綴りが同じです。舅はCHo-THe-Nと綴ります。エトロはモーセのCHo-THe-Nであり、モーセはエトロのCHa-THa-Nです。「血の花婿」という呼び名は、読者に舅エトロを思い起こさせます。

CHo-THe-Nを辞書で引くと、舅という意味と「割礼執行者」という意味があります。古代西アジアにおいては義理の父親が婿に対して割礼を施していたからだと推測されています。このことはヘブライ人が行っていたエジプトでの割礼と重なります。ヘブライ人男子を殺し続けていたファラオの時代には、男性が極端に少ないので、おそらく他民族男性がヘブライ人女性と結婚していたのです。その際には成人への割礼が結婚をきっかけに行われ、その執行者はおそらく義理の父親でしょう。〔現代のユダヤ人社会では、家長である男性が家に代々伝わる器具で行なっています。〕「血の花婿」という呼び名は、割礼の執行者が誰であるのかに目を向けなさいという合図です。

だからミディアン人女性である妻ツィポラが息子の割礼を行い、モーセの擬似割礼を行っていることに注目するべきです。この宗教実践は民族主義を超え、性差別を超えています。司祭を男性だけに限るということを教会は今もなお続けています。プロテスタントであっても男性以外の牧師は極端に少ない現状は、未だ性差別が克服されていない状況と言えます。

この点をさらに深めて考えてみましょう。19世紀女性宣教師が米国から大勢アジア・アフリカに派遣されました。その一つの要因は女性たちが米国内で牧師になれず、按手礼を授けられず、つまり礼典儀式を施せなかったことにあります。ここには性差別と民族差別があります。ロティー=ムーンも含め、「神からの召しを受け、志願して福音宣教のために献身した英雄」という主観的・個人的側面ばかりを見るのは不十分です。社会的に捉えるならば、白人に対してはバプテスマを施せないように仕向けている白人女性に対して、白人男性社会は宣教地の有色人種に対してのみバプテスマを施す権限を与えたということなのです。白人男性>白人女性>有色人種という上下関係を、アジアに住む者として見抜く必要があります。ツィポラの急進的・先進的実践は、わたしたちの歴史検証に役立ちます。

後半の物語に入りましょう。「神の山」(27節)はホレブ山のことです(3:1)。シナイ山とも呼びます。この後の物語でヤハウェとイスラエルが契約を結ぶ場所でもあります(19章)。神の山という言い方の中に、「ヤハウェは山で見られる」(創22:14直訳)という観念が基礎にあります。神の山でヤハウェを前にして、アロンとモーセが再会を果たしたのです。

モーセはホレブ山からミディアンの自宅に一度戻り、もう一度ホレブ山に行ったことになります。アロンはエジプトから出エジプトを果たしホレブ山に言ったことになります。だから19章でシナイ山に着いた時、モーセは三回目・アロンは二回目の到着ということになります。この二人は出エジプトの経路について下見を充分にしています。

ヤハウェは27節の時点で初めてアロンに、「モーセに出会いなさい」と命じているのですから、やはり14節の「アロンは今、あなたに会うためにこちらに向かっている」というヤハウェの発言は勇み足だったと分かります。何としてもモーセを説得する思いは伝わります。この交渉過程でヤハウェは別の良いことを思いつきました。アロンの救いです。神の山である必要がここにあります。

アロンは6歳の頃、当時3歳だったモーセと別れました。実母なのにもかかわらず母ヨケベドはモーセの乳母として王の娘に雇われました。自宅にエジプト王子のモーセが居て、乳離れするまで一緒に遊んでいたのです。約80年ぶりの兄弟の再会です。

アロンはおそらく例のひどい勅令が出される前に生まれたのでしょう。「ヘブライ人男子が生まれたらナイル川に投げ捨てよ」という非人道的な勅令の適用外だったのでしょう。アロンはsurvivorなのです。戦災や震災などで生き残った人には独特の「罪悪感」が残ると言います。なぜあの人が死に、なぜわたしが生きているのかという宗教的な問いが、どうしても残るのだそうです。アロンより上のヘブライ人男性は、ある種の罪悪感を抱えていたと推測されます。彼らはおびただしいヘブライ人男子の死を日常的に見て育ったからです。

アロンにとってモーセとの出会いは一つの癒しとなります。姉ミリアムの機転によって命だけは救われたけれども、エジプトの王子となった弟モーセ。時々の労働現場では見かけて無事を確認していたけれども、亡命者となって行方不明になっていた弟モーセ。「モーセのことを考えると生きているのが申し訳なくなる」というのが、アロンの率直な気持ちだったことでしょう。そのモーセとの出会いは、アロンの心の刺を一つ抜きとることになりました。ヤハウェの引き起こす救いの出来事がここにあります。救いは心の傷の癒しでもあります。ここでヤハウェはアロンを救ったのです。

わたしたちはモーセを出エジプトの指導者として重んじるばかりに、ついアロンやミリアムのことを軽視してしまいがちです。たとえば新共同訳が、「モーセはアロンを伴って出かけ」(29節)という翻訳にも、その傾向が現れています。これではモーセがアロンを連れているように読めます。しかし原文は対等です。「モーセとアロンが行った」とあります。動詞に含まれる主語が単数なのでモーセを主にして訳したのでしょう。サマリア五書等は主語を複数にして両者を対等にしています。実際モーセがイスラエルの人々の長老を集めることは不可能です。実態としてはアロンが集めたとしか考えられません。「集めた」の主語は複数です。ここは「モーセとアロンが行った」と訳すべきでしょう。

さらにアロンがヤハウェの言葉を語り、アロンがしるしを行いました(30節)。この節の動詞の主語はアロンであり単数で統一されています。モーセは後ろに退いています。エジプトの地で、アロンはモーセを長老たちに紹介したのです。「自分の弟を指導者にして一緒にエジプトから逃げ出そう。そして自由にヤハウェを礼拝できる荒野に行こう。弟はヘブライ語が下手だけれども、自分が通訳するから大丈夫だ」と説得したのはアロンです。「民が信頼を寄せた」(31節)のはアロンに対してであり、アロンを介してモーセを信じたのです。

さらにアロンは「説教」までしているようです。単にヤハウェがモーセに語った言葉を告げただけではなく、31節にあるようにアロンは「ヤハウェがイスラエルを訪れた/観たこと、彼ら彼女らの苦しみを見たこと」を雄弁に語ったのです。アロンはモーセのエジプト語を通訳し、解釈して人々に慰めと励ましを語ったのです。雄弁な指導者アロンが適切な説教を民に語ることで、民はヤハウェの意思を知り、歩みを整えられていきます。

そして一同はひれ伏し礼拝します(31節)。この中にアロンもモーセもツィポラもゲルショムも当然含まれています。礼拝指導者=預言者ミリアムも居たかもしれません(15:20)。ヘブライ人は礼拝を中心として集まる信仰共同体です。血縁に関係なくヤハウェを礼拝するならばその人はイスラエルの一部となります。モーセたちミディアン人が受け入れられました。これはモーセたち家族の救いです。アロンにとってそれはある種の「償い」の行為だったのでしょう。そしてミリアム・アロン・モーセが指導者として民によって立てられました。

モーセは妻ツィポラに救われました。そのモーセと会って救われたアロンが、モーセ家族の救いに関与していきました。この相互の尊重し合う交差的行為が救いというものです。そしてこの指導者たちの舵取りによって、イスラエルの民全体の救いが成し遂げられていくのです。だから聖書の示す救いとは常に個人的な事柄を超えて集団の出来事であり、完成した過去の事柄を含みつつ未来に向かう過程の出来事です。礼拝する民に合流していく過程が救いの出来事です。イスラエルが目指した約束の地は、教会が目指す世の終わりの世界全体の救いの雛形です。新約聖書においてパウロがほとんどすべて救いを未来形で語ることと呼応しています。

今日の小さな生き方の提案は救いを相互に体験し続けましょう、仕え合いましょうということです。救われた者がバプテスマを受けるということは真実です。しかし、それで終わるのではありません。目標を目指して走り続ける過程が残されています。愛し合う相互行為が救いそのものです。主の晩餐はこの意味の救いの出来事そのものです。そこでは給仕し合うからです。わたしたちの目標はこのような交わりが神の創った全世界で実践されることです。世の終わりの主の食卓を目指して、今日も主の食卓を囲みましょう。