アロンの系図 出エジプト記6章14-27節 2015年4月26日礼拝説教

系図というものは胡散臭いものです。大概の場合は権威付けのために存在するからです。先祖に偉い人がいることと、その人が偉大であるかどうかは関係のないことです。個人の話であれば笑い話で済みますが、戸籍制度や皇統譜などの話題ともなると深刻になります。法律上は結婚後に戸籍を新たに作るわけですが、「(専ら女性は)結婚後に家に入る」という考えは根深く残っています。家制度の残滓です。世界的にも珍しい女性を不利にする制度です。今日の箇所でも「家の頭」(新共同訳「家系の長」14節)などとあるので、同じ問題が聖書の系図にもつきまといます。問題ある戸籍制度の、問題ある例外として皇統譜があります。皇族は戸籍に入らなくて良いというのです。それは神武天皇の権威(神話上の神の子孫である初代天皇)によるものです。

王が神の子孫であるという主張は世界中にあります。政治的神話と呼ばれる文学分野です。時の王朝の権威付けのためにそのような神話が作り上げられるのです。日本の記紀神話も正に政治的神話です。古代西アジア世界においても、エジプトでもメソポタミアでも政治的神話があり、王が神の子として崇められていたのでした。「王の系図が神に遡る」というのが要点です。

旧約聖書の天地創造物語は政治的神話と異なります。Pの筆による天地創造は創世記1章1節から2章4節前半までの物語です。そこで神は人間を創造します。男性・女性・彼らを創造します。この人々はただの人です。地上の権力者・王ではありません。ここには系図による権威付けがないのです。王だけではなく、自分の民族だけでもなく、すべての人が神の似姿であると言っています。この言葉は、古代における人権宣言です。人間の平等や人間の尊厳性という視点で系図を読み解く必要があります。

ちなみに創2:4にある「由来」(トレドト)という言葉は、「家系」(16節・19節)と同じ言葉です(創5:1、創11:10、創36:1「系図」も)。ユダヤ人にとって系図は物語そのものでもあります(代上1-9章)。

新約聖書も今日の系図を読み解く鍵を与えています。イエス・キリストの系図がマタイによる福音書1章に記載されているからです。キリストは聖書の解釈原理・読み解きの物差しです。マタイの系図の特徴は女性たちへの言及です。家制度・民族主義と性差別を前提にした男性中心の系図の中に例外的に4人の女性が記載されています。カナン人タマル(マタ1:3)、カナン人ラハブ・モアブ人ルツ(同1:5)、ヘト人ウリヤの妻(同1:6)、みな外国人女性である妻です。イエスの母親マリアは、この4人の先輩たちの系譜を継ぐ者です(同1:16)。長男優遇・純血主義促進の系図に対する批判がここにはあります。

人間の平等と小さくされている人への共感という視点を持って「アロンの系図」を読み解いていきます。なお今日の箇所の中心はアロンの系図です。新共同訳聖書の小見出しにある「モーセとアロンの系図」ではありません。モーセの子孫が省かれているからです。また、ルベン部族・シメオン部族の扱いは極めて軽く(14-15節)、専らレビ部族の系図に重心が置かれており、そのレビ部族の中でアロンの先祖と子孫に手厚い言及がなされているからです(16-25節)。「アロンとモーセ」(26節)の順番はこの文脈では正しいものです。

今日の箇所には4人の女性が登場します。名も無いカナン人女性(15節)、アロンの母親であるヨケベド(20節)、アロンの妻であるエリシェバ(23節)、アロンの嫁プティエルの娘の一人です(25節)。実はギリシャ語訳聖書とサマリア五書においてはもう一人の女性が言及されています。20節の「アロンとモーセとその姉妹ミリヤム」とあるからです。ミリヤムのギリシャ語名がマリアなのですから、アロンの系図はキリストの系図と重なります。

非イスラエル人という点においても重なり合いが確認されます。15節のシメオンの妻は明確にカナン人と書かれています。それだけではありません。25節のプティエルとピネハスはエジプト人の名前です。ピネハスはエジプト語で「黒人」という意味です。エルアザルの妻はかなり黒い肌を持つエジプト人だったのでしょう。ついでに言えばアロンもモーセもエジプト風の名前です。民族主義を乗り越えるきっかけがあります。

出産の経緯が「常識」的ではないという点においても重なり合いがあります。タマルは元々息子の妻でした。ラハブは娼婦でした。ウリヤの妻を強引にダビデは奪ったのでした。そしてマリアの父親は婚約者ヨセフではありませんでした。アロンの母親ヨケベドは、夫アムラムの叔母にあたります(20節)。これは同じP集団の法律によれば禁じられた結婚です(レビ18:12-13)。このことに耐えられないギリシャ語訳やサマリア五書は「叔母」を「従姉妹」と書き換えています。また、アロンの妻エリシェバは、「アミナダブの娘でナフションの姉妹」とされています。ルツ記4章20節によるとエリシェバはユダ部族でありレビ部族ではなくなります。アロンの系図にも「常識」的でない点があるのです。世間体を乗り越えるきっかけがあります。

なお別の角度から、この系図の中の重要人物を挙げておきます。一つは年齢が伝えられている人物3人。レビ(16節)・ケハト(18節)・アムラム(20節)です。レビは長男ルベン、次男シメオンを差し置いて実質的な長男に格上げされています。確かにモーセ五書はレビ部族が主役の本です(出2:1)。ケハトも次男でありながら、この後の物語で大祭司の氏族とされるので重要です。アムラムはアロンの父親であるという点で重要です。

この後の物語においてアロンの長男ナダブ・次男アビフ(23節)は失脚します(レビ10章)。同じくコラ(21・24節)もルベン族の一部と共に失脚します(民16章)。これにより三男のエルアザルが実質的に長男に格上げされアロンの後継者となります(民20:28)。エルアザルの息子のピネハスもシメオン部族の一部を粛清して高く評価されることになります(民25章)。五書は全体にルベンとシメオンを貶めて、レビを持ち上げる傾向にあります。そして聖書全体は兄姉を貶めて、弟妹を持ち上げる傾向を持っています。イサクも、ダビデも、ゼベダイの子ヨハネも弟でした。ラケルもベタニヤ村のマリアも妹でした。小さくされている者を選ぶ神という視点が、アロンの系図においても重要です。

このように見てくると、アロンの系図は単純に権威付けのためのものではないことが分かります。単純に民族主義を助長するものでも、男性中心社会や家制度を擁護するものでもありません。大祭司の系図は、地上の「常識」から外れた神の支配の下にある出来事です。肉中心の人間の考えでは、イスラエルも純血主義を守りたかったかもしれません。しかし多様性に寛容な神を信じるゆえに、また、すべての人間の平等を説く神を信じるゆえに、さまざまな人々との結婚がイスラエルの中にありました。

さらに神の支配と言っても、すべてがきれいな話しではありません。醜い骨肉の争いが部族間・氏族間・家族間にあり、不思議ないきさつを辿って正統なる大祭司の家系が「残りの者として選ばれる」のです。罪の多い人間臭い歴史の只中に神の計画が進められていきます。

さてもう一人の重要人物を紹介いたします。それはアロンの叔父ヘブロンです(18節)。旧約聖書において人名と地名は深く結びついています。その人がその町や民の創始者と考えられる場合があるからです。ヘブロンはレビ部族に与えられた48の町の中の6つの「逃れの町」の一つです(ヨシュ20:7、民35章)。逃れの町とは、故意にではなく誤って人を殺してしまった人をかくまうための場所です(民35:22-28)。当時は仇討ちが合法だったので、裁判の前に被疑者が殺されてしまう場合があったのです。死刑制度はあったので不十分ではありますが、しかし、過失致死を犯した人は逃れの町に逃げれば安全に守られるという規定は極めて人道的なものでした。大祭司の任期中は逃げた者は同一の逃れの町に留まることが定められています。匿うことを認めた責任はアロン・エルアザル・ピネハスの子孫である大祭司にあったということです。

レビ部族のヘブロンという人名は、逃れの町ヘブロンを連想させます。これはアロンとモーセの関係をも連想させます。モーセはエジプトの王子でした。彼はヘブライ人の男の赤ちゃんをナイル川に投げ捨てる政策に、ある程度関与しています。彼自身は被害者でもあり加害者でもあります。少なくとも一般のヘブライ人にはそう受け止められていたでしょう。またモーセは、故意にエジプト人を一人殺しています。十戒の第六戒によれば、敵であろうが殺してはならないのですから、モーセは単なる殺人者です。

後に大祭司になるアロンは、モーセにとって逃れの町として機能しました。ヘブライ人仲間に対してモーセを庇うのです。また、すべてのいのちの創り主である神に対してモーセを庇うのです。「このアロンとモーセ」(26節)、「このモーセとアロン」(27節)と、語順を入れ替えて強調しているのは、二人の関係を見よという注意でしょう。モーセはアロンに包まれています。

ヘブライ人への手紙7章23-25節には、レビの系統の大祭司たちよりも優れたイエス・キリストという大祭司が紹介されています。そこではイエスは常に生きていて人々のために執り成し、自分を通して神に近づく人たちを完全に救うことができると告白されています。イエス・キリストこそ逃れの町制度を体現されています。民族主義を超えてわたしたちがどのような人であっても、あるいはどのような状態であっても神に弁護する、徹底的に庇う、「頼りになる弁護士」こそイエスという大祭司です。

アロンの系図は、わたしたちにとって示唆深いものです。日本に住んでいるわたしたちは家制度にはめ込まれています。実は聖書の系図は長男中心の家制度を前提にしながらも、それ自身を内部から批判している面もあるのです。その点に着目しほっとしましょう。そして民族主義に基づく非難であるヘイトスピーチを排斥しましょう。非寛容な者に対しては寛容である必要がありません。

バプテストの教会は「万人祭司」という単語をよく用います。しばしば「牧師に頼らず一所懸命奉仕をしなさい」という文脈で用いられます。人間が平等であるので、特定の教会員に限定する必要はありません。わたしたちが礼拝の奉仕をさまざまな人に分散している所以です。ただし「万人」に重きが置かれ、「祭司」の内容が吟味されない傾向もあるように思えます。

教会運営・礼拝の外の活動は、厳密には祭司の仕事ではありません。教会は礼拝以外の活動で忙しくなり過ぎないように気をつけるべきです。また、作業以外にも祭司には重要な勤めがあります。それは人を庇うことです。弁護することです。執り成して祈ることです。「祭司の実務として」というよりは、「祭司の精神として」寛容であり包容力がなくてはいけません。

わたしの願いは泉教会が地域にあって逃れの町として機能することです。イエス・キリストを礼拝しながら、すべての人を弁護し救うために十字架で殺され、今ここに生きて働く大祭司にならって、一人ひとりが包容力を身につけることです。すべての人を招き歓迎する礼拝によって、そのことがなされると信じています。世界で小さくされている人が、教会の礼拝で伸びやかになり広い心を得るならば、わたしたちは共に福音に与っているのです。