アンティオキア教会への手紙 使徒言行録15章22-29節 2022年6月19日礼拝説教

 議長役であるヤコブの判断により、エルサレム会議の結論は文書に残され、手紙として送られることになりました(19-20節)。「使徒書簡」「使徒教令」(23-29節)などと呼ばれます。ヤコブが使徒ではないことや、むしろエルサレム教会全体の意思であることから(22節)、「使徒書簡」という名称は不適切です。それはアンティオキア教会だけではなく、シリア地方とキリキア地方にある教会全体に回覧されるための手紙です(23節)。「エルサレム教会による、シリア・キリキア地方にある諸教会への手紙」という名称が正確でしょうか。教会宛て手紙という伝達方式から、新約聖書という本の成立に思いを巡らせます。

 新約聖書に収められている27文書のうち最も古いものは「テサロニケの信徒への手紙一」です。パウロがテサロニケの町にある教会にあてたギリシャ語の手紙です。その手紙が他の教会でも回覧され、次第に礼拝で用いられ、聖書に格上げされていったわけです。初代教会がもつギリシャ語の手紙重視の文化は本日の箇所から始まったのではないでしょうか。23節「挨拶する」、29節「あなたたちは強くあれ(お元気で!)」は、当時のギリシャ語手紙の定型句です。アラム語話者のヤコブは、マルコかバルナバかパウロか翻訳奉仕者を用いて、アラム語とギリシャ語と両言語で同じ手紙を書いています。その内容はレビ記17-18章の日常生活への適用です。この手紙は広くシリア・キリキア地方のナザレ派で読まれ、日常生活の指針となりました。

 パウロという人はこの手紙に影響を受け、さまざまな教会に向けて、時には最初から諸教会に回覧させる目的でギリシャ語の手紙を書いたのではないでしょうか。文書として残ることは持続的に影響力を行使し続けることができるということを知っているからです。それに対してマルコは福音書という分野を創始して対抗します。教会員の日常生活は、ナザレのイエスの言動に根拠を置くべきと考えたからです。パウロもマルコも出席したエルサレム会議は、手紙と福音書という新約聖書の二大潮流の基礎を形づくります。

22 そこで、使徒たちと長老たちにとって、教会の全てと共に、彼らから男性たちを選んでパウロとバルナバと共にアンティオキアに送ることが(良いと)思われた。(すなわち)バルサバと呼ばれているユダとシラス、兄弟たちの中で指導し続けている男性たち(である)。 

 「(良いと)思われた」が本日の箇所では3回用いられています。何度も繰り返されているのですから鍵語。エルサレム会議の雰囲気を伝える微妙な表現です。「良くない結論だったかもしれない」という含みがあります。現代の視点から読み直すと、直訳でしつこく「男性たち」と示している通り、男だらけの代表者(使徒・長老)・男たちの選び・男たちの派遣という問題を抱えているので、「半分の民主主義」による良くない結論だったのかもしれません。著者ルカは、バルナバとパウロに対しては「男性たち」ではなく、「人間たち」(26節)と呼んでいます。22節には男性中心主義に対する、著者の皮肉・否定的な見方が読み取れます。

 今日に至るまで続く男性中心主義への批判を深く抑えつつも、肯定的な見方も成り立ちます。つまり「(良いと)思われた」(ギリシャ語「ドケオー」。「決める」は意訳)という構えは、教会や教会で行われる話し合いに必要な謙虚さをも示してもいます。どんなに優れた意見でさえも一意見です。本当に良い意見かどうかは分かりません。どんなに議論を尽くした決議でも本当に神の御心にかなっているかどうかは分かりません。すべての決議は「その時点でのよりましな結論」でしかないのです。教会の総会においても連盟の総会においても、わたしたちは常に謙虚に構えるべきです。

23 (彼らは)彼らの手を通して書いた。「使徒たちと長老たち、(すなわち)兄弟たちは、アンティオキアとシリアとキリキアの下にある、諸民族からの兄弟たちに、挨拶する。 24 私たちからの何人かが出て行って――彼らに対して私たちは指示をしていない――、あなたたちの精神をひっくり返しつつ、あなたたちを言葉で煩わせたと聞いた時に、 25 私たちにとって同じ思いになるということが起こり、男性たちを選んであなたたちのもとに送ることが(良いと)思われた、私たちの愛するバルナバとパウロと共に、 26 私たちの主イエス・キリストの名前のために彼らの精神を引き渡された人間たち(と共に)。 27 それだから私たちはユダとシラスを送った。彼らも口頭で同じ事々を語る。 

 エルサレム教会はアンティオキア教会を混乱させたことについて、「自分たちの指示ではない」と釈明します(24節)。おそらくファリサイ派出身のその教会員たち(5節)にはお咎めもなく、アンティオキア教会への公の謝罪もありません。悔い改めとしては不十分です。

 しかし、ファリサイ派出身の教会員のなしたことの重大性をヤコブは明記しています。それはアンティオキア教会員の精神をひっくり返す行為、言葉を用いた暴力です(24節)。「割礼を施してまずユダヤ人になってからでなくては、あなたは救われない」という主張は、諸民族からなる教会と、割礼無しに教会生活を過ごしている信徒を差別し侮辱しています。舌を制御していない差別発言を見過ごすことができないので、「聞いた時に」すぐに対処したのだとヤコブは書きます(24節)。重大緊急事案との認識と、即座の対応でもって、エルサレム教会の誠実さを示そうとしています。

 この緊急議案の審議の最中に「同じ思いになるということが起こり」ます(25節)。これは教会の本質です。「同じ思いで」(ホモスマドン)という単語はルカ特愛の言葉です。新約聖書全体で11回しか登場しませんが、そのうちの10回が使徒言行録に集中しています。ルカは教会を「同じ思いの交わり」として描いています。合成語で原意は「同じ」+「激情」です。エルサレム教会はアンティオキア教会代表団と話し合い、同じ憤りを持ったのです。怒りは正義を実現する原動力です。ユダヤ人優越という不公平が正されます。

 バルナバとパウロ(とテトス)をただ手紙と共にアンティオキア教会に返すだけでは真心が伝わらないかもしれません。エルサレム教会を代表して手紙を運び、書面と同じ内容を口頭でも告げる者たちが必要です。この部分は使徒、長老という役職者のアイディアではなく、「預言者」(32節)という役職者による発案でしょう。元々預言者たちはアンティオキア教会と太いパイプがありました(11章27節)。

 バルサバ(「シェバ/ツァバの息子」の意)と呼ばれるユダシラス(アラム語名「シェイラ」、ラテン語由来のギリシャ語名「シルワノス」一テサロニケ1章1節)。二人の預言者がエルサレム教会を代表する者として選ばれました(22・27節)。ユダは、十二使徒補欠選(籤引き)で選ばれなかったヨセフと兄弟かもしれません。ヨセフも「バルサバ(シェバ/ツァバの息子)」と呼ばれているからです(1章23節)。最初期エルサレム教会員の一人でしょう。

重要な写本がシラスを「セイラス」と綴るので、シラスのアラム語名は「シェイラ」と推測されます。後にパウロの伝道旅行に同伴します(40節)。ギリシャ語が堪能だったのでしょう。しかし忽然といなくなります(18章5節が最後)。彼はパウロと同じく、二つの名前を生まれつき持っていました。直接面識のある著者ルカは、自分が呼び慣れた「シラス」で統一しています。もしこの代表団にシラスが選ばれていなかったならば、フィリピの町でルカとシラスは出会わなかったのです。深い感慨を込めてルカはシラスの使徒言行録登場を記しています。シラスはユダの通訳ができます。

バルナバとパウロ(とテトス)は「人間の漁師」となっています。エルサレム教会から二人の預言者たちを連れ、アンティオキア教会に帰るからです。イエス・キリストの名前のために自分自身が引き渡され、十字架の道を従う者は、仲間を増やすことができる人間です。ユダとシラスと共なる帰りの旅はアンティオキア教会代表団にとって嬉しい帰り道です。理解者を伴う歩み、共感者が増えていく人生は幸いです。

28 というのも聖霊にとって、また私たちにとって、あなたたちの上に、必要な事々を除外して、これ以上負担を置かないことが(良いと)思われたからだ。 29 偶像への供え物と血と絞め殺したものと近親相姦等から離れること。これらのことからあなたたち自身を守り続ければ、あなたたちは良く行うだろう。あなたたちは強くあれ。」

 ここにも教会の本質が語られています。教会は、聖霊にとって良いと思われるかどうかを基準に、さまざまな判断をする群れです。「私たちにとって」というよりも前に、「聖霊にとって」どうなのかが重要です。語順が示す通りです。そして「というのも・・・からだ。」(28節)とあるように、聖霊にとって良いかどうかは、今までの結論を支える根拠や理由付けになっています。教会は、霊である神のみ旨が何であるのかを真っ先に尋ね求めるべきです。そして話し合いの結論が、聖霊にとって良いかどうかを最後に吟味すべきです。隣人に負担を負わせることを、霊である愛の神は望むでしょうか。隣人を不公平に扱うことを、霊である義の神は望むでしょうか。

 レビ記17-18章に記されていることは元々、ユダヤ人と諸民族が共に生きる時の決まりを記しています(レビ記17章10節他)。バルナバやパウロのようなパレスチナ以外で育ったユダヤ人にはお馴染みの規程です。だから29節にある四つの避けるべき行為は、シリア・キリキア地方の教会でも熾烈な問題にならないものばかりです。強いて言えば、偶像への元供え物を食べることは、うっかり破ってしまいそうです。20節においても筆頭に置かれているのでヤコブの強調点は、「偶像への供え物を食べる主の晩餐は、それを嫌がる者たちが居る限りにおいて止めてほしい」ということなのでしょう。

ともかく29節の四つの中に、割礼の強制がないということが最重要なのです。それが負担であり、差別の温床なのです。割礼に言及しないということは、信徒は割礼をしても良いししなくても良いということを意味します。ユダヤ人男性信徒は割礼をし続けるかもしれませんが、それで威張ることはできません。ユダヤ人女性や諸民族の信徒は割礼をしないけれども、それで卑下することはありません。また割礼を奇妙な習慣として嘲ることもできません。すべての人間は、神の子として平等だからです。テトスの叫びが聞かれました。

 今日の小さな生き方の提案は、教会の本質を今一度確認するということです。教会は、あふれ出る情熱・熱情・激情passions、そして現実生活で受ける苦難・困難passionsを、共に分かち合う交わりです。compassionは共感。教会は共感する交わりです。おびただしい共感は混沌を生みます。聖霊は混沌の海に働きかけ、義と愛という座標軸によって新しいことがらが創造されます。信徒が聖霊にとって良いと思われることを祈り求める時に、必ず知恵が授けられ教会の行く道が示されます。