イエスの兄弟たち ヨハネによる福音書7章1-9節 2013年10月6日礼拝説教

先週までの話で、イエスの論敵であるユダヤ人も、いったん弟子になった者たちも、さらには十二弟子と呼ばれる中心的な弟子たちでさえも、本当のところはイエスのことを理解できていないことを確認してきました。むしろすべての人はイエスを十字架刑に引き渡す側に回るのです。その意味でイエスの周りにいる者はすべて信実な人たちではありません。信頼に値する誠実さをイエスに示していません。そしてそのことを知りながらも、イエスは弟子たちを信頼し続けます。イエスの信実のみが群れを成り立たせています。

今日の話は、その流れの中にあります。イエスの肉親の兄弟たちも、同じようにイエスについて無理解であるということを明らかにするからです。この弟たちはヨハネ福音書ですでに登場していました。2:12です。カナという町の結婚披露宴のときに、母親と共に兄弟たちもイエスの弟子となっているということを確認しました。その時からずっとイエスと同行していたと推測します。

弟子たちの多くが離れ去った後も(6:66)、兄弟たち(厳密には弟たち)はイエスに従っていました。しかし仮庵祭というユダヤ人の一大祝祭日にエルサレムに行かないというイエスの態度に、弟たちは猛反発します(2-3節)。一体なぜ弟たちはイエスのこの態度を批判したのでしょうか。

一つにはユダヤ人の祭りをユダヤ人であるならば大切にすべきだという考えが強かったからでしょう(2節)。イエスのすぐ下の弟にヤコブという人物がいます(マコ6:3)。この人は後のエルサレム教会の指導者になる人です(使徒12:17、15:13、ガラ2:9)。そして彼の主導する教会は最もユダヤ教に近いものでした。神殿にも必ず参拝するし、全員割礼を受けたユダヤ人であり、律法を守りながらイエス・キリストを礼拝し続けていたのです。このヤコブならば、「ユダヤ人ならば仮庵祭を大切にすべきだ」と言っても不思議はありません。「民族宗教を大切に」という理由です。

二つ目の理由は離れ去った弟子たちを再び呼び戻すためにエルサレムに行くべきだという理由です。3節の「弟子たち」という言葉は、直訳すると「あなたの弟子たち」です。これは6:66で離れ去った多くの弟子たちのことであろうと思います。弟たちは兄が弟子たちをつまずかせたことを失敗だと思っています。「あなたの散らしたあなたの羊を一匹残らずかき集めたらどうだ」というわけです。仮庵祭は絶好の機会です。そこで多くの離れ去ったユダヤ人弟子たちと会えるからです。

三つ目の理由は「表現者たる者、死を恐れるな」というものです(1・4節)。殺されそうなユダヤ地方を避けて安全なガリラヤだけに居るとは何事か、言いたいことがあるならば、首都エルサレムで巡礼に来ている多くの人々の前で堂々と発表すれば良いと、イエスを批判したのです。「わたしはある」=毅然としていることは良いことだと言いながら、なぜ殺されることを避けるのかという理由です。自分たちは死を覚悟してエルサレムに行く構え、そこで一旗揚げる構えなのです。

5節にあるように、この時点で弟たちは弟子であることを止めます。同じ食卓を囲み、宿を同じくする信頼のネットワークから離れていきます。彼らも他の弟子たちと同じくもともとイエスを全人格的に信頼しているわけではなかったのです。「信じていなかった」という言葉は、ギリシャ語の未完了過去という時制です。これは過去の継続した動作を示します。弟子として同行していたけれども、心の奥底では肉親の兄としか思っていないのです。そして家父長制が強い時代のこと、父親や長兄の言うことに従わざるをえないからついてきただけだったのでしょう。ここに弟たちだけが持っている特殊な事情があります。肉親だからこそ公正な目で相手を見ることができなくなっているのです。

この弟たちの反抗には良い面と悪い面があります。今日の小さな生き方の提案は良い面を倣うことと悪い面を真似しないように注意することです。6-8節にあるイエスの言葉を手掛かりにして、倣うべき点と真似してはいけない点を申し上げます。

イエスは弟たちの行動を止めません。8節にあるように、「あなたがたは祭りに上って行くがよい」と、彼らの意思を尊重しています。この態度は家父長制の強い世界では珍しいものです。一番上の兄が言ったことには不服でも従わなくてはいけなかったのです。弟たちが自由に意見を言えたということも驚きです。そしてそれを認めたイエスも見事な態度です。

今までは兄に付き合って弟子となっていたのかもしれません。しかし、弟たちは自分の頭で考え始めたのです。兄はおかしい、もっとユダヤ人らしく振舞うべきだ、離れ去った弟子仲間にもっと情をかけるべきだ、弟子に向かって「悪魔呼ばわり」すべきではない、偉そうなことを言うのなら権力者たちを恐るべきではないと、弟たちは考え始めました。

このような態度はイエスを信頼していないとも言えます。しかし、その反面このような態度は自立の始まりです。本心に立ち返ることです。自分の良心に従うことです。形式的には信頼しているように見えてもどうせ中身はなかったのです。むしろつまずいたほうが幸いです。本当にしたいことがあり、それがイエスの言行とぶつかり合ったときどうすべきか、この葛藤こそ大事にすべきです。実はこの類の葛藤から信仰が始まるからです。

一つのお勧めは、自分の頭で考えることです。イエスはそれを尊重する方です。仮にそれが間違っていたとしても、思考停止した上で権威に従うだけの行動よりも祝福があります。弟たちはここで一回イエスと離れなければ、十字架と復活の主に出会って再び弟子になることはなかったでしょう。全般に、自分の意見を持つことは良いことです。バプテスト派の言い方で言えば、自覚的信仰告白というものは、自分の頭で考え自分の言葉で表現されるべきものです。

ただし倣ってはいけない面もあります。それは彼らが持っていた意見そのものの問題です。弟たちのイエス批判の内容には問題があります。

弟ヤコブと異なりイエスは民族主義に立ちません。ユダヤ人であるならばエルサレムで仮庵祭をすべきと考えていません。実際、イエスの弟子にはすでにサマリア人が含まれています(4章)。彼ら・彼女らにとっては、仮庵祭の場所はゲリジム山です。その立場も尊重しなくてはいけないし、もはやどこででも礼拝できる時が来ているのです(4:23)。

民族には独自のカレンダーがあります。10月になれば仮庵祭と決まっています。「あなたがたの時はいつも備えられている」(6節)というのは、暦はいつでも定まっていることを言っているのでしょう。こういった民族にとっての大事な場所や時、それらに縛られることは不自由だとイエスは言いたいのでしょう。民族主義とそれと深く結びついた血縁主義が批判されています。

教会が語る「兄弟姉妹」の交わりは民族主義を超えたもの、血縁主義を乗り越えたものであるはずです。もはやギリシャ人もユダヤ人もありません。もちろん、科学的に性は男女二つに限られないので、「兄弟姉妹」という言い方には神学的課題があります。「間性」の人も含め性的少数者がある一定数居ることは明らかにされています。この意味でもはや男もなく女もないのです。これらの点を含め、「イエスのきょうだいであるということ」は、どのような交わりなのでしょうか。このことを深めるために、十字架の場面を読みましょう。十字架の時こそ、今日の箇所で繰り返し言われている「わたしの時」(6・8節)だからです。19:25-27(207頁)をお開き下さい。

血縁の落とし穴にはまってイエスを見誤った弟たちの一方で、イエスの母親は弟たちに同調せず、ずっとイエスの弟子であり続けました。ここに、イエスの母親と叔母、クロパの妻マリアとマグダラのマリア、「愛する弟子」の五人だけが十字架刑を間近で目撃したことが書かれています。そして母マリアを引き取るのは、実の息子たちではなく「愛する弟子」です。

7:7にある「世はあなたがたを憎むことができない」という言葉は、十字架刑のときに実現しました。弟たちは世と同調してイエスを見棄て殺す側に回ったからです。ここで「世」(4・7節)というのは世間のことです。民族主義を当然の常識とする世間こそ、イエスが「世の行っている業は悪いと証している」ことがらです(7節)。弟たちはイエスに無責任にも「自己責任を取れ、死ぬ覚悟で語れ」と言いますが、これは欺瞞です。本人たちは決して危険なところにいないで、隣人には危険を冒せと言うからです。自分は安全な世間の中にいながら、世間に楯突く人を葬ろうとするからです。

この弟たちと違って、母親や叔母、匿名の弟子やマグダラのマリアらは、黙々と十字架まで従っていったのでした。この「愛する弟子」を最初に弟子となった匿名の一人であるとする説があります(1:35-40)。そう考えても良いかもしれません。華々しい教会指導者(パウロ、ペトロ、主の兄弟ヤコブ、十二弟子)たちを批判する視点がヨハネ福音書には満ちているからです。教会の交わりは匿名の者たちが担うものであり、その意味で特定の権威によらない平等の交わりなのです。これらの反面教師としての血の繋がった実の弟たちの姿から、また、彼らと反対の態度を取る血の繋がっている実の母親と、血の繋がっていない「愛する弟子」らの姿から、わたしたちは教会の交わりの理想を知ります。ギリシャ人もユダヤ人もない・男も女もない、ただイエスを中心に座り、御心を行う者たちの集まり、それが教会の理想です(マコ3:31以下)。

今日の一つの小さな生き方の提案は、教会という名前の、画一化した世間をつくるなということです。日本社会も血縁社会、民族主義の強い社会です。血の繋がりを重視します。そこで個人が埋没してしまうのです。「民族の時」が「わたしの時」よりも優先されがちです。あるいは民族主義を煽る強烈な個性を持つ指導者に、あっという間にのめっていくこともありえます。東京オリンピックは極めて危険な行事です。ナチスドイツが国威発揚のためにベルリンオリンピックをしたことが歴史の反省としてあるからです。教会は一人ひとりを尊重しない世間に対して常に批判的な目を注いでいかなくてはいけません。

そして同時に教会の中では一人ひとりが個人として尊重されなくてはいけません。そのために具体的に何をすれば良いのでしょうか。お互いが適切な距離を保って個人の生活や考えに踏み込まないことだと思います。もちろん大まかに生き方を学ぶことは礼拝においてなされます。キリスト者として生きるということの方向性は確認されるべきです。しかし微に入り細に渡って細かいことを指図すべきではないでしょう。牧師の支配欲のために礼拝説教というものはないのです。人権侵害や暴力行為に及ばない限り、各人の言動は自由です。「あなたは上っていけば良いし、わたしが上らないのも良いでしょう」という態度が大切です。あなたのしたい時、わたしのできる時、あの人がしない時があるのは当然のことという構えが必要です。各人に「わたしの時」あり。人の行動を規制したり強制したりすることを奉仕という言葉でおしつけてはいけません。

世間は非寛容です。多様性を認めません。そのような世の只中でわたしたちは多様性を認め、個人が尊重される群れをかたちづくりましょう。