イエスの涙 ヨハネによる福音書11章28-37節 2014年3月2日礼拝説教

今日の聖書の箇所も先週からの続きです。マルタとの対話を終えて、イエスはマリアと話し合います。この話し合いはマルタが設定したものです(28節)。マルタは一応の理解を示してイエスを迎え入れようと考えました。しかしまだマリアの意志を聞いていません。マルタとマリアの間にも上下はありませんでした。マルタはマリアの意志も尊重し、イエスを迎え入れるかどうかの判断をマリアに委ねます。彼女たちはイエスの弟子となってから、水平の交わりを形づくることを旨としていたのでしょう。家長であってもマルタは勝手に決めません。だから、「イエスがマリアを呼んでいた」というよりは、マルタがイエスをその場所に引き留め、妹マリアを呼んだというのが真相でしょう。これが先週のイエスとの関係での合意形成と(もう一度イエスを信じてみよう)、マリアとの関係での共感・連帯(ラザロの病気・死に対して不実なイエスへの恨み)のどちらにも誠実であろうとするマルタの態度です。このような誠実な態度にわたしたちも見倣いたいと思います。ただし、今日の主役はマルタというよりマリアです。

マリアは姉マルタが行った場所まで行きます(29-30節)。マリアの家にはすでに弔問客が大勢いたので、その人たちも事情を知らずについてきます。彼らは、マリアが泣くためにラザロの墓に行くのだと誤解をしていたようです(31節)。この場合の「泣く」というのは、習慣としての「嘆き」です。葬儀の時には儀礼的に泣かなくてはいけなかったので、「泣き女/男」が雇われることもあったそうです。33節の一緒に来て泣いたユダヤ人というのも、その類の習慣上の嘆きを行っている人々です。彼らから見ると、マリアが泣くために墓に行く行為は、世間的な意味で褒められるべきことです。33節「泣きに行くのだろうと思い」と訳されていますが、「泣きに行くことを崇めて」が直訳です。マリアはイエスに会うために家を出ました。その一方で人々は、当時の規範に従って常識的な行動をとっている(と誤解している)マリアを追って、同じように世間並の行動をとろうとして家を出ました。

この一群は、同床異夢・呉越同舟の集団です。先週も申し上げたとおり、ユダヤ人権力者たちはイエスの弟子たちを監視していました。弔問客の中にも、監視する密告者がいたことでしょう。イエスの弟子となって以来常識的なユダヤ人らしく生活していないマルタ・マリア・ラザロ兄弟のことを、憎んでいた人がいたかもしれません。「慰める」という言葉は、「お悔やみを述べる」という意味の言葉ですから、社交辞令以上のものではありません。彼らはマルタ・マリアの行動を隣組のように監視していたのです。世間並の義理をきちんと果たしているかどうかを見張っていたのです。33節でイエスは、マリアが泣いているのを見、そして同時に一緒に来たユダヤ人が泣いているのを見たという具合に別々に書かれているのは、この一群が別の理由で泣いていることを説明しようとする著者の筆使いです。マリアは本心から悲しくて泣き、その他の者たちは世間的な習慣で悲しいふりをして泣いているのです。

マリアはマイペースな人物です。後ろに誰がついてきているのかはほとんど考えていません。人目をはばからずにイエスを見るなり足元にひれ伏します(32節)。ルカ10:39でも、マリアはイエスの足元に座り何の仕事もしないので姉マルタのひんしゅくを買っています。それでもマリアは気にしません。また、ヨハネ12章でもナルドの香油をイエスの足に塗り自分の髪でぬぐうという驚きの行為に出ます。これもユダからのひんしゅくを買いますがそれでもマリアは気にしていません。彼女はそういう弟子でした。ユダヤ人らしく、女性らしく、イエスの弟子らしくなど、さまざまな「らしく」を打ち破っていたのでしょう。マリアはいつもマリアらしく生きていたのです。ここにマリアの凄みがあります。彼女はわたしたちの模範です。わたしたちがさまざまな「らしさ」に縛られ苦しんでいるからです。母/父親らしく、男/女らしく、大人/こどもらしくなどなど、周りを気にしすぎてくたびれてしまわないでしょうか。キリストによって解放されたマリアのように、「自分らしく」生きたいものです。

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)。この言葉は21節のマルタの言葉とまったく同じです。しかしマルタが仁王立ちとなって立ちはだかって言ったのと異なり、マリアは土下座して言いました。マルタは言葉で理性的に対話しましたが、マリアは感情的に泣きました。どちらも同じ理由でイエスの前にいます。それは返答次第ではお帰りいただくという強い意思表示です。

信頼のネットワークにひびが入っています。先週は対話努力と合意形成によってそのひびが修復されていくことを模範として考えました。今日の修復の仕方はもっと感情的なものです。マリアは梃子でも動かないマイペースな人です。そのマリアが土下座して泣いてイエスに恨みを語っています。本心をぶつけています。その必死さにイエスは圧倒されます。熱意が人を動かすものです。ここにもわたしたちの模範があります。本当に怒っているのだ・悲しんでいるのだ・恨んでいるのだということを素直に言える関係はそうそうないものです。これはひび割れを大きくするかもしれない行為ですが、しかしあえてきれいに割って、接着しなおすことができるかもしれません。新たな器を作るためにひび割れを模様にしてしまえば良いのです。

マルタは話し合いを設定したつもりでしたが、マリアは共に泣く場を創造しました。「本当に悪いことをした」という謝罪が、その場から生まれます。35節のイエスの涙についてはさまざまな解釈がありますし、さまざまに考えて良い箇所です。わたしは今日、この涙の理由を謝罪と解したいのです。およそ信頼の回復には誠実な謝罪と賠償が必要です。ラザロの死の責任が問題になっている場面、二人の姉妹との信頼関係の回復には誠実な謝罪と賠償が必要です。今日のイエスの涙が謝罪にあたり、次週の蘇生が賠償にあたると理解します。

33節「心に憤りを覚え、興奮し」は分かりにくい言葉です。そしてこの箇所の解釈が今日の肝です。「霊にて鼻息を荒くし、自らを混乱させ」というのが直訳です(田川訳)。新共同訳は、「霊」を「心の深いところ」と解して、イエスの内心の動きに焦点を合わせています。しかしここは素直に、イエスが慌てふためいている外見の様子を表していると考えたほうが良いでしょう。というのも、古代人にとって霊と風と息は同じ意味だからです。びっくりして過呼吸になっている状態と言えば分かりやすいでしょうか。マリアの土下座という行動はイエスの不意をつくものであり、また彼女の涙と気迫にイエスはすっかり動揺しているのです。「神の子が動揺するわけがない」と考えるのは一面的な教条主義です。「人の子」となった神なのですから、人間的な感情を持っている方が自然です。あるいは「風は思いのままに吹く」という言葉に重ねて、イエスも呼吸が乱れることがあると考えれば良いでしょう。

イエスは茫然自失の状態で立ち尽くしていました。自らの責任の重さに、立っていられないほどのショックを受けています。マリアがラザロの死の責任を土下座と涙で訴えている、その訴えの強さに耐え切れないのです。脈拍が早くなり呼吸が荒くなりました。イエスは混乱して、「あなたたちはどこに彼を葬ったのか」と問います(34節)。マリアの後ろを追いかけていたユダヤ人たちは、「(自分たちは葬っていません。姉妹たちが葬ったのですが、どうせなら)来て、ご覧ください。(わたしたちと一緒に習慣上の嘆きをいたしましょう)」と応えます。その時イエスは自分が混乱していることを初めて知りました。目の前の人たちが姉妹たちの親戚でもなんでもないことは、よく見ればすぐに分かることです。またこのやりとりによって、姉妹がラザロを葬るさまを、イエスは幻を見るように思い描きました。その図は、イエスに謝罪の念を呼び起こさせました。「なぜわたしはそこに居なかったのか。申し訳ない」という痛恨の気持ちです。マルタとの対話までは理性的でいられたイエスが、マリアの涙に完全に動揺します。この動揺は共感になり、共感は後悔に、さらに後悔は謝罪へとなっていったのです。こうしてイエスは涙を流します(35節)。このイエスの涙はマリアに対する謝罪です。

ユダヤ人たちはイエスの涙の理由を誤解した上で、彼の泣きぶりにご満悦です(36節)。イエスがラザロを愛していた程度を、イエスの泣き方から割り出していたのです。「あの非常識だった男もわれわれと一緒に世間に同調してラザロの死に対して泣くようになったか、これは良いことだ」と胸をなでおろします。これはいかにも失礼な話です。本当のところ、人が隣人の死を悼んでいる悲しみの程度などというものは、第三者には分かりません。だから、あの程度の泣き方ならば合格点/不合格などと口に出して言うようなことでもありません。「形骸化した習慣」が隣人を裁く尺度になることは、人間社会の醜い一面です。

本当に人の心を打つ涙は、そのような社会儀礼によるものではありません。むしろマリアが見せた真に悲しい気持ちを表した涙、ここに人の心を揺さぶる力があります。イエスは泣きます。マリアの悲しみに共感し、またマリアに対しての罪責を告白して泣きます。イエスの涙もわたしたちに感動を与えます。

共感できない者たちは、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかった」と嘲笑います(36節)。先週同様に、ここも疑問文ではなく肯定文ととっていいでしょう(田川訳)。儀礼的な嘆きのみを重んじる者たちには、マリアとイエスの信頼が回復しつつあることが読み取れません。わたしたちはこのような共感できない人々に倣ってはいけません。むしろ、マリアの激しい悲しみを受け止めきれないほどに動揺し、マリアの涙に共感し、謝罪の念をもって涙を流すイエスに倣うべきです。両者の涙が信頼を回復させます。

1991年に初めて韓国の「軍隊強制性奴隷(従軍慰安婦)」が実名で告発したときから、日本国内の歴史修正主義者たちは大声で旧日本軍の蛮行を否定したり弁明したりしました。それは今本当に危険なまでに大きな声・勢力になっています。「自由主義史観」の教科書が公立校でも採択され、巷では民族差別を公言するヘイトスピーチがあり、「ネット右翼」と呼ばれる匿名の暴言がインターネット上に踊り、NHK会長・経営委員らにもその勢力は進出し、国会では「河野談話」をも修正しようと躍起になっています。そして図書館ではアンネ・フランク関連の書籍が破られるという事件がありました。安倍政権の一つの特徴、安倍政権を支える多数派(世間の常識)の一つの特徴がここに示されます。それは信頼を構築しようとする良質の共感が欠如している不誠実な様です。

自分にとって都合が悪い事実についてのみ、「それは嘘だ」とか「他の人も同じことをしているから良いではないか」などと言うのは不誠実です。むしろ都合の悪い事実こそ、わたしたちは認めなくてはいけないのです。倒れている人を可哀相だと感じ、自分や自分の先輩たちが加害者だったと知って慌てふためき、立ち尽くし、ただただ涙を流して謝罪をする、それが人間の振る舞いというものです。ひび割れを取り繕うのではなく、一度割って、断面をよく見て、同じ血が流れていることを確認して、共感という接着剤で新しい器を創ることが必要です。国家レベルでも個人レベルでも信頼のひび割れがあるし、これからもありえます。共感することで乗り越え、常に新しい関係を創造しましょう。