イエスの逮捕 ルカによる福音書22章47-53節 2018年10月7日礼拝説教

イエス・キリストが逮捕されるという場面をルカの教会はどのように理解していたのかということに注目しながら、福音を聞き取っていきたいと願います。
ルカにしかないイエスの言葉があります。48節「ユダよ、あなたは接吻(フィレーマ)で人の子を引き渡している」、51節「ここまでであなたたちは諦めよ(エアオー)」、53節「しかしながら、これはあなたたちの時であり、また闇の権威(エクスーシア)だ」(いずれも直訳風私訳)。「接吻」「諦める」「権威」は、ルカ文書に多く見られる言葉です。これらの言葉を縦糸にし、ユダとペトロを横糸にして読み解いていきましょう。
「接吻する」(47節、フィレオー)は、「愛する」という意味の言葉です。接吻が親愛の情を示す挨拶の一種だったので、「愛する」という意味から派生して「接吻する」という意味になりました。神の愛(無条件の赦し)を意味するアガパオーという言葉と比較すると、対等の友人同士の「友愛」に近いと言われます。ヘブライ語にはこの区別がありません。ギリシャ語のみの事情です。
ヨハネ福音書21章には復活のイエスとペトロの問答が載っています。そこに、フィレオーとアガパオーを巡る興味深い押し問答が繰り広げられています。イエスはペトロに二回「わたしをアガパオーするか」と問い、ペトロは二回「あなたをフィレオーします」と答えます。三度目はイエスが折れて「わたしをフィレオーするか」と問い、ペトロは「あなたをフィレオーします」と答えます。
ギリシャ語を使うルカの教会にとって両者の使い分けは重要です。ルカ福音書は、ユダがイエスを愛していることを示そうとしています。47節は「ユダは愛する(フィレオー)ためにイエスに近づいた」とも理解しうるからです。十字架前夜のイエスに対するユダの愛は、復活したイエスに対するペトロの愛と同じ種類のものです。それに対してイエスは二人をアガパオーします。
ユダの自死を記さないルカ文書は、ユダに対して好意的です。マルコ福音書では接吻は目印です。暗闇の中でイエスを判別し確実に引き渡すために、ユダが権力者たちに提案したのでした(マルコ14章44-45節)。ユダが逮捕の場面でイエスに接吻したのは史実でしょう。しかしマルコ福音書に書かれているユダの提案(目印=接吻)は、ユダ嫌いの人が後から創作したものです。なぜなら権力者たちとユダとの会話をマルコは知らないからです。
以前申し上げたとおり、ルカ文書においてユダは復活のイエスに出会って、その無条件の赦し(アガパオー)を受けている可能性があります。22章4節でも47節でも、接吻は目印と言われていません。むしろユダはユダなりに最後までイエスを愛していた可能性を記しています。そしてイエスはその友愛を拒否しません。敵をも愛する方だからです。
フィレオーから派生した名詞が、フィレーマ(接吻)です。この言葉は新約聖書全体で7回しか登場しません。ルカ福音書に2回(7章45節、22章48節)、その他5回は「聖なる口づけ」という意味です(ローマ16章16節、Ⅰコリント16章20節、Ⅱコリント13章12節、Ⅰテサロニケ5章26節、Ⅰペトロ5章14節)。「聖なる口づけ」はキリスト教会内の挨拶です。「平和の挨拶」とも呼ばれます。当然ルカの教会でも行っていました。
新共同訳が7章45節をやや説明的に「接吻の挨拶」(フィレーマ)と翻訳しているとおり、7章の場面にも教会の「聖なる口づけ」という風習が影響を与えています。殉教させられるべくローマの闘技場で獣に食い殺される処刑直前にも、キリスト者たちは互いに抱き合って「聖なる口づけ」をしていたと言われます。7章の罪人と呼ばれていた女性の接吻と、22章のユダの接吻は、教会員たちの「聖なる口づけ」と関係しています。
イエスはユダに詰問しているのでしょうか。「お前はこともあろうに聖なる口づけでもってわたしを引き渡すのか。この不届き者め」という風に、問い詰めているのでしょうか。この一文を疑問文ではなく平叙文ととって、「あなたは聖なる口づけでわたしを引き渡している」と訳すこともできます。元来のルカ教会の意思はそこにあったと思います。そうであれば、イエスを愛し続けているがゆえにイエスを引き渡すユダも、ユダの意思に反してキリスト教会の交わりに招かれています。マルコ・マタイ・ヨハネの三福音書が注意深く斥けた名詞フィレーマをルカ福音書だけが用いている理由は、「ユダは教会員になりうる」という主張にあります。それが神の意思(42節)でもあるのです。
ユダを庇うルカはペトロをも庇います。史実としては剣を持参したのはペトロだけだったのですが(ヨハネ福音書18章10節)、ルカ福音書では二人の人が剣を持ったことになっています(38節「二振り」、51節の主語「あなたたちは」と複数形)。人数を水増しした上で匿名にしてペトロを弁護しています。
51節「ここまでであなたたちは諦めよ(エアオー)」は、31節と呼応しています。38節「それは十分か」(新共同訳は38節も51節も「それでよい」)とは、用いられている単語も全く異なる表現なので、内容的にも38節には対応していないと考えます。新共同訳の立場は、イエスが二振りの剣を携帯することを許可し、武装する敵の片耳を怪我するまでは許可しているように読めます。ヤクザの親分のようです。38節と表現をそろえる難点がここにあります。
38節との対応ではなく、「シモン、シモン、見よ、サタンがあなたたちを穀物のように揺することを願った」(31節)と言われることの実現がここにあると考えてはどうでしょうか。イエスはペトロを初めとする弟子たちの限界を宣言しています。どんなに一緒に歩きたいと願っても、一緒に牢獄に入ったり、一緒に十字架についたりは結局のところ誰にもできません。武力を用いた時点で、弟子たちの限界が明らかになります。弟子たちは自分たちを過信し、力によって解決できると思い込み、より大きな力(権力)を前に逃げます。ルカ福音書は「男弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マルコ福音書14章50節)と記しません。むしろ、イエスが「あなたたちは諦めよ=ついてくるな」と命じたと記します。弟子たち全員を庇うためです。
十字架は独りで担い、独りで殺される場所です。イエスはここで逮捕を避けるための仲間と共なる暴力の道ではなく、十字架刑を引き受ける単独の非暴力の道を選びました。すべての者はサタンの誘惑にひれ伏します。いざとなれば力で解決しようとします。しかし力を採る者は力で滅びます。剣は多くの人を殺しえますが、剣はひとりの人も癒すことができません。剣は限りある人数の人を刺し貫くことができます。しかし、刺し貫かれたイエスは限りない数の命を癒すことができます。
自分の仲間が敵に暴力を振るい、敵を傷つけた時、イエスは仲間を切り離します。「従うことを諦めよ」。そして敵を癒します(51節)。敵も仲間も力を頼みにし、暴力を解決とする限り、同じ穴のムジナです。そのようなすべての罪人の罪を贖い、その罪から解放し、救い出すために、イエスは独り十字架へ向かいます。十字架は暴力を棄てた人物の生き方の集大成であり、すべての暴力を磔にして棄てる道です。
ルカ福音書はイエスの逮捕のために「群衆」(47節)だけではなく、「祭司長、神殿守衛長、長老たち」といった権力者自らも来たと記しています(52節)。マルコ福音書14章43節の「祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆」を書き換えています。ヨハネ福音書は、「一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たち」として、ローマ兵の存在も記しています(ヨハネ福音書18章3節)。ヨハネの記述は信ぴょう性が高い証言です。
「祭司長、神殿守衛長」は22章4節にも登場していました。ユダに金を渡した者たちです。史実としては、この人々は逮捕の現場にはいなかったでしょう。総理大臣や閣僚がひとりの政治犯の逮捕に立ち会うでしょうか。ローマ兵とユダヤ政府権力者に煽られた武装右翼らがイエスを逮捕したのだと思います。わざわざ大物を登場させることで、ユダを庇っています。ユダだけが悪いのではなく、祭司長・神殿守衛長が真に悪いのだということを印象づけているのです。
「神殿守衛長」(ストラテゴス)はルカ文書にのみ登場します。「守衛」というよりは、神殿利権を分配する権限を持った者の役職です(田川建三訳「神殿長」。使徒言行録16章20節他の「高官」と同単語)。彼らはサドカイ派の高官であり、神殿を「強盗の巣」=金儲けの道具としてしまった責任者です。「まるで強盗にでも向かうように…」(52節)というイエスの言葉は痛烈な皮肉です。あなたたちこそが強盗だと言いたいからです。だから、この箇所も「悪魔の誘惑」(4章)と対応していると見るべきです。神殿長/高官は、ユダがひれ伏した相手であり、イエスがひれ伏さなかった相手なのです。さらに言えば、パウロとシラスを牢獄で鞭打ち、フィリピ教会(ルカの出身教会)を苦しめた相手です。神話的な言い方で言えば、悪魔/サタンです。
本日の箇所では、「闇の権威(エクスーシア)」(53節)と名付けられています。「しかしながら、これはあなたたちの時であり、また闇の権威(だ)」。20章1-8節の「権威についての問答」の際に言いましたが、権威は「自由」とも訳せます。「闇が力を振るっている」(新共同訳)は、自由という意味合いを生かしたのでしょう。20章の時に祭司長・律法学者・長老たちは神殿でイエスを逮捕できませんでした。22章になってやっとできます。なぜか。その理由は、4章13節でイエスを離れたサタンが、22章3節でユダに入ったからです。イエスの活動時期は、天からの権威によって支えられ、人からの権威・サタンの権威が斥けられていました。イエスの逮捕はサタンの権威が覆う時の再到来です。「あなたたちの時」の再開です。それは今にまで至る、悪魔としか呼びようのない醜悪な勢力が大手を振るって権力を濫用している時代です。
武装右翼や弟子たちといった庶民を見ると、わたしたちもサタンにひれ伏し、闇の権威を構成している罪人たちの集まりであることが分かります。そのようなわたしたちにとっての救いは、サタンにひれ伏したユダとペトロを愛し、弟子たちの従う行為すら遮断し、非暴力を貫き、闇の中、独り十字架へと向かうイエス・キリストです。
イエスの十字架は誰にもできない行為です。だからイエスは誰の罪をも背負うことができます。誰もが誘惑に陥り闇に染まります。ただ独り闇の中、変わらぬ愛を示す方がいます。十字架・復活・聖霊降臨は闇の中の光です。この方の前で、わたしの罪も赦される。罪人であることをやめるのではありません。罪があるままで罪赦された罪人となれます。闇の権威を構成する一員でありながら、光を映すことができるようになります。誘惑に陥らないように祈り、ほんの少し誘惑に打ち勝つ場合があります。無条件の赦しがその原動力です。
今日の小さな生き方の提案は、キリストによる救い/癒しを受け取ることです。社会の闇、自分の抱える闇。考えるだけで担いきれません。そこに気づけば傷つきます。誰かを傷つけていることを知って、自分もさらに痛みます。それらがあるままに、同時にそれらにあぐらをかかないで生きる道は、闇の中の光イエスを自分の救い主として受け入れることにあります。あなたが愛されている。この事実に「アーメン」と言うだけで救われます。