エサウとイサク 創世記27章30-40節 2019年3月24日礼拝説教

 前回イサクは、長男エサウだと勘違いして次男ヤコブを祝福してしまいました。妻リベカの詐欺計画にまんまとはまってしまったのです。ただイサクは、妻が発案したとは思っていないようです(35節)。この後の物語においても、イサクのリベカに対する信頼は依然として厚いように読めます(46節以下)。妻を疑わないイサクの人の好さが出ているのでしょう。あるいは、妻に酷いことをしてからは(267節以下)、イサクは妻に逆らわないということを決めていたのでしょうか。それとも目の見えない自分を介護している妻には何も言えないのでしょうか。イサクは忍耐強いけれども問題を先送りしがちです。

 イサクの優柔不断の性格は、双子の兄弟喧嘩が長引いた原因でした。兄弟の人間関係改善について、父イサクはまったく無力です。物語は家父長制を戯画化し、茶化しています。家の中では絶対的権力者であるべき家長が、非常に弱々しい存在であることを皮肉っているのです。妻と次男に騙され、長男を何ら助けることができない、愚かな父親としてイサクは描かれています。「彼は笑う」(イツハク)という意味の名前を持つイサクが、嘲笑されていることに皮肉が込められています。この点でイサクは放蕩息子の父親に似ています。しかし放蕩息子の父親になりきれていないところに問題があります(後述)。

本日の箇所で、ヤコブは退場し、エサウが登場します。わかりやすい劇です。主要人物が二人に絞られて常にその二人の対話で物語が進んでいくからです。イサクとエサウ(14節)、リベカとヤコブ(517節)、イサクとヤコブ(1829節)、そしてイサクとエサウ(3040節)です。このような形式は、物語が元々口伝えで、代々伝えられてきたことを示唆します。登場人物が多い物語は口伝向きではありません。

余談ですが、言葉遊びも口伝の特徴の一つです。聞き手にとって楽しいということと、話し手にとっても言葉遊びは記憶の助けにもなります。ヤコブ(YaQoB)は「踵」(aQeB)という意味から取られた名前でした(2526節)。踵を動詞にすると、「足を引っ張る」「騙す」という意味になります(36節)。また、「長子の権利」(BeKoRah)は、「祝福」(BeRaKah)と語呂合わせになっています(36節)。RKの音をひっくり返しただけでよく似た単語です。

ともかく物語は緊迫感をもって進んでいます。読み手が引き込まれていくのがヤコブ物語とヨセフ物語の魅力です。エサウは一体いつ獲物を取り、美味しい料理をもってイサクのところに来るのか。ヤコブと鉢合わせにならないのか、読者ははらはらして続きを読みます。

30節は双子がすれちがったことを記しています。ヤコブからすれば間一髪難を逃れたことになります。イサクの目の前から立ち去ったすぐ後にエサウはイサクの前に登場します。本物のエサウの言葉は、エサウを真似たヤコブの言葉と同じところと違うところがあります(31節と19節)。最後の部分「そうすれば、あなたの全存在がわたしを祝福してくださるでしょう」は一言一句同じです。ふたりの関心の中心が、イサクからの祝福にあったことを示しています。

微妙に異なるのは、ヤコブは敬語を使いながらもすべて「命令形」で語り(起きなさい・食べなさい)、一言多く「座りなさい」とも言っています。それに対して、エサウは柔らかめの「指示形」(起きるように・食べるように)で語っているところです。こういったところにもエサウの人の好さや父親へのいたわりがにじみ出ています。逆に、ヤコブはしっかり者で抜け目がないところが伺えます。ヤコブは勝負を賭けた商談をしています。イサクの人の好さはエサウに継承され、リベカの抜け目なさはヤコブに継承されています。

イサクは同じ質問を発します。「お前は誰か」(32節と18節)。エサウは当然答えます。「俺は(アニー)、あなたの息子・あなたの長男・エサウ」(32節)。自分をアニーと称するのがエサウの言い方です。ヤコブとは異なる言い方をしているところが、物語話者のにくいところです。エサウを真似たヤコブは、「私は(アノキー)エサウ・あなたの長男」と言っています(18節)。口癖としての一人称が異なります。ヤコブは自分のことをアニーではなくアノキーと言うのです。これは長年の二人の口癖だったかもしれません。そうであれば二人を区別できないイサクに父親としての欠けがあります。(ただし現代のオレオレ詐欺のことを思うと、イサクに同情しなくもありません。)

目の見えないイサクは、声や言葉遣いで、目の前の人物がエサウであることを確信し、あまりのことに震えだします。それは同時に、先ほどの人物がエサウではなかったということを確信することでもあります。原文は、「そしてイサクは大変大きな震えで震えた」(33節)です。非常に大げさな表現です。一生に一度の祝福、つまり後継者の指名において、相手を間違えるという、重大な過ちを犯してしまったことに気づいたからでしょう。

「では彼は誰か、獲物を獲った人物は。そして彼はわしのために持ってきた。そしてわしは、お前が来る前に全て(の料理)から食べた。そしてわしは彼を祝福した。さらに祝福された者に、彼はなる。」(33節直訳風私訳)。イサクとエサウの目の前には、リベカが作った料理が広げられていたのでしょう。原文は出された料理を全部食べたということではなく、全ての料理からつまんで食べたことを示唆しています。食事は儀式の一部だからです。肉と葡萄酒は、祝福の祈りの道具なのです。つまり、エサウが来たときに残った料理がその場にあったと推測します。それだから、エサウにも事態が即座に飲み込めたのです。祝福の祈りは終わってしまったのだ、と。

「そしてエサウは大きな叫びで叫んだ、また大変な苦さで(叫んだ)」。イサクとエサウが同じ陣営・同じチームであることが分かります。似たような非常に大げさな表現で彼らがこのゲームに負けたことを物語は告げています。「俺を祝福してください、俺も(ガム・アニー)、俺の父さん」(34節)。エサウは、自分にも祝福をと願います。しかし一子相伝の祝福においては、「二人にも」はありえません。「どちらも」ではなく「どちらか」なのです。そしてそれは、家父長制という制度の中の厳しいルールです。

「お前の兄弟がずる賢く来た。そして彼はお前の祝福を取った」(35節)。イサクはヤコブが自分を騙したことに、この時点で気づいています。

ここでエサウは反転して、父イサクを非難し始めます。ただし、「叫んだ」(36節。なお38節も)とは書いていません。「そして彼は言った」という言葉が36節に続けて二回登場しています。エサウは切々とイサクに問いの形で訴えたのです。「彼が、あいつの名前をヤコブと呼んだからではないのか」。一つ目の問いは反語です。「彼」とは、目の前の父親イサクを遠まわしに指しています。なぜならヤコブと名付けたのはイサクだったからです(2526節)。エサウの名付けは両親がしましたが、ヤコブの名付けはイサクが適当に行ったのでした。イサクの適当な名付けが預言となって、ヤコブの詐欺行為・エサウが騙されるという未来に影響したのではないかとエサウは問います。そして、エサウの主張は正しいものです。イサクがエサウを依怙贔屓し続けたことが、リベカとヤコブの反乱を招いたからです。イサクはこの非難に一言もありません。

「あなたは俺のために祝福を残さなかったのか」。二つ目の問いには、イサクは形式的には温かく丁寧に答えます。しかし内容的には厳しく冷たい答えです。いわゆるゼロ回答です。「見よ、支配者としてわしは彼をお前のために据えた。また全ての彼の兄弟たちを、わしは彼のために奴隷たちとして与えた。また穀物と葡萄酒を、わしは彼のために祈った。しかしお前のために、では何をわしがすることができるか(いや何もない)、わしの息子よ」(37節)。父は兄息子に向かって、弟息子が兄息子の支配者になることを告げます。

エサウは三度目に問います。「祝福は一つなのか、あなたの持っているそれは。俺の父さん。俺を祝福してください。俺も(ガム・アニー)。俺の父さん」。エサウは声を上げて泣きます(38節)。

イサクは答えることができません。祝福は一つのものであり、一人の族長から一人の後継者に一子相伝で継承されると固く信じていたからです。どちらもでもなく、二分の一にもならず、二倍にもならないというのがルールだったのです。エサウが一しきり泣いた後のことでしょう。イサクは答えます(39節)。

その内容は呪いです。ヤコブに対する祝福と反対の内容を、同じ単語を用いてイサクはエサウに告げます(2829節)。そしてエサウの子孫たちの将来を語る預言です。ヤコブの子孫のユダ王国に、エサウの子孫のエドム王国は臣従します。しかし、ユダの王ヨラムの時代にエドムは反乱をし、自分たちの王を立てるのです(列王記下820節以下)。残酷な答えです。

物語中、エサウはイサクに三回質問をしています。イサクの答えは、果たして適切だったのでしょうか。名付けに対する非難への答えは沈黙。「祝福を残していないのか」に対しては、「ない」との回答。「一つしかないのか」に対しては、呪い。この答えは、イサクのルールに対する忠実さと、それと同時にイサクの頑固さを示してもいます。逆から言えば、当時のルールがイサクを強烈に縛っていることを示しています。イサクは思考停止に陥っています。そしてエサウを愛していません。

イサクはGood Loser(爽やかな敗者)です。忍耐が持ち味の彼に対する褒め言葉です。ではエサウは往生際が悪いのでしょうか。しかし、この物語にはエサウの過失が一つもありません。「赤い豆事件」とは異なります。エサウは彼の最善を尽くし、父親を最大限に敬ってもいます。エサウに対してもGood Loserであれというのは、いささか酷ではないでしょうか。別視点から考えましょう。物語はイサクを批判しているという読み方です。

イサクがこだわった、「家父長制に基づく長男から長男への一子相伝の祝福」というルールは、この後どうなったのでしょうか。ヤコブという人物は、このルールの不条理をよく知っています。エサウから祝福を取ったヤコブは、後継者を一人だけ指名することをしませんでした。49章で12人の息子たちすべてに預言や祝福を残しています。そのうち9人は祝福されています(特に四男ユダと十一男ヨセフ)。また、それに先立って孫をも祝福しています(48章)。しかも長男と次男を逆さまにして祈っています。ヤコブは、ルールの範囲内で祝福を勝ち取り、その後に不条理な祝福についてのルールそのものを変えました。これこそ、イサクがエサウにするべき行為だったのでしょう。「祝福は一つではない。特に双子なのだから。お前もわしの息子だ。共に祝おう」と二人に言って、ルールを変えれば良かったのです。あの放蕩息子の父親のようにして。

今日の小さな生き方の提案は、悪法に従いながら、悪法を批判し、悪法を乗り越えるということです。日本型の教育を受け、日本で生活していると、自由な批判精神を持ちにくいものです。聖書はその閉塞感に風穴を開けます。ルールそのものを疑う自由こそ、福音が私たちに与えるものです。愛に裏打ちされた本当の自由・批判精神をもって不自由なルールを変えていきましょう。