エチオピアの宦官 使徒言行録8章26-31節 2021年5月30日礼拝説教

26 さて主の天使がフィリポに向かって話した。曰く、「あなたは起きよ。そしてあなたは正午に行け、エルサレムからガザへと下る道の上を。これは荒野である」。

 ペトロとヨハネがサマリアに来ることによって、フィリポはサマリアを出て行かざるをえなくなりました(14節)。このような時に「主の天使」がまた登場いたします。かつては牢獄に囚われていたペトロとヨハネを逃がした、あの「主の天使」が(5章19節)、今度はフィリポのための「逃れの道」を用意します。エルサレムからガザに行けと言うのです。この書き方は、フィリポがすでにエルサレムの近くにまで移動していたことを示唆しています。私訳のように「南」ではなく「正午」というように翻訳する場合は、特にそうなります。フィリポが自分の身の振り方に非常に悩んで、どこに行って良いかわからず、エルサレムへの道を歩いているその時に新しい道が示されます。

「あなたは起きよ(復活せよ)」。ガザへ行け。しかも正午という時間指定の使命です。なぜでしょうか。運命的な出会いをするために時間が定められたのです。この時間、この道を通る人物がいるから、その人と出会って話をするようにと、主の天使はフィリポに指示をしています。

 神の与える逃れの道は一見、後ろへの逆戻りの道(尻込みによって引き返す道)のように見えますが、そうではありません。エルサレムを通過してさらに別の方角の「前へと逃れる道」です。それが復活です。

ガザへ。そこは荒野です。原文「これ(指示代名詞の女性形単数)」は、「ガザ」という町(女性名詞)が荒野であるとも、ガザへの「道」(女性名詞)が荒野ともとれますが、どちらも含めて考えて良いでしょう。荒野とは、苦難に出くわす場所であり、神と出会うことができる場所です。イスラエルが四十年過ごした場所であり、イエス・キリストが四十日間過ごした場所です。神はフィリポを、このように厳しくも意義深い荒野へと遣わします。

 なぜガザは荒野に喩えられるのでしょうか。ガザという町の歴史は古く、ペリシテ人(パレスチナの語源)の五都市国家同盟にまで遡ります(サムエル記上6章17節)。すなわち、ガザ・アシュドド(アゾト)・アシュケロン・エクロン・ガトの中の一つです。このガザとアシュドド(アゾト)は、紀元前98年にユダヤ独立王国(マカバイ王朝)によって軍事侵略され徹底的に破壊されたという歴史を持っています。サマリアの町シケムと似ています。現代のイスラエル国家によるガザ地区パレスチナ人への暴力も想起させられます。反ユダヤ人の雰囲気が強い町です。

福音宣教者フィリポの活動の場が、サマリアの次にはガザやアゾト(40節)であるということは、ある意味の必然です。ユダヤ人である彼は当然苦労するでしょう。荒野です。しかしながらサマリアやガザやアゾトは、彼のように国際派の教会指導者のみがよく伝道することのできる場です。フィリポは百年以上前のユダヤ人の戦争責任を引き受けてサマリアやガザやアゾトで福音を宣教します。その活動に独特の意義があります。キリストがユダヤ人とサマリア人、ユダヤ人とパレスチナ人を結びつけるという働きです。

27 そして(彼は)起きて彼は行った。そして見よ、エチオピア人男性、宦官、エチオピアの王カンダケの宰相が――その彼は彼女の財産全ての上にあり続け、その彼はエルサレムへと礼拝するために来ていたのだが――、 28 戻り続け、また彼の馬車の上に座り続け、また預言者イザヤを読み続けていた。 

 フィリポは主の天使の命令通りに、エルサレムからガザへと下る道を正午に歩きます。その時彼を追い抜かしていく立派な馬車が通ります。エチオピア人で自ら去勢をしていた男性。生殖器を切り落とすことによって高い地位を得ていた「宦官」です。彼は「宰相(王に次ぐ地位)」でした。エチオピアはクシュ(ヌビア)とも呼ばれ、現在のスーダンのあたりの国です。紀元前1世紀には、ローマ帝国によりエジプトに併合されていました。だから、エチオピアからユダヤに来ることは荒唐無稽の物語ではありません。地中海を内海にしているローマ帝国の支配下にあるならば、陸路も海路も結ばれているのです。宰相はエジプトやシリアに駐在するローマ総督たちに公用で会うこともできたことでしょう。

エチオピア人は黒人です。エチオピア語はヘブライ語と同じセム語族の仲間で、最も近い言語はアラビア語です。アラム文字で書かれたヘブライ語の聖書を彼は読むことができます。あるいはギリシャ語訳聖書も、ギリシャ語を理解する教養人として読むことができたと推測します。

 エチオピアは女性が支配する国でした。カンダケというのは王(太后)の称号です。エジプトのファラオと同じです。「女王」と訳すのも性役割分担に乗った表現なので、あえて「王」としておきました。そのカンダケの全財産の上にある彼は、創世記のヨセフのような地位の人物です。この地位の高さが彼に教養があると推測した理由です。

エチオピア人宦官はエルサレムに礼拝をするために来ていました。エルサレムに来る途中にギリシャ語訳聖書をエジプトのアレクサンドリアで購入していたかもしれません。あるいはエルサレムに来てからヘブライ語聖書を購入したのかもしれません。いずれにせよ礼拝するために来た彼は、当然神殿で礼拝をするためにエルサレムに来たのです。確実に宦官はユダヤ教に好意的です。こういう人々のことを「神を畏れる人」と呼びます(10章2節、13章16節)。

彼はユダヤ教に改宗したユダヤ人だったのでしょうか。去勢の実態が分かりませんが、もし彼が睾丸だけでなく陰茎も切り落としていたならば割礼を受けることは不可能です。割礼を受けることができないのならばユダヤ人になることができません。いわゆる「異邦人」と分類分けされます。非ユダヤ人は、「神を畏れる人」であってもエルサレム神殿内部の聖所に入ることが許されません(21章28節)。聖書外資料の一つとして「ヘロデの神殿の外庭の警告板」が発掘されています。そこには、異教徒が神殿内部の聖所に入った場合は死刑に処されるという警告がギリシャ語で記されています。

 礼拝をするために来たのにもかかわらず、彼はもっとも深い宗教体験をすることができません。「警告板」を呼んだ彼はがっかりします。完全に拒否されたのです。日曜日の礼拝をするために来た人にわたしたちは「一階で礼拝しておいてください」と言うでしょうか。礼拝を捧げている最中に、「この部分はキリスト者だけのプログラムです」と言うでしょうか。相手をがっかりさせることを知っているので、そのようなことを言うことはできません。宦官はユダヤ教に惹かれましたが神殿がその求道心を打ち砕きました。

 では当時のエルサレム教会がエチオピアの宦官に伝道をしたでしょうか。エルサレム教会は、エルサレム神殿での礼拝も行う信徒たちによって構成されていました(3章)。神殿に勤める祭司も構成員だったほどです(6章7節)。エチオピアの最高権力者が神殿に来る時に、例えば主の兄弟ヤコブのような教会指導者が神殿で宦官にばったり遭遇することはありえます。エチオピアの宰相は有名人です。ローマ総督ピラトにも会えるでしょう。ユダヤ教に好意的な「神を畏れる人」を「伝道対象者」として捉えて、キリスト者も彼に声をかけることはできたはずです。しかしエルサレム教会員は聖所に入れない人々を伝道対象とはしませんでした。声をかけ、「わたしの家の教会へどうぞ」と招くことはない。なぜならエルサレム教会にもはやステファノやフィリポたち国際派はいないからです。エルサレム教会はユダヤ人のみの教会形成をしていました。

 ユダヤ教にがっかりしている人の受け皿にキリスト教がなり得ていないという、極めて残念な現象がここに起こっています。そのたった一人のがっかりに対して、神は別の意味でがっかりしているフィリポを遣わします。二人の失望の根は一つです。民族主義や排他性です。

29 さて霊がフィリポに言った。「あなたは近くに行け。そしてこの車にあなた自身を密着させよ。」 30 さて(彼は)駆けて、フィリポは彼が預言者イザヤを読んでいるのを聞いた。そして彼は言った。「ではあなたも、あなたが読んでいることを分かるのか。」 31 さて彼は言った。「いかにしてわたしができるか。誰かがわたしを案内しないならば。」それから彼はフィリポを招いた、(彼は)彼と共に座るために来た。

 イエスの霊がフィリポを促します。「今あなたを抜かしていった車を追いかけて、その近くにへばりつけ」と言うのです。その後、何をすべきかはフィリポの心の声(良心)に従えば良いということでしょう。フィリポは異国情緒にあふれた豪華な馬車にへばりつきます。すぐ近くまで行ったことで乗っている人が地位の高い黒人であること、彼が聖書を音読していることが分かります(30節)。当時の人々は一般的に本を音読していたそうです。32-33節がギリシャ語訳聖書の引用なので、ギリシャ語のイザヤ書を読んでいたかもしれません。フィリポにとってはお馴染みのギリシャ語訳です。

 フィリポはここで暑い中走ることを止めることもできました。「黒人お断り」と切り捨てることもできました。具体的神の指示はありません。彼の良心にのみこの後の彼自身の行動はかかっています。

 「読んでいる内容が分かりますか」。フィリポは驚くほど滑らかに宦官にギリシャ語で話しかけます。宦官は驚きます。風景だった人がいきなり隣人として登場したからです。「分かるわけがない。自分を排除するユダヤ教徒の正典など理解しようもない。自分はこの本に何が書いてあるのかを知りたいが、あなたはこれをどう読むのか」。エチオピアの宰相は御者に命じて車を止めさせます。そして見ず知らずの、フィリポを自分と共に豪華な宰相用の馬車に乗せ旅の道連れとしました。ガザへ向かう道のりで彼らは旧約聖書について話し合います。この物語は、復活のイエスが二人の弟子にエマオという町に行く途中聖書を解説した物語と重なり合っています(ルカ福音書24章)。フィリポはイエスに従っているのです。

 今日の小さな生き方の提案は「がっかりの共有」です。宦官もフィリポも人生の行き止まり・行き詰まりを感じてがっかりしています。エルサレムやエチオピアにすごすごと戻ろうとしています。神はこの二人の人生に介入し、日時場所を指定して出会わせます。聖書という共通の本によって二人を結びつけ、がっかりしていた二人の心を燃やします。わたしたちは様々な失望(人生の十字架)を、聖書を通して、聖書の解釈によって示されるイエス・キリストの救いを通して、各人の希望(人生の復活)に変えることができます。聖書によってフィリポにしかできない仕事が与えられたり、宦官のがっかりが解消されたりするのです。

 教会は人生の失望や言葉にならない呻きを持ち寄る交わりです。神は教会の内外に働き(いずこも荒野です)、様々な人のいくつものがっかりを結びつけ、聖書を通して解決・改善の道を示してくださいます。さまざまな出会いと聖書によってわたしたちの心を燃やしてくれる神を信じましょう。