ギブアでの出来事 士師記19章22-30節 2021年7月25日礼拝説教

本日の箇所はここに至る粗筋を知らなくては理解しにくい場面です。エフライム部族の領内にレビ人男性が滞在していました。レビ人はいろいろな土地を巡る放浪の宗教者です(17章7節以下)。彼の妻の一人にユダ部族のベツレヘム出身の女性がいました。その女性がおそらくは宗教的な理由で実家に帰ってしまいました。レビ人の夫はベツレヘムまで若者を連れて妻を連れ帰そうとします。妻の実家では歓待を受けて舅に引き留められて結局ずるずると四泊五日をし、三人がベツレヘムを出る時には夕方になってしまいました。

ベツレヘムから一日でエフライムまで帰ることはできなくなり、ベニヤミン部族領内のギブアという町で一泊することになりました。当初広場で野宿をする予定でしたが親切な老人が登場し一宿一飯のお世話になることとなりました。この物語は創世記19章にある物語とそっくりです。ロトの客に対するソドム住民の暴力は、老人の客に対するギブア住民の暴力と重なります。士師記19章が元となって創世記19章が組み立てられ、ソドムの滅亡やモアブ人・アンモン人の起源を説明する物語(原因譚)となったと推測します。

22 彼らは彼らの心を良くし続けている。そして見よ、かの町の男性たちが、ベリヤアルの息子たちの男性たちが、かの家を互いに囲んだ、かの戸を打ち続けながら。そしてかの男性、かの老人の家の主人(バアル)に向かって彼らは言った。曰く、「あなたの家に向かって来た男性を連れ出せ。そうすれば私たちは彼を知る」。 23 そしてかの男性、かの家の主人(バアル)は彼らに向かって出、彼は彼らに向かって言った。「するな、私の兄弟よ、どうかあなたたちは悪を行わないでくれ。この男性が私の家の中に来た後に、あなたたちはこの馬鹿げたことをするな。 24 見よ、処女である私の娘と彼の妻。どうか私に彼らを連れ出させよ。そしてあなたたちは彼らを踏みにじれ。そしてあなたたちは彼らのためにあなたたちの目に良いことをせよ。そうすればこの男性のためにあなたたちはこの馬鹿げたことをする必要がなくなる。」 

 三人(レビ人・妻・若者)の客を迎えた老人は、この三人を含めた家全体の「主人(バアル)」となります。老人にはレビ人を守る責任があります。当時の習慣では、客の主人の許可なく戸をこじ開け侵入することはできなかったようです(23節。「この男性が私の家に来た後に」)。

この老人の行動と、「ベリヤアルの息子たち」(22節)の行動と、レビ人の行動、さらに言えば「若者」の沈黙(いないかのような扱い)、ここに透けて見える問題があります。年配男性中心主義です。本文中「男性」という単語が頻出しています。24節「彼ら」の不自然さも男性中心主義から説明できます。文脈上「彼女たち」であるべきところを「彼ら」と老人が発言しているのは、レビ人男性の代わりとなるのは男性でなくてはいけないと考えているからでしょう。それは結局「男性のための社会」が生み出す考え方です。老人/長老は社会的地位を持っているレビ人男性を守ることしか考えていません。

 なお新共同訳が「ならず者」(22節)としているところを、KJV(欽定訳)も私訳同様「ベリヤアル」と固有名に訳しています。このベリヤアルがコリントの信徒への手紙二6章15節に突如登場する「ベリアル」の語源です。

 老人は自分の娘と客の妻を差し出すことによってレビ人を守ろうとします。二人の女性にとってとんでもない交渉内容です。ここには女性たちの声が一切報告されていません。自分の生命や身体に関わることでさえも発言する自由がなかったのです。女性たちは人格的存在ではなく「モノ」とされています。

25 そしてかの男性たちは彼に聞こうとはせず、かの男性は彼の妻を掴み、彼は彼らに向かって外に連れ出し、彼らは彼女を知り、彼らは彼女を夜通し朝まで虐げ、彼らは彼女を投げた、曙が昇った時に。 26 そしてかの女性は朝の曙のころに来、かの男性の家———そこに彼女の主人(アドン)がいた――の入口(に)倒れた、かの光(がある)まで。 27 そして彼女の主人(アドン)はかの朝起き上がり、かの家の戸を開き、彼の道に行くために出た。そして見よ、かの女性・彼の妻がかの家の入口(に)倒れ続けている。そして彼女の両手が敷居の上に(ある)。 

 ベリヤアルの息子たちはこの交渉ごとに乗りません。するとあろうことか、夫であるレビ人が妻を外に連れ出したというのです。この夫は逃げた妻を連れ戻すためにベツレヘムにある妻の実家まで迎えに行った男性です。ヤハウェに仕える宗教家レビ人の妻として生活することは、ユダ部族の生活習慣に馴染まないことが多くあったと思います。いわば「牧師夫人」であることに嫌気がさしたのでしょう。また一夫多妻制度のもと、「正妻」からも意地悪をされていたかもしれません。夫であるレビ人は彼女を連れ戻そうとしたのですから、自分の悪かった点を反省しなくてはいけませんでした。自分のための妻ではなく、彼女のための夫になろうとしなくてはいけませんでした。

 根本の悪が正されていないのでレビ人は卑劣な行動に出ます。自分の保身のために妻を暴徒に差し出したのです。他方、老人は自分の娘を差し出しませんでした。一瞬の男性同士の駆け引きの元、女性たち二人の人生は分かれます。

 本文は老人を指す「主人(バアル)」と、レビ人を指す「主人(アドン)」を厳密に使い分けています。それによって「主人」などともてはやされている地位ある男性たちの責任がそれぞれに問われています。老人はそもそも交渉を持ちかけるべきではありませんでした。誰かを犠牲にした上で家の平和を保とうとする考えが間違えです。レビ人は配偶者として妻を人格的に愛するべきでした。自分のために妻を「消費」する考えが間違えです。

 もちろんギブアの町は、「ベリヤアルの息子たち」を野放しにするべきではありませんでした。彼らは一人の女性に性暴力をふるい続けるのですが、それを見咎めたり罰したりする自治(公正な裁判)が、ベニヤミン部族ギブアの町にありません。ベリヤアルの息子たちが首長でもあったからです(20章5節)。「ベニヤミンはかみ裂く狼/朝には獲物に食らいつき/夕には奪ったものを分け合う」(創世記49章27節)。先祖ヤコブの預言がここに的中します。

 ホストからも夫からも暴徒からも尊厳が踏みにじられ暴力を受け続けた女性は、男性たちに投げ捨てられます。彼女は朦朧としながらも老人の家を目指します。そこに夫がいるからです。彼女は何を語るつもりだったのでしょうか。ラケルのように死ぬ直前にヤコブを批判するつもりだったのではないでしょうか。「あなたこそが私の苦しみの息子(ベン・オニ)だった」と(2019年9月29日説教参照)。「レビ人と結婚しなければ良かった。ベツレヘムの実家に居続ければ良かった。土壇場で私を棄てるあなたと一緒に居なければ良かった」。

 夫が発見した時には妻は死んでいたと思います。「敷居」(27節)が死を象徴する言葉だからです(列王記上14章17節)。しかし読者にも夫にも妻の死は明示されていません。妻の生死は不明のまま独特の緊張感で物語は進みます。

28 そして彼は彼女に向かって行った。「あなたは起き上がれ。そして私たちは行こう。」そして答えはない。そして彼は彼女をロバの上に取り、かの男性は起き上がり、彼は彼の場所に行き、 29 彼は彼の家に向かって来、彼は短刀を取り、彼は彼の妻を掴み、彼は骨ごとに彼女を十二の部分(に)分け、彼は彼女をイスラエルの領域の全てに投げた。 30 そして見る者全てが次のように言うということが起こった。「このようなことは起こらなかったし見られなかった、イスラエルの息子たちがエジプトの地から上る時から今日まで。あなたたちはあなたたちのために彼女について据えよ。あなたたちは相談せよ。そしてあなたたちは語れ」。

 良いサマリア人の譬え話を裏返したような情景です。暴行を受けた生死不明のユダ部族の女性がレビ人男性のロバに乗せられエフライム(サマリア)に行きます。それは怪我の治療のためではありませんでした。29節になって読者は初めて彼女が死んでいた(殺されていた)ことを知ります。夫は、にわかには信じられない猟奇的な行動に出ます。妻の体を骨ごとにバラバラに切断し、十二の部分に分けて、イスラエルの十二の部族に送り付けたのです。

 彼はレビ人なので犠牲祭儀に用いる短刀を操ることができました。おそらくは祭壇の上で彼女の遺体は切断され、そしてレビ人に仕える「若者」たちが全部族に遺体の一部を持ち運びます。そして若者たちが出来事の経緯を語り、部族の長老たちに全部族会議の招集を呼びかけ、ギブアの町への懲罰的侵略を煽っていきます。そしてこの後の歴史はレビ人男性の思惑通り進み、十二部族間での初の戦闘が行われ、結果ベニヤミン部族は人口激減することとなりました。妻の遺体も政治利用されたのでした。ヨセフの骨/遺骸が大切に扱われたことと対照的です(創世記50章25節、出エジプト記13章19節、ヨシュア記24章32節)。夫は妻の遺体をベツレヘムの実家に運び舅に詫びるべきではなかったでしょうか。そしてギブアの町の自治改善のためにベニヤミン部族に申し込めば良かったと思います。戦争は決して解決にならないのです。正義は報復的暴力的に実現されるべきではなく、修復的な自治(裁判という話し合い)によってなされるべきです。

 横死・非業の死・虐殺・身代わりの死であるという点で、彼女はイエス・キリストを指し示しています。そして贖いの教理が安易に悪用されないようにと戒めています。彼女は生きている時も死んだ後も男性たちに悪用されています。彼女の「犠牲」を「みんなのために必要なこと」として是認してはいけません。そのような考え方は、沖縄や福島の犠牲を是とするものと同じです。主の晩餐でわたしたちがパンをキリストの体として分け合う時に、ベツレヘム出身の彼女を記念して同じ悲劇を繰り返さない決意を新たにしたいものです。

 骨ごとにばらばらにされ全部族に分けられた彼女の復活は、エゼキエル書37章において描かれています。枯れた骨がカタカタと音を立てて組み上がり、殺された者がよみがえるという預言です。狭い意味ではバビロン捕囚からの帰還を預言した言葉ですが、広い意味では終末時の世界の完成を預言した言葉とも言えます。十字架で割かれた体は復活で一つになります。ベツレヘム生まれの女性の尊厳の回復は、世界の終わりにベツレヘム生まれのキリストによってなされます。この悲劇を忘れずに彼女を晩餐台に据えて記念して、彼女のからだを分かち合い続ける者たちが、世界中で平和を創り出す者たちとして生き、平和の主が来る時に「イエスは主」と一つの声を合わせるのです。

 今日の小さな生き方の提案は、負の歴史を直視することです。オリンピックを担う人々の不祥事が後を絶ちません。同じ世代の人々の罪を思わされています。現代史を学ばされなかった世代、日本の戦争責任や戦争犯罪、あらゆる差別を許さないという人権教育、自治の担い手になろうという主権者教育。これらの教育が70年代以降すたれ、笑いを消費するだけの冷笑主義が蔓延しています。国際大会で国際標準を備えていない日本社会が露見しました。時代の罪を背負い、改めて過去に学びたいと願います。特に戦争加害、差別、汚職などの負の歴史です。犠牲者の声なき声に聞き入りながら、誰をも犠牲にしない平和を共に創り出したいと思います。彼女を記念して。