シナイ山で 使徒言行録7章30-39節 2021年3月28日礼拝説教

30 そして四十年が満ちて、天使がシナイ山の荒野において柴の火の炎の中で彼に見られた。 31 さてモーセは見て、彼は壮観に驚いた。さて彼が観察するために近づくと、主の声が生じた。 32 「私はあなたの父たちの神、アブラハムとイサクとヤコブの神。」さてモーセは恐ろしくなって、彼はあえて見続けようとしなかった。 33 さて彼に主が言った。「あなたはあなたの足の履物を脱げ。というのもあなたがその上に立っている場所は、聖なる地だからだ。 34 エジプトにおける私の民の苦難を私は見るに見た。そして彼らの呻きを私は聞いた。そして私は彼らを救うために降った。そして今あなたは来い。私はあなたをエジプトへと送る」。 

 受難週となりました。ナザレのイエスの十字架はキリスト教信仰の中心です。ステファノの説教はキリストの苦難に焦点を合わせています。神の民イスラエルに反抗されるモーセが、全ての人に反抗され十字架の道を歩んだイエスに重ね合わせられているからです。それが説教の結論です(51-53節)。この結論のためにステファノは説教の途中もしくは終了直後に虐殺されます。著者ルカは、ステファノの死の様子をイエスの死の様子と重ねています(59節と60節。ルカ23章46節と34節)。モーセ・イエス・ステファノが自分の民の反発によって苦難を受けるという、三重の重なりに留意して読み解きます。

 モーセがイスラエル人たちに「見られた」(24節)のと同様に、天使もモーセに「見られ」ます(30節)。神や神に近い存在が登場する時に用いられる表現です。以前申し上げたモーセの格上げが30節で裏付けられます。

 ステファノは出エジプト記の「モーセの召命物語」を改変しています。一つの変更は、前にもありましたが、一部サマリア教団の正典である『サマリア五書』を用いることです。使用聖書の変更です。32節「あなたの父たち」と複数形の部分は、正統ユダヤ教のヘブライ語正典でも正統キリスト教のギリシャ語訳聖書でも、「あなたの」と単数形です。複数にすることで、アブラハムが格下げされます。神はアブラハム個人の神ではありません。イサクやヤコブといった族長たちやヤコブの十二人の息子たち(8節)、さらに言えば女性たちも含む「わたしたちの父たち/母たちの神」です。アブラハムの格下げとモーセの格上げは説教を貫いている解釈です。

大胆にも彼は物語の順番も変えています。出エジプト記3章によれば、①神は「履物を脱げ」と命じ(5節)、②神は自己紹介をし(6節)、③モーセは神を見ることを恐れます(6節)。本日の32-33節によれば、②神は自己紹介をし、③モーセは恐ろしくなって見続けることをせず、①神は「履物を脱げ」と命じます。神の自己紹介が冒頭にあり、そのことのみによってモーセに神への恐怖・神への畏敬が生じています。履物を脱がねばならないほどの聖なる場所であるかどうかは、神への畏敬や神礼拝と関係がないのです。

聖なる場所についての軽視は「シナイ山」(30節)という表記にもあります。同じ場所とも推定されていますが、出エジプト記3章1節によれば、モーセが召命を受けた場所は「神の山ホレブ」です。ステファノは、出エジプト記19章「シナイ山での契約締結と律法授与」とホレブ山での召命記事をまとめています(38節参照)。彼にとってはどの山でもよい。サマリア教団の聖地ゲリジム山(シケム)でも、ユダヤ教正統の聖地シオン山(エルサレム)でも構いません。なぜならペンテコステを経験した教会にとって、聖霊の神は自宅で礼拝できる方だからです。礼拝をする者はみな履物をすでに脱いでいます。

この霊と真からなる礼拝は、神の自己紹介から始まるものです。「わたしはあなたの父たち/母たちの神」、「わたしは主」(出20章2節)、「わたしはある」(同3章14節)、「わたしだ」(マルコ6章50節)、「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(ヨハネ8章49節)、礼拝とは向う側から自己紹介する圧倒的な存在である神を畏れることです(同18章6節)。こちら側の行為(祈り、告白、賛美)は徹頭徹尾応答でしかありません。

この神は信徒たちの日常生活の苦難を見て、呻きを聞いて、その日常まで降って、その上で「解放者」を派遣する神です(32節)。聖書の神は天高く遠くから私たちの苦難を見物しているのではありません。そうではなく神自らが地に降り立ち、苦難の現場の見分をし(創世記18章)、その上でご自分の民を解き放つ者を派遣します。その解放者がモーセであり、キリスト・イエスです。この事柄はクリスマスや十字架のイメージを揺さぶり壊し再構築させます。神は天から神の子を降したのでしょうか。神は天で神の子の虐殺を冷ややかに見ていたのでしょうか。そうではありません。神は馬小屋におられ、神は十字架の下におられたのです。母マリアと共にいた神は、マリア目線で神の子の誕生と死亡を見届けています。なぜなら神は、母マリアに代表される人々の苦難を先に見て、聞いて、調べ上げ、それらの苦難からの解放者として神の子イエスを世界に遣わしたからです。苦しむ方のみが、私たちを苦しみから解放します。

35 このモーセを――「誰があなたを統治者や裁判官に任命したのか」と言って、彼らは彼を否定したのだが――、この男性を、しかも統治者を、また解放者を神は送った、柴の中で彼に見られた天使の手と共に。 36 この男性が彼らを導き出した、不思議と徴をエジプトの地において、また紅海において、また四十年の荒野において行うことで。 37 この男性がモーセだ。その彼がイスラエルの息子たちのために(次のように)言った者だ。「私のような預言者をあなたたちのために神はあなたたちの兄弟たちから起こすだろう」。 38 この男性が荒野における民会(エクレシア)の中で、シナイ山において彼に語った天使と私たちの父たちと一緒になった者だ。その彼が生ける言葉を受けて私たちに与える。 39 その彼に私たちの父たちは従順になろうとしなかった。むしろ彼らは反発した。そして彼らは彼らの心の中でエジプトへと回帰した。

 ここからステファノの説教は熱を帯びます。「このモーセ」「この男性」という指示代名詞を使った強調が繰り返しなされています(35・36・37・38節)。特に35節は著しい繰り返しです。文法的には全て同格で「このモーセを」「この男性を」「統治者を」「解放者を」と畳みかけています。このような表現も旧約聖書本文にはありません。モーセは十字架のイエスと似ている、モーセがイエスを指し示す先駆者であるという、ステファノの確信からくる強調です。

 この確信の根拠はモーセ自身の言葉です。「私のような預言者をあなたたちのために神はあなたたちの兄弟たちから起こすだろう」(37節。申18章15節)。モーセが予告している「私のような預言者」とは、ナザレのイエスを指します。イエスはユダヤ人であり、モーセに似た預言者であり、預言者以上の方です。この確信はステファノの独創ではありません。ペトロの説教にも同じ聖句が引用されていることから、初代教会全体が共有している解釈だったということが分かります(3章22節)。

 35節は27節の反発するイスラエル人の発言をもう一度紹介しています。モーセは、自分の指導者性を否定する、自分の民を、エジプトから海の奇跡によって導き出して救いました。ファラオの奴隷を主を礼拝する自由人にしたのです。これを「贖い」と言います。その後の四十年間にわたる荒野の旅で、イスラエルの民は、何度となくモーセに反発し不満をもらしつぶやきました。「エジプトの方がましだった。エジプトに帰ろう」(出16・17章、民11章等)。それでもモーセは柔和な姿勢で辛抱強く民に仕え、「不思議と徴(奇跡)」によって食べ物と飲物を授けて民を養ったのでした。

「ナザレ人イエスなど知らない」と否定する弟子や、裏切る弟子、見棄てる弟子を救うためにイエスは十字架の道を進みました。「他人を救ったけれども、自分自身を救えない。お前は神から遣わされた解放者ではない。ユダヤ人の王ではない」と言って、侮蔑し嘲る祭司長や律法学者や、煽られた群衆を救うために、その時エルサレムに居てイエスを見殺しにした全ての人々を救うために、あえて彼らに殺されていきました。彼らの主張は結局、「わたしたちは強い者に支配されたい。その強さを借りて誰かを支配したい」というものです。これこそエジプトへの回帰、ファラオにひれ伏し、ファラオの傘のもと誰かを奴隷にするという罪です。イエスは、支配欲/被支配欲という罪を贖いました。徹底的に仕える自由という生き方と死に方で、イエスは力に頼ることを否定し、すべての暴力を放棄したのです。わたしたちの中にある暴力性という罪は、イエス・キリストの十字架によって贖われます。それを救いと呼びます。

38節「民会」にはギリシャ語話者であるステファノの教会理解も示されています。ギリシャ語訳旧約聖書はヘブライ語「会衆」をエクレシアと訳しました。新約聖書でしばしば「教会」と翻訳される単語ですが、これはギリシャ市民社会の「自治会」を意味する名詞です。一般的な歴史書ではエクレシアを「民会」と翻訳します。教会はこの世という荒野を旅する自治の集まりです。自分たちの進む道や進み方を自分たちで決めることができます。モーセは自治の中に、イスラエルの民と共にいます。そしてモーセは神から受けた「生ける言葉」(モーセ五書)を神の民に与えます。自治の民は、神の言葉を中心にした礼拝をする共同体です。礼拝はモーセ五書が朗唱される場なのです。

同じように十字架のイエスは教会の自治の中にいます。教会にはイエスの救いを経験した信徒たちがいます。無条件の赦しの前で毎日自分の罪を自覚し悔い改めて生きている者たちです。この謙虚で柔和な人々が総会を通して自主的に運営する組織がエクレシアです。教会で自分の十字架を担う信徒一人ひとりと十字架のイエスは共にいます。この十字架は、この世界で負わされる苦難よりも軽いので、教会に連なることでわたしたちは荒野を旅することができます。

「モーセは天使と共にいる」と聖書に書かれていない内容をステファノは付け加えています。教会には「天使」(5章18節)たちがいます。イエスのように苦しみを受けている信徒たちを善意で助けてくれる人々、「神対応」ができる人々、良いサマリア人たちです。教会は、すべての人に開かれた礼拝において、教会に好意的な民(ラオス)とも一緒に、生ける神の言葉を共有する「神の民」です。教会の礼拝には、生ける神の言葉である復活のイエスがいます。イエスは大胆な聖書解釈にならって教会は「文字として書かれている正典(旧約聖書)」を、イエスの霊に導かれて解釈することを礼拝の中で行いました。ステファノは「多様な正典を自由に読み解く説教」を「生ける言葉」と呼び、毎主日自宅での礼拝で説教奉仕を担っていました。その毎日曜夕方の礼拝に苦労していた人々が喜んで集まり、月曜日の日常生活へと派遣されたのです。

今日の小さな生き方の提案は、苦しむことができる神を信じることです。それは自分に反対し反発し反抗し、自分を裏切り見棄て侮り嘲る者たちを、自分の民として救い出すイエスです。柔和で謙虚で、神に従順で、実に十字架に至るまで神に従って罪を犯さなかった方です。利他的に生きる自由を徹底された神の子が利己的なわたしたちの救い主です。改めてイエスを信じ、いまだにイエスに反抗し続けるわたしたちの罪を清めてもらいましょう。自分の生活の十字架を教会に置いて、軽い十字架に担い変えて、明日を生きましょう。