ダビデの町で ルカによる福音書2章1-7節 2021年12月19日 待降節4週目礼拝説教

1 さてそれらの日々において、皇帝アウグストゥスによって世界の全ての者が登録されるようにとの勅令が出るということが起こった。 2 この登録はキリニウスがシリアの属州長官だった時に最初に起こった。 3 そして全ての者たちは登録されるために各々自分の町へと続々と行った。 4 さてヨセフもガリラヤから、ナザレの町からユダヤへと、ベツレヘムと呼ばれているダビデの町へと上った、彼がダビデの家と父系子孫出身であるゆえに、 5 マリアムと共に登録されるために、その彼女は彼と婚約し、彼女は妊娠しているのだが。 6 さて彼らがそこに居るうちに、彼女の出産する日々が満ちるということが起こった。 7 そして彼女は彼女の息子、初子を生んだ。そして彼女は彼を産着にくるんだ。そして彼女は彼を飼葉桶の中に寝かせた。なぜなら彼らのために宿屋の中に場所が無いままだったからだ。

 

ダビデとは紀元前11世紀から10世紀にかけて生きていたイスラエルの王です。ミケランジェロの作品「ダビデ像」などで有名な男性です。イスラエルの人々にとっては民族の英雄です。政治的軍事的天才だったダビデ王の頃に、古代イスラエル王国が最も繫栄したからです。

さて聖書の中には「ダビデの町」と呼ばれる場所は二つ存在します。

一つはエルサレムです。かつてエブスという名前の都市国家でした。そこをダビデ王が私兵を使って攻め落とし、エルサレムと名づけました。そこでエルサレムの別名を「ダビデの町」と呼びます。ダビデ個人が占領し所有したからです。おそらく「ダビデの町」と最初に呼ばれたのはエルサレムです。そして一般的には「ダビデの町」とはエルサレムを指します。なぜならエルサレムが長い間首都であったからです。そこは政治的中心地です。

だからエルサレムのことを指す「ダビデの町」におけるダビデという人物のイメージは、馬にまたがり軍隊を率いる軍人としての王です。このイメージは、マタイによる福音書のクリスマス物語に重なります。実はクリスマスページェント(聖誕劇)というものは、マタイとルカという二つの福音書に収められているそれぞれの逸話を継ぎはぎに合わせたものです。マタイ版には博士が登場し、ルカ版には羊飼いが登場します。マタイ版はヨセフが主役であり、ルカ版はマリアが主役です。東方から来た博士たち(ギリシャ語マゴス)を英語でkingsと標記することがあります。また、博士たちは、「将来のユダヤ人の王として生まれた方はどこにいるのか」と、エルサレムに住む、現在のユダヤ人の王ヘロデに尋ねています。贈り物も豪華な貴重品であることも、「王」の誕生がマタイ版クリスマス物語に一貫して流れています。

もう一つの「ダビデの町」は、ベツレヘムという小さな町です(4・11節)。それこそルカによる福音書のクリスマス物語の立場です。今年はルカ福音書を取り上げておりますので、ルカの強調点を深掘りしてまいりたいと思います。ベツレヘムが「ダビデの町」と呼ばれる理由は、ダビデという人がそこで生まれたからです。ダビデという人は、生まれながらの王子(将来の王)ではありません。彼はエッサイという羊飼いの息子であり、しかも8番目に生まれた末っ子でした。彼は子どもの時から羊飼いだったのです。しかし、豊臣秀吉のようにそこから出世して、王にまで上り詰め、ダビデ王朝を創始したのでした。

だからベツレヘムのことを指す「ダビデの町」における、ダビデという人物のイメージは「羊飼い」です。それも良い羊飼いです。自分の羊を一頭一頭理解してかわいがります。夜は寝ずの番をし、狼が来た場合には石投げ器や杖で追い払います。昼は羊たちをオアシスに導き、牧草地に連れて行きます。一頭でもはぐれたら、その一頭を必死になって探し出します。時々竪琴を弾きながら、羊たちの心を癒します。

本日は取り上げませんでしたが、ルカによる福音書2章8節以降に羊飼いたちが登場する理由もうなずけます。ルカが、「ダビデの町」という言葉を、良い羊飼いだったダビデの出生地として用いているからです。王ではなく羊飼い。このイメージを、イエス・キリストという救い主に重ね合わせることが、ルカ版クリスマス物語において大切です。「今日、羊飼いダビデの町に、ダビデに優る良い羊飼いとして、あなたたち羊飼いのために救い主が生まれた」(2章11節)。

羊飼い重視という視点を切り口にして、この角度から物語を読み解いていきましょう。ローマ皇帝アウグストゥスという人物(1節)、ローマ皇帝の側近キリニウスという人物は、ルカ版クリスマス物語においてどのような機能を持っているでしょうか(2節)。

年長組のページェントで「ローマのおうさま」という役があります。その登場シーンに歌う歌は、重々しく、少し怖いメロディーです。子どもが演じるとかわいいのですが、曲調はルカ版のローマ皇帝アウグストゥスの役回りをよく理解しています。アウグストゥス(とその側近キリニウス)は、貧しいマリアとヨセフをさらに苦しめる悪役なのです。住民の登録は住民から人頭税をとりたてるための施策です。そしてその行為は、かつてダビデ王が行って神から叱りつけられた悪行です(歴代誌上21章参照)。ユダヤの民には、ヘロデ王にも支払うべき税金や、エルサレム神殿建築(ヘロデ大王の手がけた一大事業)や神殿貴族の維持のための税金があったので、ローマ帝国にまで納税をすることは大変な負担となります。

さらに著者ルカは史実とも異なる脚色を施しています。ローマ帝国の住民登録は先祖の土地に行くことを要求しませんでした。徴税目的なので、現住所での登録が通例だったのだそうです。この歴史的事実に反して、ルカは先祖の土地に行くことを全住民の義務と記しています(3-4節)。それによってマリアとヨセフの苦労が増すという効果が出ています。妊娠中であるのに長旅を強いられてしまうからです。人頭税ですから、生まれくるイエスも登録をしなくてはいけません。この意味ではマリアとヨセフは、あえて臨月に移動してベツレヘムで出産をするつもりだったのかもしれません。7節「産着でくるむ」という動詞は、マリアの準備を伺わせます。イエスのためだけの登録を別の日程ですることは、再びベツレヘムに来る必要を生じてしまい、二度手間となるからです。いずれにせよ旅先の出産はあまりにも危険です(創世記35章16節以下のラケルの死参照)。これは移動が強いられているからこそ受ける苦労です。

勅令発出直後、大勢のダビデの子孫が小さな町ベツレヘムに集中してしまうことになりました。お盆の帰省ラッシュのような状況です。その結果宿屋という宿屋が満室となります(7節)。こうして、生まれたばかりの赤ん坊のイエスは、「飼い葉桶」に寝かされることとなります。聖書には、マリアとヨセフが馬小屋に泊まったとは明記されていませんが、「飼い葉桶」からの類推で馬小屋に家族で宿泊したのだろう、そこでイエスを出産したのだろうと考えられているのです。

年中組・年長組のページェントで、「親切な宿屋さん」が登場します。どこの宿屋も満室でしたが、その宿屋さんだけは馬小屋と飼い葉桶を夫妻のために提供してくれたという役回りです。これまたかわいい場面です。そして、先程の「ローマのおうさま」と対になって、ルカ版クリスマス物語の大きな構図をうまく表しています。それは大小の比較です。

当時の地中海世界全体を支配していた、大きなローマ帝国があります。初代皇帝アウグストゥスは本名をオクタヴィアヌスと言います。ユリウス・カエサルの甥です。アウグストゥスは尊称であり「尊厳者」という意味です。大いに尊崇されるべき人物、大いなる方、「神の子」とも呼ばれた政治家です。属州シリアはローマ帝国にとって東の要にあたり、地政学的に大いなる場所です。ローマは長期間にわたる戦争により、ライバルだったセレウコス朝シリアを打ち破りやっとシリア地方を占領し、東のパルティア王国と対峙していました。だからこそアウグストゥスは側近中の側近である大政治家キリニウスを何度も長官に任じているのです。

ローマ帝国の属国ユダヤは、かろうじて独立を許可された、政治的価値の低い小さな属国でした。だからローマ帝国の属州シリアの下に置かれています。そのユダヤの中でもベツレヘムは小さな町でした。さらにベツレヘムの中でも小さな宿屋の小さな馬小屋の小さな飼い葉桶に、小さな赤ん坊が寝かされます。この方こそ「神の子」であり、この方こそ救い主キリストだというのです。この大小の比較こそクリスマスの本質です。だからわたしたちはクリスマスにおいて、この世界で肩身の狭い思いをしている人々、社会から締め出されている人々を思い起こす必要があります。もしそれが自分自身であるなら、自分自身を見つめ直す必要があります。

さらに、もう一つの比較があります。支配と従属の関係(ローマとユダヤ)と、互いに仕え合うという関係(マリアとヨセフ、宿屋と夫妻)です。ルカ福音書が「マリアム」(5節)という本名の表記を重んじていることは示唆に富みます。マリアはギリシャ語風の読み方であり、ヘブライ語名はミリアムです。ギリシャ人であるルカはあえて意識して「マリアム」と書いています。ルカがマリアを尊重しているからです。その人本来の名前で呼びかけることはその人の尊厳を大切にすることです。同じようにヨセフは心からの尊敬と尊重をもって馬小屋で赤ん坊を取り上げます。またマリアは赤ん坊を大切に寝かします。納税の対象者というのではなく、一つの命として人は尊重されるべきなのです。

世界で小さくされている人に注目し、その人々に仕えること、また、互いに仕え合うことが、クリスマスの指針です。もし小さくされている人が、自分自身であったならどうでしょうか。誰からも尊重されていないと感じていたとしたらどうでしょうか。クリスマスは、そのようなあなたのためのものです。この礼拝で、「わたしが大切にされている」と感じていただければ、教会としてはこれ以上の幸いはありません。その感覚は、イエス・キリストが今(目には見えませんが)、あなたに仕えあなたを救っているからこそ生じるものです。

今日の小さな生き方の提案は、すべての人は尊重されるべきだということを知ることにあります。人は、自分自身が大切にされる場に行くべきです。ページェントで羊飼いたちが「ダビデの町/ベツレヘムへ行こう」と言う場面があります。それは世界から爪弾きされていた羊飼いを受け入れる馬小屋です。そこには宿屋とマリア・ヨセフ・イエスの温かい交わりがあります。そこには真の良い羊飼いがいます。自分が軽蔑され軽んじられる場に人間は居てはいけません。そのような場から逃げるべきです。大切にされ尊厳が守られる場に移動するべきです。一週間に一度だけでも避難することをおすすめいたします。泉バプテスト教会は、みなさんのためのベツレヘム(パンの家の意)として、毎週の礼拝でパンを分かち合っています。それによって互いに仕え合うためです。全ての人はこの温かい交わりに招かれています。