ダマスコの教会 使徒言行録9章19後半-25節 2021年7月18日礼拝説教

19 さて彼はダマスコの弟子たちと数日共に居た。 20 そしてすぐに諸会堂の中で彼はイエスを宣教した、彼こそが神の子であると。 21 さて聞いた人々の全ては驚き続けた。そして彼らは言い続けた。「彼こそがエルサレムにおいてこの名を呼び続ける者たちを破壊した者ではないか。そしてここにこのために彼は来た、捕まえて大祭司の前に彼が彼らを連れて行くために。」 22 さてサウロは益々力づけられ続けた。そしてダマスコに住んでいるユダヤ人たちを混乱させた。彼こそがキリストであると確信しながら。

 本日からはユダヤ教ナザレ派(キリスト教)に回心した後のサウロの物語です。紀元後33年ごろのことと推測されます。遅くても後36年よりも後ろではないとされます(佐竹明)。サウロの誕生の時期は不明ですが紀元前後のことであれば、33-36歳ぐらいの入信です。イエスよりも少し若い同世代人です。

 ダマスコ教会の中心人物アナニアは迷いながらもサウロを自分たちの群れに加えました。その際には、ユダヤ人街の大物ユダもその家族も教会に加わったことでしょう。「さて彼はダマスコの弟子たちと数日共に居た」(19節)とあります。アナニアの行動だけでは不十分です。ダマスコの弟子たち、すなわちダマスコの教会員たちとの交わり・認め合いがなければ、「サウロの回心」は教会全体が喜ぶ出来事となりません。

 ダマスコの教会員の中には迫害を避けエルサレムから逃げてきた人々もいました。使徒言行録によればその人々がダマスコ教会を建て上げたのです。歴史的には、それ以前から無名の信徒たちが交通の要衝ダマスコを往来し、ナザレ派の教えを伝えていたと思います。しかし聖書自身の証言ではサウロから迫害された人々がダマスコ教会の創立者たちです(8章1-3節)。

 アナニアはダマスコにあるいくつかの「家の教会」にサウロを連れて行きます。特に最もサウロからの被害に遭った、元エルサレム在住の信徒の家に連れて行きます。自分の家族をサウロによって投獄された人たちです。この人たちの葛藤はアナニアの比ではありません。当事者だからです。怒りや憎しみが渦巻きます。しかし、彼ら彼女たちはサウロと共に数日居たのです。「居る」という動詞に、状態を表すBE動詞(エイミ)は使われていません。「成る/起こる」という動作を表す動詞(ギノマイ)が使われています。このようなヘブライ語風の動詞の使い方が、サウロとダマスコ教会員とが一緒に居ることの重要性を示しています。ただ単に「共存する」ことは不可能な両者が、互いに対等に協力し合う信徒と「成る」ために努力をしているのです。あえて訳せば「共に成った」のですし、サウロを含むダマスコ教会がここに生起したのです。

 サウロは何回も謝罪したのではないでしょうか。そしてダマスコ教会員は何回もその謝罪を拒否したのではないでしょうか。被害者に赦しを強要することはできないのですから、長期間の厳しい対話があったことでしょう。サウロがダマスコの教会に連なっている間中、打ち解けなかった人もいたとも思います。しかしそれでも、個々の感情を超えて「共に成る」努力がなされ続けたはずです。もっぱらアナニアという指導者が対話の過程に同伴していたはずです。

後に手紙を書きまくったサウロはダマスコの教会生活についてほとんど何も記載しませんでした。おそらくその理由はこの対話の過程が非常に辛かったからだと思います。自分で自分を解剖するような自己吟味が必要です。それほどに厳しい言葉を浴びせられたはずです。「あなたはわたしの家族を殺した」と。しかしこの対話の過程が逆説的にサウロを下支えしたのでしょう。サウロは「益々力づけられ続けた」(22節)は受け身です。宣教に対する反発も力づける一因かもしれませんが、しかし、サウロの宣教の業を背後で支えたダマスコ教会が絶えざる対話の中でサウロを力づけていったのでしょう。最後までサウロを赦せないと思っている人も、サウロと共に福音宣教に与かる中で「嫌いでも協力し合う仲」になったのだと思います。教会の交わりというものの本質の一つです。

 ナザレ派の伝道手法の一つは、ユダヤ教会堂(シナゴーグ)に入っていくというものです(20節)。サウロもは同じ方法をキプロス島でも小アジア半島でもギリシャでも採っています(13章5節・14節、14章1節、17章1節・10節・17節、18章4節・8節・26節、19章8節)。会堂にユダヤ教の素地のある比較的自由な人々や、ユダヤ教に好意をもつ非ユダヤ人がいたから、伝道のためには効率が良かったのです。ユダヤ人の歴史(旧約聖書)について説明を省けます。また、キリスト者自身も「ユダヤ教徒の中のナザレ派」と自認していたという事情もあることでしょう。公式に「ナザレ派の破門」「会堂からの追放」が正統ユダヤ教から言い渡されるのは後90年ごろのことです。信徒たちが会堂で独自の聖書解釈を論じることは、不自然な行為ではなかったのです。

 不自然なことは、信徒に対する迫害者サウロが「イエスが神の子である」という宣教をしていることです。最初はユダの属している会堂にサウロは行ったのかもしれません。会衆はユダがダマスコにサウロを招いて、ダマスコ在住のナザレ派たちを一網打尽にエルサレムに連れ戻し投獄することを期待していました(21節)。ユダはサウロを紹介します。しかし会衆の期待する言葉とはまったく反対の言葉をサウロは宣べ始めます。「イエスは神の子である」というのです。この言葉によってダマスコの会堂は混乱させられます。

この言葉使いにサウロに対するダマスコ教会の影響がうかがえます。サウロは「イエスは旧約聖書の神ヤハウェである」と信じて回心しました。しかし宣教内容は「イエスは神の子である」です。より普遍的です。ローマ帝国支配下では、皇帝が神の子であったからです。ダマスコの教会が国際的であり社会的であることが分かるのです。イエスは神の子であるということは、ローマ皇帝は神の子ではないという意見の表明です。穏やかではありません。

 サウロは内心「イエスはキリストである」とも確信しています(22節)。この言葉も「イエスはヤハウェである」から踏み込み深掘りしている表現です。言わば「教会がなす信仰告白の言葉」にサウロが近づいていっています。イエス・キリスト・神の子・救い主。「魚(イクスス)」のマークが示す信仰告白です。外に言葉として出す時に、内心の理解が深まります。人に教える時に、自分が一番学ぶのと同じです。外国語習得においても話す時に聞く能力が上がります。イエスは神の子という表白が、イエスはキリストという確信を相乗作用のように強めていきます。

 サウロがキリスト者であることを旗幟鮮明にしたことは、ユダヤ人街を混乱させました。アナニアに続いてユダまでもがナザレ派に転向してしまいます。教会に対する圧迫も強くなったことでしょう。ダマスコ教会はこの時点でサウロと何人かの弟子たちをナバテア王国へと遣わしたと推測します。ガラテヤの信徒への手紙1章17節に記されている「アラビア(ナバテア王国)伝道」です。しかしこの伝道旅行はあまりうまくいかず、ナバテア王国のアレタ王の反感を買っただけに終わったようです。サウロはダマスコに戻ります。23節の「多くの日々」を、アラビア伝道の期間と採ります。

23 さて多くの日々が過ぎた時に、ユダヤ人たちは彼を殺すために共謀した。 24 さてサウロに彼らの謀が知られた。さて彼らも門を昼も夜も監視し続けた、彼らが彼を殺すために。 25 さて彼の弟子たちは夜、彼らは壁を通して彼を下ろした、籠の中に下ろしながら。

 ユダヤ教「正統」はダマスコに戻ってきたサウロを殺そうとします。それは「正統」だけの力でなされるものではありません。ユダヤ人街の中のナザレ派勢力もかなり強くなってきたからです。そこで「正統」は行政と手を組みます。行政機関も協力した暗殺計画です。コリントの信徒への手紙二11章32-33節によれば、当時ダマスコにはアレタ王の代官が居て町を支配していたようです。アラビア半島を中心とするナバテア王国の勢力が強くダマスコまで実効支配することをローマ帝国も認めざるを得なかったのでしょう(ただし後62年からはローマの直轄支配)。ユダヤ人たちは、アレタ王に嫌われているサウロを殺すためという理由で、城門の監視をアレタ王の代官以下行政官たちに要請します。古代西アジアの大きな町は城壁で囲まれています。門を通らなくては町の外に出ることはできません。

 「彼(サウロ)の弟子たち」(25節)という奇妙な表現は、「アラビア伝道を共にしたダマスコ教会の同労者たち」と解します。この奇妙さに耐えられず「弟子たち」に修正する写本もありますが、こういう時は「より困難な読み」が元来の本文です。ひょっとするとエルサレムからサウロに随行していた者たちかもしれません。目が見えなくなった時も彼を支えていた人々が、またもや彼を助け出します。大きな籠の中にサウロを入れて、籠を城壁にしつらえられた窓から出し、そろりそろりと籠を吊り下ろすという奇策です。

 赤ん坊のモーセが入れられた籠を見張るミリアムや、エリコ偵察者を城壁の窓から吊り下ろして助けたラハブや、父サウルから命狙われている夫ダビデを窓から吊り下ろして逃がしたミカルや、中風の友人をイエスのもとに床ごと吊り下ろした四人のことが思い出されます。歴史は少数の有名人たちによってつくられるものではありません。聖書を丹念に読めば、無数の無名のヒーロー・ヒロインが歴史の主役であることが分かります。ダマスコ教会の同労者たちの機転がなければ、後の「異邦人の使徒パウロ」の活躍もありません。彼ら彼女たちが福音宣教に与かっているという事実は、わたしたち無名の信徒たちを力づけ励まします。

 今日の小さな生き方の提案はわたしたちの日常生活を力づけ励ましていることに目を向けることです。キリスト者になりたてのサウロにとって、それはダマスコ教会の交わりでした。アナニアという指導者は他に登場しません。いわゆる「地味な」牧師だったのでしょう。教会がなす「アラビア伝道」という宣教政策も今一つ成功しません。「パウロの手紙」の宛先にもなりません。大都会にある「地味な」教会です。ユダヤ教の多くの会堂が存在するので伝道をし迫害されることが日常的です。サウロの回心を助け、福音宣教者サウロの命を助けたのは、このダマスコ教会です。サウロが居ようが居まいが、ダマスコ教会は与えられた条件下で地道に福音宣教を続けていきました。

ここで視点を転換しましょう。サウロに注目するのではなく、サウロを生かしたダマスコ教会にこそ注目しましょう。ダマスコ教会は寛容です。サウロを受け入れたからです。苛立たず恨みを抱かず忍耐強いです。サウロとの対話を続けるからです。自分の利益を求めません。サウロを命がけで守り助けるからです。ダマスコ教会は高ぶらず自慢しません。「異邦人の使徒パウロ」の授洗教会などと喧伝しないからです。

 このような地味なありようこそが「地の塩」としての教会の交わりです。そして無名の信徒による、無数のさりげない善意の行動(愛)こそがわたしたちの日常生活を励まし力づけるのです。