ディナの悲劇 創世記34章1-17節 2019年8月25日礼拝説教

聖書の多くの記事は男性の視点で描かれています。ディナという女性に起こった悲惨は、その出来事が悲惨だったというだけではありません。悲惨な出来事の取り上げられ方や伝えられ方もまた悲惨です。被害者であるディナの名誉は物語の中でまったく回復されないのです。わたしたちはこのような聖書箇所に出会った場合、彼女に二次加害を与えてはいけません。それは例えば「強姦されたディナにも落ち度があったのではないか」というような邪推です。彼女の名誉を回復するような注意深い解釈が必要となります。

「そしてレアの娘ディナ――彼女(ディナ)を彼女(レア)はヤコブのために生んだ――は、その地の娘たちを見るために、出た」(1節)。ディナが何歳だったかは分かりません。ヤコブ一家がシケムの城外にどれぐらい住んでいたかも分からないからです。レアの七人の子どものうちの末っ子ですから10代半ばでしょうか。ディナには異母兄弟を含めて10人の兄と1人の弟がいます。女性の友人を求めてシケムの城内に入ったのでしょう。

「そして、その地のヒビ人の首長ハモルの息子シケムは彼女を見、彼女を取り、彼女と寝、彼女を強姦した」(2節)。シケムという人がシケムという町に住んでいました。町長のドラ息子です。町の名前を名づけられるほどですから、町長の息子で、将来は町長になるような若者でしょう。支配力を濫用して、ディナを力づくで犯します。「強姦する」(アナー)は、「虐待する/奴隷の苦しみを負わせる」という意味で出エジプト記でしばしば使われます。ヒビ人>ヤコブ一家、男性>女性という力の差が強姦の温床です。ディナに何も落ち度はありません。「女性は潜在的に犯されたいと願っている」などという強姦神話は、加害者本位の詭弁です。

「そして彼の全存在がヤコブの娘ディナに執着し、彼はその若い娘を愛し、その若い娘の心に語りかけた」(3節)。「上手に出るコントロール」と「下手に出るコントロール」をシケムは使います。性暴力(上手)の後に、優しく声をかけて(下手)、被害者を混乱させるのです。「暴力を用いるけれども、それも愛情表現なのかもしれない」と思わせ、被害者の心を支配しようとします。強姦神話に基づくシケムを、ディナが好きになるはずはありません。

「そしてシケムは彼の父ハモルに言った。曰く『この少女を私のために妻に取ってくれ』」(4節)。ドラ息子であるシケムは父親の権力を頼ります。そして父は息子の言いなりになって動きます(6節以下)。原文で息子は丁寧語を使っていません。わがままな息子を甘やかしている図がうかがえます。

「そしてヤコブは、彼(シケム)が彼(ヤコブ)の娘ディナを汚したと聞いた。そして彼の息子たちは彼の家畜と共に野にいた。そして彼は彼らの来るまで黙っていた。そしてシケムの父ハモルがヤコブのもとに彼と話すために出た」(5-6節)。ディナは母レアのいる天幕に帰ります。目の弱いレアは必ず天幕にいます。ディナはレアに相談をします。レアは夫ヤコブに、娘が町でひどい目に遭ったことを伝え、レアの6人の息子たちを呼び集めるように求めます。ところがヤコブは黙っていました。ヤコブは、ハモルと一対一の話し合いで決着しようと考えています。「相手は権力を握っている。今住んでいる土地もシケムの兄弟たちから買ったものだ(33章19節)。追い出される可能性もある。息子たちに告げると丸く収まらなくなるから黙って自分一人で交渉にあたろう」。相変わらずのヤコブの損得勘定です。レアは夫に失望します。

「そして、彼らが聞いた時、ヤコブの息子たちは野から来た。そしてその男性たちは互いに嘆き、彼らは非常に怒った。なぜなら彼(シケム)がイスラエルの中で恥ずべきこと、ヤコブの娘と寝るということを行ったからだ。『このように行われるべきではない』」(7節)。夫ヤコブの沈黙を見て、レアは人を遣わして野にいる自分の6人の息子たちにディナの悲劇を伝えます。これからハモルが結婚依頼交渉をするために我が家に来る、ヤコブ一人で交渉させない方が良いとも伝えます。それを聞いて兄たちは緊急帰宅します。

彼らは怒りますが、その理由はいただけません。ディナの人権が侵害され、「魂の殺害」と呼ばれるレイプ被害に遭ったということに対する憤りではありません。誰もディナの健康や精神を労わろうとは思っていません。兄たちが怒っているのは、自分たちの家がないがしろにされたということです。その考え方はヤコブも共有しています。「シケムがヤコブの娘ディナを汚した」(5節)とは、ヤコブが「自分の家を冒瀆された」と思ったという意味です。自分たち男性たちの所有物である「家の女性」が無断で「きずもの」にされたことに屈辱を感じ怒っているのです。唯一母レアだけが、娘ディナ個人の痛みと悲しみを共有していたと推測します。娘が可愛そうだ。レアは公正な裁きを求めて夫や息子たちに働きかけますが、夫も息子たちも的を外します。

ヤコブにとっては目障りだったと思いますが、ハモル・シケム父子との話し合いにレアの息子たち6人が怒りを押し殺して参入します。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルンです。この息子たちは、父ヤコブの対応にも不満を持っています。だから6人は父ヤコブをも出し抜こうと考えています。男性たちがそれぞれの思惑を秘めて、当事者である女性たち(ディナ、レア)が不在のまま、勝手な交渉事・商談を始めます。

「そしてハモルは彼ら(ヤコブと6人の息子たち)と話した。曰く『シケムは私の息子。彼の全存在があなたたちの娘を欲しています。どうか彼女を彼のために妻に与えてください。そして私たちと互いに縁組をしましょう。あなたたちの娘たちを私たちに与えてください。そうすれば私たちの娘たちをあなたたちはあなたたちのために取ることができます。そうすれば私たちと共にあなたたちは住むことができます。そしてその地はあなたたちの面前にあります。住み、そこで商売をし、そこに定住しなさい』」(8-10節)。

町長ハモルは破格の条件を出して、息子の不祥事をもみ消そうとします。ハモルはシケムの犯した性暴力という罪について何も語りません。ただの恋愛、双方の合意があったかのようです。そして、シケムとディナだけではなく、両家の縁組をもっと増やそうとします。目的は、いくつもある一般的結婚のうちの一つに、ディナの悲劇を薄めることです。その見返りは、ヤコブ一家にシケム城内に広い土地を与えること、町の中で商売をする自由を与えることです。ハモルは丁寧語を使いながら自分の権力を武器に取引をもちかけています。

「そしてシケムは彼女(ディナ)の父に向かって、彼女の兄弟たちに向かって言った。『私はあなたたちの目の中に恵みを見出す。あなたたちが私に言うものを、私は与える。私負担の結納金と贈り物を非常に多くせよ。あなたたちが私に言うとおりに私は与えたい。そして私のためにその若い娘を妻に与えよ』」(11-12節)。シケムは金持ちのドラ息子です。ディナに対する性暴力について謝罪をしません。ヤコブたちにも丁寧語を使わず上からの発言を続けます。金に糸目はつけない、とにかく娘を渡せというわけです。

「そしてヤコブの息子たちは、シケムと彼の父ハモルとに欺きをもって答え、彼が彼らの姉妹ディナを汚したということを語った」(13節)。6人の息子たちは、ヤコブに語らせません。彼らは帰る道の途中で短時間のうちにハモルとシケムを騙す計略を練っていたのでしょう。それは父ヤコブをも欺くことでした。父ヤコブが賛成できる内容を提案しながら、最終的には父ヤコブに内緒でシケムに復讐をしようという計略です。

新共同訳聖書は「語った」を訳出していません。私訳のように訳すことも文法的には可能です。私訳はヤコブの息子たちが、「あなたはわたしたちの家を冒瀆した」とシケムに面と向かって言ったという立場です。欺きとは無関係に、言うべきことを言ったととる。というのも、父ヤコブは自分たちの立場を主張しないだろうと息子たちには分かっているからです。まずガツンと言うことで、この後の交渉を有利に運ぶこともできます。彼らはラバンとリベカの孫です。

「そして彼らは彼らに向かって言った。『私たちはこのことをすることができない。(すなわち)包皮がある男性に私たちの娘を与えること(ができない)。なぜならそれは私たちにとって恥だから。ただ以下のことによって私たちはあなたたちに同意する。もしもあなたたちが、(すなわち)あなたたちに属する全ての男性が、割礼を受けることで私たちのようになるのならば、私たちはあなたたちのために私たちの娘たちを与えよう。そしてあなたたちの娘たちを私たちは私たちのために取ろう。そして私たちはあなたたちと共に住み、私たちは一つの民となろう。しかしもしもあなたたちが割礼を受けることについて私たちに聞き従わないならば、私たちは私たちの娘を取り、行く』」(14-17節)。

割礼とはヤコブ家の男児に伝わる通過儀礼です(17章9-14節)。それは生まれて八日目の赤ちゃんの男性器の包皮を切り取るという儀式です。現在でもこの割礼の有無が、ユダヤ人の男性であるかないかを分けます。

ハモルとシケム父子は、城外に住むヤコブ一家を不思議な風習をもつ家族と見て距離を取っていました。多くの家畜を飼い、祭壇を築き動物の犠牲祭儀をしているからです。だから割礼についても独特の風習の一つとして理解しました。ヤコブの息子たちの言葉には、なるほどと思わせる説得力があります。確かに文化・習慣を共有しなければ、共存して一つの民になることは難しいでしょう。ハモルとシケムは「傷は負うけれども悪い条件ではない」と思いました。

一方ヤコブも、息子たちの条件交渉に満足します。「言うべきことは言い、取るべきところは取る。中々成長したな」とヤコブは息子たちを見直します。これで先祖伝来の風習を続けながら、シケム城内に暮らすことができます。今までは独特の風習は嫌われもしました。ところがこれからは町長ハモルが親戚です。後ろ盾となり同じ風習を行う「一つの民」になろうというのです。ヤコブはこの条件交渉において一言も言葉を発しません。満足しているからです。

男性たちの男性たちによる男性たちのための商談が成立します。そして父と兄たちはディナにレイプ加害者シケムとの結婚を強要します。ディナにとって酷な結論です。レアは夫と息子たちからの説明を虚しい思いで聞きます。まったくディナとレアの意思が反映されない決定が、男性たちによってなされたからです。反論をしても無視され、レアの天幕からディナが取られシケムと一緒に城内に消えていきます。レアは父ラバンが決めた自分の結婚を思い出します。女性が家の所有物として扱われている限り、このような悲劇は繰り返されます。レアとディナは正義に飢え渇きながらも沈黙を強いられています。

今日の小さな生き方の提案は、ディナの願いを実現することです。少女が町で女友だちと自由に遊ぶことができない社会をなくすのです。キリストの福音はすべての差別を禁止しています。どんな人も個人として尊重され、自由が保障されるべきです。女性は劣ってもいないしモノでもない。だから性暴力も含めすべての暴力が許されません。結婚するかどうかも、どのような結婚をするかどうかも、家ではなく個人が決めるものです。個人を尊重し合う交わりを、教会で実現したいものです。少女たち・女性たちを力づけていきながら。