ナオミに子どもが生まれた ルツ記4章11-17節 2021年8月8日礼拝説教

 ルツ記は軽快な物語です。ナオミとルツという二人の「やもめ」が主人公です。ベツレヘム出身のナオミは飢饉のため夫と二人の息子と共に隣国モアブに逃げます。モアブ語はヘブライ語に極めて近いので言葉の苦労はそんなにありません。二人の息子はモアブ人女性と結婚します。下の息子の妻がルツです。ナオミの夫と二人の息子はモアブの地で死に、ナオミはベツレヘムに帰ることを決めました。二人の嫁に申し訳ないと思ったのでしょう。しかしルツだけは是非とも一緒にと志願するので、二人はベツレヘムに暮らすことになりました。

 赤貧です。女性たちには職業がない時代、「福祉国家」という概念もない時代のこと、「父の家(父親、夫、息子)」の庇護がない女性たちの生活は極端に苦しいものでした。イスラエルの「人道的」法律によって落穂拾いをしながら二人はその日をしのぎます(レビ記19章9-10節)。ルツがボアズという男性の農園で働いたことが転機となります。

ここで姑のナオミはボアズが親戚であることを思い出します。イスラエルの法律は「家制度の保存」に重きがありました。ナオミの夫の家系を保つために、親戚はナオミを養わなくてはならないのです(申命記25章5-10節)。この制度を利用して、ナオミはボアズとルツを結婚させようとします。法はボアズとナオミの結婚を規定するものです。またボアズよりも近い親戚もいます。兄弟を最も近い親戚として、そこから遠い順に親戚男性の責任と権限は弱くなります。ベツレヘムの町の門(自治の場)で行われた裁判で決着がつけられます。より近い親戚男性は自分の責任を放棄し、ボアズにナオミとルツの扶養を任せることに同意したのでした。本日の箇所はその続きです。

11 そして、かの門の中の全ての民と、かの長老たちは言った。「(わたしたちは)証人たち。ヤハウェはあなたの家に向かって来つつある女性を与えた、ラケルのように、またレアのように――その彼女たち二人がイスラエルの家を建てたのだが。そしてあなたはエフラタで力をつくれ。そしてベツレヘムで名前を呼べ。 12 そしてあなたの家がペレツの家のようになるように――その彼をタマルがユダのために生んだのだが――、ヤハウェがあなたのために与えた子孫により、この若い女性により」。

 ベツレヘムの男性長老たちは判決の証人たちとなることを宣言しました。そしてボアズに向かって祝福の言葉を述べます。この祝福で大切なことはベツレヘムの男性長老たちも、イスラエル(ヤコブの家)の女性たちの歴史をなぞって、肯定的に紹介していることです。イスラエルはラケルとレアが建てた家です(11節)。そしてベツレヘム、別名エフラタという町はレアのゆかりの地でもあり、ラケルのゆかりの地でもあります。レアの息子ユダの子孫が与えられた町であり(ヨシュア記15章59節)、ラケルがベニヤミンを生む時に死んで葬られた場所でもあります(創世記35章19節)。長老たちは町をラケルとレアという偉大な族長のゆえに誇りに思っています。モアブ人女性ルツは、ラケルとレアに匹敵する存在として称賛され祝福されています。これは最大限のほめたたえです。

 ユダ部族の女性たちの歴史の中でもう一人欠かせない人物がいます。カナン人女性タマルです。タマルはユダの長男の妻、さらに長男の死後は次男の妻となった女性です。先ほどの法によれば三男の妻としなければならなかったところを舅ユダはその責任を果たしません。ユダの脱法行為に憤ったタマルは、ユダを騙してユダとの間で子どもを生みます(創世記38章)。ルツ記のテーマと類似します。タマルが生んだペレツはボアズやナオミの直接の先祖です。「ペレツの家のようになるように」(12節)という言葉も最大限の祝福です。ここには、カナン人とモアブ人に対するベツレヘム住民の寛容さがあります。ラケル・レアの姉妹もアラム人でした。

13 そしてボアズはルツを取り、彼女は彼に属する妻になり、彼は彼女のもとに来、ヤハウェは彼女のために妊娠を与え、彼女は息子を生み、 14 かの女性たちはナオミに向かって言った。「ほめたたえ続けられるべきはヤハウェ――その彼があなたのために贖う者を途絶えさせなかったのだが――この日に。彼の名前がイスラエルにおいて呼ばれるように。 15 そして彼があなたにとって全存在の回復者になるように、そしてあなたの白髪(老いる時)を介護する者になるように。というのもあなたを愛したあなたの嫁が彼を生んだからだ――その彼女はあなたにとって七人の息子たちよりも良いのだが――。」

 裁判により公に認められボアズとルツは結婚しました。そこに「かの女性たち」が登場します。この女性たちは17節の「かの近所の女性たち」と同じ人たちです。この人々は帰郷したナオミに声をかけた女性たちと同じ人々でしょう(1章19節以下)。彼女たちは一貫してナオミに向かって声をかけています。法的な支援としては落穂拾いという仕組みがありました。ルツに焦点を当てる時に落穂拾いにだけ目が行きがちです。しかし、ルツが昼間農園に行っている間、ナオミはどこにいたのでしょうか。彼女たちには家はありません。路上生活者です。ナオミを介護し世話していたのは近所の女性たちです。何しろその日食べる物がないのですから、こっそり少しずつ持ち寄ってナオミとルツの生活を支えたと思います。教会の原風景の一つがここにあります。教会はパンを分け合う交わりです。ベツレヘムは「パンの家」という意味の地名です。

 彼女たちはモアブの地に行った時の、若かりし頃のナオミとその家族の姿を覚えていました。そして、ベツレヘムに帰ってきた時のナオミの白髪を愕然とした思いで見たのです。女性たちは代わる代わる、「あなたとあなたの家族に何があったのか」を聞き、彼女の夫と息子たちの死を悼み、共に嘆きました。彼女たちは、悲しむ者と共に悲しんだのです。ここに教会の原風景の一つがあります。教会は、共感する交わりです。

 ボアズとルツとの結婚は、ルツとナオミの路上生活が終わることです。このことを心から女性たちは喜びました。ボアズ(贖う者)が偏狭なモアブ人差別者でなくて良かったとか、ナオミの策がすばらしいとか、裁判でもうちの夫はボアズに賛成意見を出したのだとか、広い家に住めるようになって良かったとか、さまざまな言葉をかけて「良かった、良かった」と共に喜んだはずです。

 ルツの妊娠は、さらに喜びの輪を広げます。ルツ自身も前の夫との間に子どもを授からなかったことを、気に病んでいたかもしれません。子どもができないのは自分のせいかもしれないと悩んでいたことでしょう。しかし聖書は明確に、生命の授与者を「ヤハウェ」の神と明記しています(13節。また12節も)。ルツのせいではないのです。子どもは神からの授かりものです。妊娠はルツの名誉を回復させることでもありました。「七人の息子たちより良い」という賛辞は名誉の回復を意図しています。また「あなたを愛したあなたの嫁」という賛辞は、ベツレヘムの女性たち(子どものいない人も含む)がルツの人となりを知っていることを示しています。ルツのナオミに対する愛こそ出産や家の存続よりも大切なことであり、物語の真の出発点なのです。ルツは家の存続を願ってナオミに同伴したのではありません。ナオミという人が好きであり、ナオミという人を世話したい、仕えたいと願っただけなのです。二人には人格的交わり(仕え合い尊重し合う愛)がありました。それが交わりの理想です。

こうして、古代西アジア社会における社会的弱者「高齢者ナオミと外国人ルツというやもめたち」は、その社会の中で最大限救われたのでした。この救いは経済的・社会的・法律的なものであり、そして宗教的なものでした。二人の名誉が回復され人格が尊重される出来事だったからです。女性たちはそのことを喜び、神をほめたたえます。ここに教会の原風景の一つがあります。教会は喜ぶ者と喜ぶ、共感の交わりです。

16 そしてナオミはかの子どもを取り、彼女は彼を彼女の胸の中に置き、彼女は彼のために養母となり、 17 かの近所の女性たちは彼のために名前を呼んだ。曰く、「ナオミのために生まれ続けられるべきは息子。」そして彼女たちは彼の名前をオベドと呼んだ。彼はダビデの父エッサイの父。

 13節においては「ボアズがルツを取り」ます。それに呼応して「ナオミはかの子どもを取り」ます(16節)。「ボアズがルツを取り」は、当時の結婚観が表れた表現です。日本語で言えば「娶る」でしょうか。男性が女性を取り、自分の所有物にすることが結婚と考えられています。それに対してナオミは自ら孫を取り、自分所有の子ども(息子とは異なる単語)にしてしまいます。これはボアズや家父長制度に反抗する行為です。「わたしが企んでルツとボアズは結婚したのだから、ボアズはルツを取っていない。この子はわたしのものだ」。ナオミはタマルの「娘」です。

 近所の女性たちは、14節「ほめたたえ続けられるべきはヤハウェ」という賛美と、同じ文法表現で「ナオミのために生まれ続けられるべきは息子」(17節)と歌い上げました。彼女たちは讃美歌の優れた作詞家です。この二つの表現は、1章21節の「ナオミの哀歌(神への嘆きの詩)」に対する応答の詩です。ヤハウェは常に現在進行形で救いの道を切り開き続ける方です。

 ナオミの家父長制への反抗にも女性たちは呼応・共鳴して、過激な行動に出ます。赤ん坊に名前を付けてしまうという行為です。生まれた子どもに名前を付けることは家長の役割です。ここではボアズが命名する権限を持っています。さらにたった今養母となったナオミの権限でもありますし、もちろん母親ルツの権限でもあります。親が命名をするのが通例です。

 ベツレヘムの女性たちは通例の人々ではありません。まずモアブ人差別を持っていません。そして何の利得もないのにナオミとルツの生活を無償で支えています。裁判の場面でも、じっとその様子を見守っています。ナオミとルツの人生が上向くように、心から祈り、そのために汗をかいています。大きな権力を持っていないけれども、しかし無力なのではありません。微力を尽くして隣人の幸せのために仕え続けているのです。歴史はこのような匿名の善意ある人々によって動いています。ここにも教会の原風景があります。

 彼女たちが申し出たのか、あるいはナオミが彼女たちに命名権限を譲ったのか。いずれにせよ気持ちのこもった命名であり、ナオミに何の異存もありません。赤ん坊の名前はオベド。その意味は、「(彼は)仕え続ける」または「仕える男性」です。ここにも現在進行形があります。わたしたちの生き方に倣って、仕えるということの価値を体現する人になり続けてほしいという彼女たちの祈りが込められています。このオベドの孫が「ヤハウェの僕(エベド)」と呼ばれたダビデです。権力者は全体の奉仕者であるべきです。

 今日の小さな生き方の提案は、自分の人生をあきらめないということです。わたしたちは法的に保護されるべき存在です。また法的保護が不十分であっても、わたしたちを支える匿名の「仕える者たち」に、わたしたちは囲まれています。教会はパンを分け合い、泣く者と共に泣き、笑う者と共に笑い、互いに仕え合う交わりです。主の名を呼ぶ集まりが個人の人生を下支えします。礼拝で力を受けて、明日また立ち上がりましょう。