バビロン捕囚と帰還 歴代誌下36章17節-23節 2021年11月28日 待降節1週目 礼拝説教

17 そして彼は彼らの上にカスディームの王を上らせ、彼は彼らの若者たちを彼らの聖所の中の家において剣で虐殺した。そして彼は若者と娘、老人と弱者について憐れまなかった。彼は全てを彼の手に与えた。 18 つまり神の家の器の全て、大きいものたちと小さいものたち、そしてヤハウェの家の宝物、そして王と彼の高官たちの宝物(を与えた)。彼はバビロンに全てを持って行き、 19 彼らは神の家を燃やし、彼らはエルサレムの城壁を壊した。そして彼女の王宮の全て(を)彼らは火で燃やした。つまり彼女の高価な器の全て(を)砕くために。 20 そして剣から逃げた者(を)彼はバビロンに向かって連れ去り、彼らは彼と彼の息子たちに属する僕たちとなった、ペルシャ帝国の支配まで。 21 エレミヤの口におけるヤハウェの言葉が満ちるために、彼女の安息日をその地が喜ぶまで。彼女の荒廃させられた日々の全て彼女は安息した、七十年(を)満たすために。

 新約聖書の時の中心はキリストの十字架と復活です。あるいはクリスマスからペンテコステまでの「イエス・キリストの出来事」です。40年ぐらいの期間でしょう(前8年から後30年)。旧約聖書の時の中心は、バビロン捕囚とバビロンからの帰還です(前587年から前539年)。人の子イエスが馬小屋に生まれたことと十字架で虐殺されたことは、イスラエルの滅亡に重なります。神の子キリストの復活とイエスの霊の降臨(教会の誕生)は、神の民イスラエルの再興と帰還はぴたりと重なり合います。

 本日の箇所はバビロン捕囚とそこからの帰還を描いています。「カスディームの王」(17節)は、新バビロニア帝国のネブカドネザル王のことです。およそ一年間の攻囲戦の結果、城壁を破ってエルサレム城内に攻め込んだバビロニア軍は、エルサレム住民を無差別に虐殺していきます。「若者と娘」の一組は、イスラエルの将来性を絶やすための殺害です。「老人と弱者」という一組は、社会的弱者を憐れまなかった残虐性を強調しています(17節)。

そしてバビロニア軍はエルサレム神殿の中に侵入し、高価な物品を略奪していきます(18・19節)。その後、エルサレム神殿を燃やし、城壁を破壊します。神殿は精神的支えです。神が守ってくださるという安心です。そして城壁は軍隊が守ってくれるという安心です。この二つを崩壊させることで、イスラエルの復活を不可能にすることがバビロニア軍の狙いです。あなたたちの神は死んだのだ、あなたたちの武力・防衛力は根こそぎなくなったのだという事実を突きつけているのです。

「ヤハウェの家」を「神の家」と言い換えることは珍しい現象です(18・19節)。一般には「ヤハウェの家」だけが用いられ、それを「神殿」と訳します。ここにはヤハウェがイスラエル民族だけの神ではなく、世界全体の神であることが含意されています。世界の創り主である唯一の神は、バビロニア人にとっても神であるという批判が込められているように読めます。つまり神は死んでいません。バビロンの神がイスラエルの神に勝ったのではありません。唯一の神が、バビロニア軍を用いて、ご自分の民を裁いたのです。

新バビロニア帝国は剣を免れた貴族階級を首都バビロンに連れていきます(20節)。これをバビロン捕囚と呼びます。バビロニア帝国から見れば、パレスチナでのイスラエル復興を不可能にさせるための政策です。しかしここに神の意思が働いています。バビロンに連れて行かれた人々が、旧約聖書を編み出し、毎週安息日に会堂に集まって、律法朗読を中心にした礼拝共同体を創設したからです。イスラエルは、国破れても「ユダヤ人」という礼拝共同体として復興しました。十字架無しに復活無し。バビロン捕囚無しに、正典宗教の誕生はありえませんでした。

「彼女」は、女性名詞であるエルサレムのことを指しています(19・21節)。エルサレムの徹底的な荒廃を、歴代誌の著者は「安息」と理解しています。驚くべき逆説です。自分たちの国や政権が無い方が土地も人も休まるというのです。死ぬことを眠ることや休むことになぞらえることがあります。「永眠」や「神の懐に安らぐ」などと言い表します。十字架で殺されたイエスは、やはり二日間休んだのだと思います。深い眠りについたのです。神に起こされ、よみがえらされるまでは。

19節から21節の間に、「ために」が3回、「まで」が2回ジグザグに繰り返されています。その真ん中にあるのは「ヤハウェの言葉が満ちるために」です。こういった集中構造は、19-21節の中心的な使信を指し示します。すべては預言者エレミヤによって語られたヤハウェの言葉が満ちるための出来事だと著者は言いたいのです。エレミヤは敵国バビロン軍によるイスラエルの滅亡と、そこからの帰還を予告していました。エレミヤの言う通り、バビロン軍は神の道具です。休みをエルサレムに与え、エルサレムと別のところで神の民をよみがえらせるための神の「平和の計画」です。

22 そしてペルシャの王キュロスの一年において、エレミヤの口におけるヤハウェの言葉を完遂するために、ヤハウェはペルシャの王キュロスの霊を動かし、彼の王国の全てにおいて声が行き渡った。そしてまた書面においても(行き渡った)。曰く、 23 このようにペルシャの王キュロスは言った。「地の王国の全て(を)私のために天の神ヤハウェは与えた。そして彼は私にエルサレムの中に家を彼のために建てるようにと命じた。誰が彼の民全てよりあなたたちの中に(いるか)。ヤハウェ彼の神が彼と共に(いる)。そして彼は上らせる。」

 「エレミヤの口」(21・22節)が、本日の箇所の前半(バビロンへの捕囚)と、後半(バビロンからの帰還)とをつないでいます。新バビロニア帝国は、東から起こったペルシャ帝国に滅ぼされます(20・22節)。ペルシャ帝国の王がキュロスという人物です(22・23節)。バビロン捕囚下にあったユダヤ人たちは、キュロスのことを「油注がれた人(マシアッハ)」、すなわちメシア・キリスト・救い主と呼んでいます(イザヤ書45章1節)。珍しい現象であり、思想的大転換です。非イスラエル人をメシアと呼んでいるからです。それほどにキュロスが高い評価を得ているのは、彼がエルサレムへの帰還を許可するであろうことが予測できたからです。ユダヤ人たちに対してだけではなく、すべての被支配民に対してキュロス王は「寛容政策」を取りました。ある程度の民族自決を認め、宗教上の自由も認めたのです。世界史で「キュロスの勅令」と呼ばれる布告が、23節に記されています。

さて、ここで少し話題を変えます。旧約聖書の最初の節は創世記1章1節です。ご承知の通り、「初めに神が天と地とを創造した」という言葉です。では最後の節はどこなのでしょうか。二種類の最後の節があります。キリスト教配列の旧約聖書では、マラキ書3章24節です。23節から読むと「23 見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。 24 彼は父の心を子に子の心を父に向けさせる。私が来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」(新共同訳)。この言葉は新約聖書のバプテスマのヨハネについての預言と捉えられるので(彼こそエリヤ。マタイ11章14節)、キリスト教徒からすると良い結びの言葉です。教会にとって旧約は新約の序章、旧約が預言・新約が成就の関係だからです。つまりマラキ書という結びは「早く新約聖書を読みなさい」という指示になります。

しかし新約聖書を持たないユダヤ教配列の旧約聖書においては、意外なことに歴代誌が最後の書です。つまり本日の23節が旧約聖書の最後の節なのです。本は最初と最後が大切です。両者が深く関連しているからです。旧約聖書を一冊の本と捉える時に、創世記1章1節と歴代誌下36章23節は深く関係し連環しています。最初と最後だからです。キュロス王の発言に、「地(アレツ)」と「天(シャマイム」が言及されていることも、天と地の創造と単語レベルで呼応しています。こうして歴代誌という結びは、「この本の冒頭に戻って読み直しなさい」という指示になります。歴史のやり直しがここから始まるからです。正にこのやり直しのために、歴代誌は列王記を書き写しながらも、アダムからの系図を載せるという独特の仕方でイスラエルの歴史を書き改めたのです(歴代誌上1-9章)。

メシアとも呼ばれるキュロスが声を発します。「地の王国の全て(を)私のために天の神ヤハウェは与えた。そして彼は私にエルサレムの中に家を彼のために建てるようにと命じた。誰が彼の民全てのうちからあなたたちの中にいるか。ヤハウェ彼の神が彼と共に。そして彼は上らせる。」

その声は、「光あれ」と闇に向かって語る神の言葉と呼応しています。地は「形なく空しい」状態でした(創世記1章2節)。混沌とした状況はエレミヤが見たバビロン捕囚の荒廃状況と同じです(エレミヤ書4章23節)。エルサレムの中にヤハウェのために家を建ててよい、誰がエルサレムに帰りたいかとキュロスは言います。建物である神殿と狭くとる必要はありません。「ヤハウェの家」と明言していないからです。ユダヤの民にとって希望の光は建物ではありません。「ここにわたしがおります。わたしが帰りたい。新しい共同体(家)を創りたい」という気持ちが光です。そして、神が信徒の気持ちを汲んでくださって、必ずエルサレムに上らせてくださるという希望が光です。つまり神が、神を信じる一人ひとりと必ず共にいるという新しい契約が、光です。

かつて神は、選民意識に基づいて高ぶる神の民を裁くために、バビロン軍をエルサレムに上らせました(17節)。しかし今や同じ神が、神の民をかたちづくるために、有志の民をエルサレムに上らせるのです(23節)。神は言われた。「光あれ」。すると光があった。同じように非ユダヤ人であるペルシャの王キュロスは言いました。「神が各人と共に」。すると神が信徒と共にあった。希望の光が、打ちひしがれていた民にありました。そして闇はこれに勝たなかったのです。混沌の只中に光が差し込み、闇を切り裂き、闇を呑み込みました。神は闇を夜と呼び、光を昼と呼びました。バビロン捕囚という夜が明け、約束の地で「神の家」(礼拝共同体)が立ち上がります。

今日の小さな生き方の提案は、何度でもやり直すことです。わたしたちの人生には後悔が尽きません。同じ失敗や、似たような苦しみがしばしば起こります。わたしたちは自分自身の悪さや弱さに何度もがっかりし人生を諦めたくなります。しかし神は、後悔するということではなく、「悔い改め翻り、福音を信じて生きよ」と語りかけています。思いもよらない方向から、わたしたちの闇が消え去り、思いがけない時に夜が明けることがあるからです。

今日から待降節(アドベント)が始まりました。主イエス・キリストの救いを待ち望む季節です。希望の光が絶望の世に差し込み、形なくむなしかった事柄が、次第に整理され、神の家が立ち上がっていく様を、共に見ましょう。やり直しの旅に「ここにわたしがいます」と手を上げましょう。そのような一人ひとりに必ずインマヌエルの神が共におられます。