バルナバとサウロ 使徒言行録9章26-31節 2021年8月1日礼拝説教

 「招きの聖句」で取り上げたガラテヤの信徒への手紙1章18-24節によって補いながら、時系列を整理します。イエス・キリストの十字架と復活、ユダヤ教ナザレ派(キリスト教会)の誕生は紀元後31年のこと。サウロの回心は後33年ごろでしょう。ガラテヤ1章18節によれば、サウロがダマスコからエルサレムに行ったのは回心の足掛け三年後ですから後35年ごろです。この三年を使徒言行録9章23節は「かなりの日数」と記しています。サウロはペトロと主の兄弟ヤコブという指導者たちと十五日間一緒にいました(ガラテヤ1章18節)。しかしサウロに対する迫害が強まり彼はカイサリア経由でキリキア地方の中心都市タルソスへと逃げます(同21節、使徒言行録9章30節)。このような時系列を頭の片隅に置きながら本日の箇所を読み解きましょう。

26 さてエルサレムへと近づくと、彼は弟子たちに合流しようと試み続けた。そして全員が彼を恐れ続けた、彼が弟子であるということを信じないまま。 27 さてバルナバは彼を捕まえて、彼は使徒たちのもとへと連れていった。そして彼は彼らに詳述した、いかにしてかの道において彼が主を見たかということを、また彼が彼に述べたことを、またいかにしてダマスコにおいて彼がイエスの名において堂々と語ったかということを。 28 そして彼は彼らと共に、エルサレムで来たりまた出たり主の名において堂々と語り続けた。 

 キリスト信徒となりダマスコから命からがら逃げたサウロは、ある意味でダマスコよりも危険な場所に向かいます。属州ユダヤの首都エルサレムです。エルサレムには神殿を拠点とするサドカイ派の大祭司がいます。その大祭司がファリサイ派の右翼青年サウロに「ダマスコでのナザレ派逮捕拘束」のお墨付きを与えたのでした。その後音信不通になって三年が経とうとしています。もし彼がナザレ派に寝返ったことを知ればサドカイ派は彼を罰するでしょう。それは師匠のラバン・ガマリエルを悲しませることにもなりましょう。

エルサレムに向かう理由を使徒言行録は、弟子たちに合流するためと記します(26節)。キリスト者として認めてもらうためという意味です。ガラテヤ書はケファとヤコブと知り合いになるためと記します。エルサレム教会の中のギリシャ語を話す国際派を迫害したサウロが、国際派を見棄てた「右派」の最高指導者ペトロや「主の兄弟ヤコブ」と知り合いになろうとするとは、一体どういうことなのでしょうか。ガラテヤ書の前後の文脈を読むと、サウロがペトロとヤコブに会おうとした目的は自分を使徒として認めてもらうためだったということが理解できます。

言い換えるとサウロは、ギリシャ語を話す「国際派」もキリスト教会なのだということ、非ユダヤ人たちへの伝道活動を冷めた目で切り捨てずに温かく見守り認めてほしいという願いでエルサレムに来たのでした。この願いはダマスコ教会からの正式な依頼だったかもしれません。サマリア教会のようにペトロ・ヨハネの訪問までは願わないとしても(国際派指導者フィリポを追いやることにもなった)、ダマスコの地でギリシャ語をも用いた非ユダヤ人伝道を認めさせるために、ダマスコ教会がサウロを派遣したと推測しても面白いでしょう。つまり十四年後の「使徒会議」(15章)の内容を先取りした話し合いをしようとして、サウロはエルサレムに命がけで赴いたという推測です。

しかしもちろんエルサレムの教会は初めサウロを歓迎しません。サドカイ派のスパイであるかもしれないと疑います(26節)。「国際派だけではなく右派までも迫害するつもりか」という疑いです。

ここに登場するのがバルナバ(ネボの息子)と呼ばれるヨセフです。バルナバについては4章36-37節を読んだ時に取り上げました。父親ネボはキプロス人、母親はユダヤ人レビ部族。ダブルであるバルナバは使徒にも任じられている人格者です。彼は自分自身の民族的言語的背景から、国際派のステファノやフィリポたちに強い共感を持っていました。しかし温厚な人柄からか決してペトロやヨハネや主の兄弟ヤコブと対立することを好みませんでした。彼はステファノ虐殺後もエルサレム教会に留まり続けます。しかしバルナバは自分の背景にあるキプロス人ネットワーク(ギリシャ語)を用いた伝道活動をいつかしたいとずっと願い祈り続けていました。

民族主義的思想の強さ順に並べると、主の兄弟ヤコブ>ペトロとヨハネ>バルナバ>ステファノとフィリポという順番でしょう。バルナバはステファノの死を悼み、フィリポの出奔を嘆いていたと思います。同じバルナバが、ステファノを殺したサウロの回心を真っ先に信じました。バルナバがサウロを捕まえたと書かれてあります(27節)。バルナバはサウロが回心したという噂を真実な情報であると見抜いて、自分から接触しています。バルナバは、サウロの回心と、サウロのダマスコにおける使徒としての働きを、ペトロとヤコブに紹介します。そしてそれに添えて、エルサレムから離れた地で非ユダヤ人と共に行う教会形成を、エルサレムの教会も(視察抜きで)公に認めて両者の交流をはかるべきであると主張したに違いありません。

 バルナバの仲介を得て、サウロはキリスト者としても使徒としても認められエルサレムの家の教会に出入りすることになりました。バルナバなしに後の「異邦人の使徒パウロ」はありえません。ペトロの自宅での滞在期間は足掛け十五日間とされています(ガラテヤ1章18節)。少なくとも二回の日曜日を過ごしたことになります。ペトロの家の教会にはヨハネも主の兄弟ヤコブも通っていたと思います。その礼拝で、久しぶりに国際派による説教がなされます。おそらく何人かの説教者が立てられる礼拝で、ペトロとサウロがそれぞれの解釈をぶつけ合ったことでしょう。会衆は、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」(ガラテヤ1章23節)と、神を賛美しました。バルナバも大満足です。

 なおコリントの信徒への手紙一15章3-7節に記されている最重要の伝承を、サウロはこの十五日間で受け入れたと思います。ペトロとヤコブが伝えたのです。そしてサウロは自らの経験を8節に付け加え、教会の歴史に合流していきます。弟子に合流しようとしてエルサレムに来たサウロは、初期の目的を果たしました。そして当初思いつかなかったことに、バルナバという信頼できる先輩との交わりも与えられたのでした。

29 彼はギリシャ語話者に向かっても述べ続けまた論じ続けた。さて彼らは彼を殺すことを求め続けた。 30 さて(彼らは)知って、兄弟たちはカイサリアへと彼を下らせた。そして彼らは彼をタルソスへと送り出した。 

 サウロは十五日間の滞在中ギリシャ語を話すユダヤ人の会堂にも行きました。エルサレムには安息日礼拝をギリシャ語訳聖書を用いてギリシャ語で行う人々が住んでいました(6章9節)。キリキアのタルソス出身の留学生サウロもかつてお世話になっていた会堂です。かつてステファノに論破された、あの場所です。ペトロやヤコブからの信頼を得るためだったかもしれません。また自分の過去を清算するためだったかもしれません。ステファノと同じ行動を、ステファノを殺したサウロが行います。ギリシャ語を使うユダヤ人の会堂で、ナザレのイエスが神の子・救い主と証言するのです。そしてそれはダマスコの教会でも行っていた伝道活動でした。

 会堂での伝道活動はあまりにも危険な行為でした。ステファノを殺した勢力が今度はサウロを狙います。サドカイ派の祭司長にもサウロの転向はすぐに知られたことでしょう。ファリサイ派の師匠ラバン・ガマリエルにもです。バルナバたちはサウロをカイサリアに逃がします。そこには国際派指導者フィリポがいます(8章40節)。この三者がカイサリアにあるフィリポの家の教会で礼拝を捧げたかどうか、サウロとフィリポに直接の面識があったかどうかは不明です。バルナバを介すればその可能性はあると思います。バルナバとフィリポは元々の知り合いだからです。バルナバにとっても、フィリポやサウロとの交わりは刺激的でした。バルナバは、エルサレム教会よりも国際派の立場へ、ぐっと引き寄せられていきます。

 サウロはおそらく海路でタルソスに逃げていきます。以後、11章25節以下でバルナバがサウロの自宅を探し当てていることを考えると、この時タルソスまで彼も一緒に行っていたかもしれません。もしかするとバルナバの出身地であるキプロス島にも立ち寄っていたかもしれません。つまり第一回伝道旅行(キプロス島から小アジア半島へ)の予行演習がここでなされていたということです。「サウロと一緒ならばギリシャ語を用いてキプロス人との教会形成ができるかもしれない」と、バルナバは構想を温めます。

タルソスに帰ったサウロは家業である天幕づくりに従事します。もっぱらローマ軍のための軍用天幕作成という皮革産業が両親の生業です。だから生まれつきサウロはローマの市民権を持っていました(16章37節)。一流のファリサイ派律法学者になるように留学させたのに、息子がナザレ派に転向して帰ってきたことについて両親はがっかりしたかもしれません。しかし家を継ぐ者が帰ってきたことを喜んだかもしれません。サウロは天幕づくりの腕を磨きます。この技能が、後の伝道旅行の際に大いに生かされることになります(18章3節)。

31 実際こうして教会は全ユダヤとガリラヤとサマリアにわたり平和を持ち続けた、主(へ)の畏れでもって建てられつつ、また歩みつつ。そして聖霊の呼びかけでもって彼らは増え続けていた。

 31節は「要約的報告」と呼ばれる部分です。前回は6章7節にありました。だから6章8節から9章30節をまとめている内容です。著者ルカはガリラヤの教会について全く述べないままに、ガリラヤでも教会が増えたと語ります。教会は無名の信徒たちによる運動です。使徒言行録に書いてなくても、有名人が創設しなくても教会は建てられます。イエスが神の国運動を展開したガリラヤにも教会はどんどんと始まったと思います。かつてイエス一行を宿泊させた家がそのまま「家の教会」になっていくのです。たとえばペトロの妻の母親の家(ルカ4章38節以下)、徴税人レビの家(同5章27節以下)などです。

 今日の小さな生き方の提案は、「準備の時を生きる」という考え方のお勧めです。言い換えると、意味のない時間は無いということです。ガリラヤで神の国運動が始まったということにも意味があり、バルナバの父親がキプロス人であることも、サウロがタルソスで天幕づくり職人の家に生まれ育ったことも、フィリポがエルサレムやサマリアを追われカイサリアにたどり着いたことも、すべては意味のあることがらです。点と点とが結び合わされて線となり、小さな芽もいつか花が開くからです。振り返るとすべての時が良い準備期間に思えます。わたしたちは先行きの見通せない不安の中を生きています。コロナがあろうがなかろうがそうです。だから必要なことは振り返ることです。そして過去の良い準備の時を確認し、将来にもそのようなことが起こることを信じることです。今という時も、未来から見れば良い準備の時だからです。