パンを水に コヘレトの言葉11章1-8節 2022年3月27日礼拝説教

旧約聖書は多彩な文学を内に抱えています。コヘレトの言葉も非常に個性的な書です。著者コヘレトは「ため息混じりのつぶやき」が得意です。その投げやりな言葉からは、あまり前向きな指針が得られません。1章2節「諸々の空の空。コヘレトは言った。諸々の空の空。全ては空」(私訳)とあります。「空(へベル)」は「ため息」とも訳される言葉です。ヘベルは本日の11章8節にも登場する、コヘレト全編を貫く鍵語です。ちなみにヘベルは兄カインに殺された弟アベルと同じ綴りの単語です。アベルは名前からして儚い人物なのです。

ため息混じりのつぶやきからメッセージが生まれるのでしょうか。どのようにしてキリスト教会の正典としてコヘレトの言葉を読み解くことができるのでしょうか。一つ言えることは不平不満をつぶやく言論の自由が人間にあるということです。それは批判精神と直結します。聖書の他の箇所にも、教会という文化の中にも、つぶやきは悪であるという教えがあります。コヘレトは自由の源泉を与えています。すべての規範は思考停止を導きます。つぶやきとは規範による抑圧に小さな穴を開けることです。

1 あなたはあなたのパン(を)諸々の水の面の上に投げつけよ。なぜなら、多くの日々においてあなたはそれを見出すからだ。 2 あなたは分け前を七人のためにも八人のためにも与えよ。なぜなら、地の上に悪がいかにして起こるのかをあなたは知らないからだ。 

 パンを水に投げる行為が何を意味しているのか、多くの解釈がありえます。施しや慈善行為(食べ物としてのパンに着目)、貿易や商売(水を港と考える)、無駄な行為(パンを駄目にする行為と解して)などなど様々です。教会の説教においては、「成果が見えなくてもたゆまなく伝道をするように」という勧めのために、「パンを水に投げよ」と言われたりもしました。健徳的な教えなのか、それとも自暴自棄な主張なのか、1節の本文は判然としません。

1節が2節と一体となっていることに注目すべきです。「なぜなら」という構文が同じだからです。ということは2節の内容と1節の内容は類似するはずです。つまりパンをちぎって投げる行為は、多くの人に予め分け前を与える行為と同じです。パンを投げる行為は、将来起こるかもしれない悪や災いに備えることです。さまざまな方向に予防策を張っておけば、最悪の事態に陥らないかもしれないという知恵です。つまり自分に災いが襲った時に、周りの人が助けてくれるかもしれないということです。

予防策の前提には、わたしたちが未来を知らないという冷厳な認識があります。本日の箇所にも「知らない」「知ることがない」が繰り返されています(2・5・6節)。世界に法則性があったとしてもわたしたちはそれを知りません。だからわたしたちには世界は不確かなものにしか見えません。実際には知らないくせに知ったようなことを言うことは傲慢です。コヘレトは箴言のように世界の法則性(善と悪)を確言する態度に挑戦しています。むしろ自分が知らないということを知るべきなのです。無知の知です。知らないことを知っている人は予防策を練ることができます。今のうち何でもしておく方が謙虚ではないかということです。イエスも不正な富を用いてでも友を作っておけと助言しています(ルカ16章9節)。似たような考えが1-2節にあります。

3 もしも諸々の雲が雨(で)満たされるならばそれらは地の上に注ぐ。そしてもしも南で木が倒れるならば、またもしも北で(倒れるならば)、それが倒れる場所(に)その木はそこに存在する。 4 風を見守る者は種を蒔かない。そして雲を見る者は刈り入れない。 

 1-2節を「できることは何でもして未来に向かってあがこう」と解すると、3-4節も理解しやすくなります。3節は当たり前のことを言っています。雲が分厚くなれば雨をもたらします。風が木を倒せば、木は倒れたところに存在し続けます。繰り返される「もしも」は天候の不確かさを示す表現です。このように不確かである天候というものも、結局のところなるようにしかならないわけです。

もちろん風がどうなるのか雲がどうなるのかは昔も今も一大関心事です。天災と直結するからです。とは言え「風がどうなるかを見極めるまでは種を蒔かない」などと言うことは愚かです。「雲がどうなるかを見極めるまでは刈り入れを待とう」などと言っていては仕事になりません。4節は、不確かさを理由に何もしないことを批判しています。確かなことを知らないということは、確かなことしか行わないという態度へと仕向けがちです。コヘレトは、そのような「慎重な怠惰」を戒めています。全てを知らないから全てを知るまで何もしないということではなく、全てを知らないからこそできることから始めることが大切なのです。

5 風の道が何であるのかをあなたは知ることがないのと同様に、妊娠している者の胎における諸々の骨のように、そのように、すべてのものを造る神の業をあなたは知らない。 6 朝においてあなたの種をあなたは蒔け。そして夕方にあなたの手(を)休めるな。なぜなら、これがどこで成功するかあなたは知ることがないからだ、これかあれか、またそれら二つが一つのものとして良いかどうか。

5節には一つの言葉遊び・連想ゲームがあります。それは「風」(ルーアハ)という言葉が「霊」「息(生き)」をも意味するということです。3-4節の天気の話から、妊娠と出産の話に同じ言葉を使ってコヘレトはずらしています。そして天地創造の神を告白しています。わたしたちは気象についてもまた生命についてもよく知りません。人間の体がどのようにして組み上げられるのかを知ることはありません。生命についてわたしたちの知識は常に不確かです。21世紀の科学をもってしても根本的に生命は神秘であり謎です。しかしそのようなわたしたちにも唯一知っていることがあります。神が生命の創り主であるということです。多少の皮肉は含みながらも、コヘレトはかなり正面から創造信仰をつぶやいています。被造物に過ぎないわたしたちは神の創造の業を知りません。しかし、神が創造したということだけは知っているのです。

 6節前半は再び勤労の勧めに戻ります。明確に4節と呼応しています。風を見守り、雲を見るだけではなく、躊躇せずに朝から晩まで働きなさいというのです。未来を知らないということは、自暴自棄の生き方を後押しするのではなく、地道な日常生活を後押しすることなのです。

 6節後半は遡って1-2節と呼応しています。何がどこで成功するのかを知らないのだから、何でも今のうちにしておくことが良いと言っているからです。パンを投げることも分け前を予め与えることも、将来何かを引き起こすかもしれません。これかあれか、あるいはこれとあれとの結合か、何が幸いするかは知りません。知らないからこそ、より多くのことがらにわたしたちは挑戦できます。ちなみに七人・八人(2節)という数字を使うことと、二つ・一つ(6節)という数字を使うことも呼応しています。とにかく何でも試行錯誤を繰り返すことです。知らないからこそ、それを楽しめるのです。

 このように呼応関係に着目すると、1-6節の中心は5節にあることが分かります。1-2節が6節後半と呼応して大きく囲み、4節が6節前半と呼応して小さく囲み、同心円の中心には5節があります。それは天地創造の神への信仰です。またそれは同時に、天地創造の業を実に勤勉に行った(創世記1-2章)神への服従です。七日目に休まざるを得ないほど神は勤労しました。その姿にならってわたしたちも日々の労働・日常生活に従事するべきなのです。その際に未来を知らないということを原動力に何でも挑戦してみることが大切です。

7 そして光は快い。そして太陽を見ることは目に良い。 8 なぜならもしも多くの年(を)彼が生き、その人がすべてにおいて楽しんでも、彼は闇の日々を思い出すからだ。なぜなら、多くのことが起こるからだ。来ることはすべて空しい。

 7-8節は1-6節の結論です。天地創造の神への信仰を明らかにしたコヘレトは、「光」(7節)と「闇」(8節)を引き合いに出します。最初に創造されたものだからでしょう(創世記1章3-5節)。珍しくコヘレトは「光は快い」(7節)と明確に肯定的な言葉を発しています。読者はここで期待します。たとえば、「なぜなら神が光を第一日目に創造したからだ」などとコヘレトが理由付けすることを期待します。しかし8節は、わたしたちの期待をいつものように裏切ります。例のつぶやきです。「なぜなら、どんなに楽しんだ人でも、闇の日々を思い出すから」、また「なぜなら、多くのことが起こり、全ては空しいから」、だから少数の「光は快い」のだ(8節)とコヘレトは理由付けしています。人生は闇ばかり、だからたまに顔をのぞく「太陽を見ることは目に良い」(7節)ことなのだと言うのです。多くのことが起こるけれども、つぶさに見ればため息をつかざるをえない、闇に類する出来事の方が圧倒的に多い。それゆえに希少価値として光が闇に輝いています。

 光と闇についてのコヘレトの洞察は鋭いものがあります。真に希望となる光というものは、真っ暗闇の中でしか発見できないというからです。いやさらに正確に言うならば、何が光となるのかさえ、現在のわたしたちは知らないのでしょう。なぜならばわたしたちが光を創造した創造主ではないからです。わたしたちは希望の光を知らないままに現実の日常を生きています。それが人生というものです。

 コヘレトは夜明けがいつなのかを知らない闇の只中でこそ、地道に勤勉に生きよと言います。人生を放り投げるには及びません。いくらつぶやいても構わない。不平不満は当たり前。なぜなら人生が不条理だからです。過去においても未来においても空しいことばかりです。ため息をつきながら、何でも試みてみることです。知らないということがしないという理由にはなりません。光を見出せないということが、光が創られず存在しないということではないのです。何と何が相働いて幸いになるかをわたしたちは知らないけれども、創造主の神は知っているからです。

 今日の小さな生き方の提案は、知らないということを知ることです。それはわたしたちに謙虚さをもたらします。そしてすべてを知っている方を知ることです。その信仰はわたしたちに希望をもたらします。また未来を知らないということを、諦めの理由にせずに、挑戦の理由にすることです。怠慢の理由にせずに、勤勉の理由にすることです。

 これらの態度は不確かな世界を生きるために必要な備えです。わたしたちを取り巻く世界は不確かです。今ある規範すらぐらぐらしています。「知らない」と言い切ることが、不確かな世界を生きる知恵です。知らないことは起こることでしょう。その時にため息はついても人生を諦めないことです。世界の不確かさに同調して、自分までも不確かにならないことです。コヘレトは自分を疑っていません。その自由な精神に倣いたいと願います。