パンを裂くとき ルカによる福音書24章28-35節  2015年4月5日(復活祭)礼拝説教

聖書には信じがたい物語ばかりが書かれてあります。その中でも、イエスの復活は最大のものではないかと思います。それは二つの理由で当然です。

一つの理由は、死者の復活がわたしたちの経験則に当てはまらないというものです。誰も死んだ人のよみがえりを見たことはありません。仮に仮死状態の人が蘇生したとしても、その人もいつかは死ぬでしょう。死とはそのように冷厳な事実であり、その深刻さをすべての人は経験的に知っているので、復活を信じるということはおよそ荒唐無稽のことがらに思えてしまいます。もう一つの理由は、キリストが仮によみがえらされたとしても、そのことは自分にまったく関係がないように思えるというものです。復活について熱心に論じることそのものが時間の無駄のように感じられます。

このような現代人の問題意識から、今日の物語を読み直してみたいと思います。つまり、キリストの復活はどのような意味においてありえるのか・どのような意味でわたしたちに関係があるのかということをお話します。

ルカ24章13-35節のあらすじはこうです。イエスが十字架で処刑された金曜日から丸二日が経ちました。日曜日の日中、イエスの弟子二人が道を歩いています。クレオパと匿名の男性弟子です。エルサレムから11-12km離れたエマオという村に向かう途中のことです。二人は謎の男性と一緒に歩くことになります。その人物は自分たちの師匠のイエスだったのですが、彼らはそれに気づきません。

二人の弟子はイエスに向かって、自分たちの師匠イエスが十字架で惨めにも殺されたことを愚痴ります。自分たちの期待が大きかっただけに失望感も大きいと述べます。にもかかわらず、仲間の女性弟子の一部は「イエスがよみがえらされた」などという戯言を言うので、余計に二人は腹が立っています。「ありえない」というわけです。

ここに至って謎の人物イエスが口を開き、旧約聖書の解説を始めます。それは恐らくイザヤ書53章の解説です(使徒8章参照)。「救い主というものは苦難を受け虐殺されるのだけれどもその後によみがえらされるのだということが旧約聖書に予告されている」と、イエスは説明したのでしょう。

二人の弟子はそれでもよく分からない。しかし熱心に聞き入りました。良く分からなくても心が燃える話というものはあります。話し手の熱心さや、話術や、信頼関係などによって、聞き入ってしまうことはありえます。

こうして今日の箇所である28節になります。二人の目的地エマオに着いたのです。どちらか/双方の自宅であったかもしれません。二人はイエスが先に行くそぶりを見せたので、強引に引き止めます。それほどにイエスの聖書の解説は興味深かったのでしょう。あるいは、聖書の解説をするイエスという人物に魅力を感じたのでしょう。

自然と夕食を共にすることになりました。食事の前の祈りを、やおら謎の人物が始めます。ユダヤ人の習慣によれば普通はその家の主人が行う祈りです。この場合ならば客であるイエス以外のどちらかが行うべきものです。イエスはパンを取りながら、賛美の祈りを唱え(神を讃え/寿ぎ)、パンを裂き、それらを二人に渡しました。するとその瞬間、彼らはその謎の人物がイエスであることが分かりました。彼らが分かった瞬間、イエスの姿も消えてしまいます。残されたのは手に持ったパンのかけらだけです。

そこから振り返って二人は聖書の解説を思い出したのです。あのような形で人の心をひきつける聖書の解説はイエスしかできない、自分たちが心酔し・つき従った方がよみがえらされて、自分自身について説明してくれたのだと分かったのでした。二人はすぐさま立ち上がって(「復活した」とも訳しうる)、エルサレムに戻ります。もう一度弟子たちに合流するためです。仲間の女性の証言を疑ったことについて謝ることもしなくてはいけません。夜エマオからエルサレムへ速足で彼らは帰ります。

すると他の弟子たちもよみがえらされたイエスに出会ったというのです。復活のイエスは同時多発的にありえないかたちで多くの弟子たちに見られたということです。二人は自分たちの場合には、イエス自身による聖書の解説があり、パンを裂いたときに分かったということを、他の弟子たちに分かち合いました。

福音書著者ルカ/ルカの教会の編集者や読者は、エマオの出来事を成人男性だけで五千人の給食という出来事(9章)と最後の晩餐(22章)と結び合わせています。それは単語レベルで対応しています。9章16節には、「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え裂いて弟子たちに渡し」とあります。22章19節には、「イエスはパンを取り感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて」とあります。これらの動詞はほとんど同語/類義語です。

この文学的仕掛けは、二人の弟子がなぜイエスだと分かったのかを説明しています。いつもの仕種をイエスが食事の際にしたので――そしてイエスの一行は良く共に食事をしていたので――彼らは謎の人物の祈りとパンを裂く様子でイエスだと認識できたということです。

もう一つ重要なことがあります。この文学的仕掛けは、ルカの教会の信仰をも言い表しているということです。それは「パンを裂くときに復活のイエスに出会うことができる」という信念です。同じルカの書いた使徒言行録2章42節に、最初の教会の信者が「パンを裂くことに熱心だった」という記述があります。わたしたちの言葉で言えば、「主の晩餐式」のことです。当時は毎週の礼拝の中で実際の食事/夕食がありました。それが次第に儀式化され礼拝の中の晩餐式となり、また礼拝の外での愛餐会となったのです。礼拝の中でパンを裂き・分け合うときに復活のイエスが立ち現れる、交わりの中に主イエスがよみがえらされると、彼ら彼女らは信じていたのです。そしてそのイエスというのは、飢えている群衆を憐れんで満腹させ、殺される前の晩に自分を棄てる弟子たちともいつものように食事をし、がっかりしている二人の弟子の心を燃やし彼らに希望を与える方なのです。そのような方と会うために自分たちの再起/復活のために、熱心に信者は礼拝の中でパンを裂いていたということです。

さらにもう少し突っ込んで考えてみましょう。エマオの出来事においては、先に聖書の解説があり、その後にパン裂きがありました。このことはルカ教会や古代教会の基本的な礼拝の順番に沿っています。毎週説教があり晩餐式があるという二部仕立ては、古代教会以来礼拝の基本構造です。礼拝学の立場からはプロテスタントの一部が晩餐の頻度を下げたことは残念なことがらです。だから急進的なradical泉教会の礼拝はきわめて根本的なradicalものです。

さてこの二部仕立てのみそは、説教について良く分からなくても良いという大らかな構えを持つことにあります。晩餐がそれを補うからです。「信仰」は「理解」とは違います。論理立てて説教されても、聴衆の側には説得されない自由もありえます。また言葉/論理(ロゴス)偏重は、それを苦手とする人を排除しうることにも、注意が必要でしょう。これはバプテストの弱点です。自覚的・主体的信仰告白を重視するときに、信仰の中にある非自覚的・非主体的要素が軽視されるからです。たとえば「自然を見ていると自分を超える存在を感じる」「親がキリスト者なのでなんとなく神を信じている」などの素朴な感覚です。この人たちは難解な教理や説教を理解し自覚的に信じているのでしょうか。「理解度」を入信の条件にすると高いハードルを要求することになるわけです。知的しょうがいを持つ人や子どもたちに対しても類似の現象が起こりえます。

パン裂きは「理解度偏重」に由来する壁を超え・破るものです。イエス・キリストがよみがえらされたということを全く納得できなくても、この交わりの中でパンとぶどう酒を取ることは良いことだと感じる人もいるでしょう。歓迎されている雰囲気を感じ取っている、その人は復活のイエスと出会っているのです。キリストのからだを飲み込んだその人は、後で振り返って、あの難解な説教が指し示していた事柄(イエスの十字架と復活の意義)を呑み込むことができるでしょう。共に食べることに価値を置いている人は説教で不満を持っても晩餐で満足するものです。広くまた深い意味で、その人はキリストがよみがえらされたという教理の中心を「知っている」と言えます。がっかりしている人に希望を与えるために食事を共にしたイエス・キリストは、その人の心によみがえらされ、その人の心を燃やし、希望の火を灯しています。

エマオの出来事はルカの教会がどのような礼拝をし続け、どのようにして仲間を増やしていったのかを示唆しています。そしてそれは、来会者を歓迎する晩餐式(自由に参与できる)を行う礼拝を毎週子どもたちと行っているわたしたちの実践でもあります。その中から信仰告白・バプテスマの志願者が与えられていることに深く感謝するものです。

さてさらに文法的に考えてみましょう。30節のイエスの行為、①賛美の祈りを唱える・②パンを裂く・③渡すのうち、①②は過去の一回きりの行為、③は過去の継続的行為をあらわす時制です。そして31節の二人の行為、①目が開かれる・②イエスだと分かるは、どちらも過去の一回きりの行為です。そしてイエスがよみがえらされたと分かった瞬間にいなくなってしまうということ、これらが暗示することは現代人にとっても意味のあることだと思います。

真理/極意/技術/努力目標というものは捉えたと思った瞬間に自分の手から離れるものだということです。人間は本当に謙虚でないといけません。教会員になったからと言って他人よりも上に昇るものでもありません。信仰というものはどこまで行っても目標を目指して走る道のりだからです。見えたと思ったら見えなくなるのです。一回見えたのだからずっと見え続けると言い張るのは罪なのです。復活のイエスは刹那・刹那で垣間見えるだけの存在です。

わたしたちに求められているのは絶えず渡され続けている、裂かれたパンを瞬間的決断で取ること、その瞬間にじわっと温かくなる感覚を持つこと、そしてそれを毎週続けていくことだけなのです。今週得た感動がその後永遠に続くというものではありません。ここには、繰り返しはありますが、積み重ねはありません。ここに教育と宗教の違いもあります。教育は積み重ねによって上達していくことを目指します。宗教は繰り返し刹那の感動を経験することであり、上達は不要なのです。

今日の小さな生き方の提案は「言葉にしにくい小さな感動」を大切にしようということです。それが復活のキリストだからです。何でも言葉化したがるのをやめましょう。文字は人を殺すからです。霊は人を生かします。霊とは見えない信頼関係の網目です。その網目の交わりで起こる不規則な出来事がわたしたちに刹那の感動を与えます。キリストは礼拝をするわたしたちの間に、この意味で今もよみがえらされています。たとえば小さい子どもが不意に笑いかける、その時わたしたちは感動します。この最も小さな者は復活のキリストです。そこで日常の疲れが吹き飛ぶ瞬間・再起の瞬間があります。形は変わるでしょうけれども、そのような礼拝の中のユーモラスな出来事を毎週喜びましょう。それがここに集まるわたしたち全てに関わるキリストの復活の意義なのです。