ビルハとジルパ 創世記30章1-13節 2019年5月19日礼拝説教

家父長制と一夫多妻制のもと、女性たちの苦難は続きます。家長であるヤコブのために男の子を生むことができるか、そうでないかによって、女性たちはランク付けされていました。視覚障害を持つレアは、その意味では「下位の女性」でしたけれども、男の子を四人立て続けに生んだという意味では、ラケルを逆転します。二人の女性は世の中の仕組みによって争い合うように仕向けられています。さらに社会的弱者を巻き込むというのが本日の箇所です。

「そしてラケルは、彼女がヤコブのために生まなかったことを見た。そしてラケルは彼女の姉妹を妬んだ。そして彼女はヤコブに向かって言った。『あなたは私のために息子たちを与えよ。そして、もしそうでないならば私は死ぬ』」(1節)。ここでラケルが「私のために」と言っていることは重要です。ラケルは薄らと真の問題に気づいています。ヤコブのために生むことに価値があるという考え方・習慣が真の問題です。その習慣がラケルを苦しめています。「自分は死ぬ」とまでがっかりしています。この動詞は進行形なので、「今も死んでいる」という含みです。だから、ヤコブがラケルのために男の子を与えるべきなのです。ラケルの対等・平等を求める訴えに一理があります。

なおラケルは最初から複数の息子を望んでいます。それはすでにレアが四人の息子を生んでいるからです。スポーツに例えれば4対0とレアに先行されています。1点ではなく2点以上返したい場面です。このことは、ラケルがビルハに二人生ませることや、その後のヨセフの名付けに関係します(24節)。

ヤコブは怒ります。当然の平等や対等を求める声は、すでに特権を持っている者にとっては生意気な意見に聞こえます。「大人しく弱々しく保護される立場に甘んじていれば守ってあげるのに」という、強者の思い上がりが男性家長のヤコブにあります。庇護主義paternalismと言います。

「そしてヤコブの鼻がラケルにおいて燃えた。そして彼は言った。『わたしが神の代わりか。彼が、あなたから胎の実を妨げているのだ』」(2節)。ある意味でヤコブは正しいことを言っています。いのちを与えるか与えないかは神の領域です。また、彼自身には出産について責任はありません。ヤコブの問題は妻に対して突発的・感情的に怒ることです。それは相手を侮っていなくては取れない態度です。駅員・店員に食ってかかるクレーマーのように。

ラケルはひるみません。「見よ、私の召使・ビルハ。彼女のところに入れ。そうすれば彼女は私の膝の上に生む。そうすれば私もまた彼女によって建てる」(3節)。「私もまた彼女によって建てる」というラケルの発言は、サラの発言と単語レベルで一致しています(16章2節)。家父長制のもと長男を生むということが、家を建てる(存続させる)ということに直結しているので、このような表現が慣用句となっているのでしょう。「膝の上」は長男の特権です。最初の子だけが次の子が生まれるまでそれを独占できるからです。ラケルの望みは、ラケルのためにラケルの長男とみなされる子どもが生まれることです。

ラケルは、レアが長男ルベンを生んだことで家を建てたことを認めています。そこで、「私もまた建てる」と言っているのでしょう。この発言は、ルベンのみがヤコブの財産を相続することに反対もしています。複雑な経緯でレアとラケルはヤコブと結婚しています。二人が姉妹であることと、ほぼ同時に結婚していることが特徴的です。このため両者の間には、「正妻と側女」という関係がありません。いわば二人はどちらも対等の「正妻」なのです。

これは今までの物語にはなかった現象です。アブラハムの三人の妻(サラ、ハガル、ケトラ)にははっきり序列がありました。レアとラケルは対等です。だから、レアとラケルの関係は、サラとハガルの関係とは異なります。サラとハガルの組み合わせは、ラケルとビルハにこそよく重なり合います。どちらも不妊の主人が「正妻」であり、彼女の召使が「側女」とさせられるからです。

先週はレアがエバに似ていると申し上げました。ラケルはヤコブの祖母サラに似ています。さらに不妊の女性という意味で言えば、サラだけではなく叔母リベカに似ています。そしてサムエルの母ハンナや、洗礼者ヨハネの母エリサベトを遥か遠くに指し示す人です。ラケルも偉大な族長の一人です。

「そして彼女は彼にビルハ・彼女の侍女を妻として与えた。そして彼女のところにヤコブは入った」(4節)。ラケルはヤコブの祖母サラに倣って、自分の召使に夫との結婚を強要します。読者はハガルの追放物語を知っています。読者には予測が立ちます。ビルハはすぐに子どもを生み、しばらくしてからラケルも子どもを生むのではないかという予測。そしてラケルが自分の子どもを生んだ途端に、ビルハたちは追い出されるのではないかと予測します。この緊張は、ラケルがヨセフを生むまで続きます。予測通りに事は進むのでしょうか。

「そしてビルハは妊娠した。そして彼女はヤコブのために息子を生んだ。そしてラケルは言った。『神は私を裁いた。そしてまた彼は私の声を聞いた。そして彼は私のために息子を与えた』。それゆえに彼女は彼の名前をダンと呼んだ」(5-6節)。物語の語り手は、ビルハが家長ヤコブのために5人目の息子を生んだと理解しています。しかしラケルは自分自身の長男が生まれたとみなしています。ビルハではなく、ラケルが名前を付けています。この行為は姉レアが行っていたことです。レアを妬むラケルはレアと同じことをしたがります。

「そしてさらに彼女は妊娠した。そしてビルハ・ラケルの侍女は生んだ、二番目の息子をヤコブのために。そしてラケルは言った。『神の相撲。私の姉妹と私は取っ組み合った。私にもできた』。そして彼女は彼の名前をナフタリと呼んだ」(8節)。またもラケルはビルハの息子に名前を付けます。語り手は再び冷静に、「ヤコブのために」と繰り返しています。ラケルは、姉とがっぷり四つの大相撲をしている気持ちです。それは命の主である神との取っ組み合いでもあります。ラケルの目にはビルハはいません。ラケルはレアと競い合い争っているつもりです。「私にもできた」という感想は、レアに対する妬みから出発していることと対応しています。

これでラケルのチームが2点を返して、4対2となりました。ラケルが出産を団体競技のようにとらえている姿勢は、レアに影響します。そもそもレアは達観していました。レアは出産を通して「女性が生む機械」としてのみ考えられていることから、抜け出ました。レアは、生むことから距離を保って立ち止まったのでした。誰が誰を生もうがすべては「ヤコブのために」なされることそのものが問題の本質です。むしろ夫婦が向き合って生きることの方が優先されるべきです。

レアは、夫ヤコブが等しくレアの天幕とラケルの天幕を訪れることを了承しています。私たちの感覚からすると奇妙ですが、一夫多妻制が当たり前の人々にとっては、ヤコブは二人の妻を平等に尊重している「良い夫」と考えられていたことでしょう。しかしラケルがビルハをも妻とすることは、この均衡を崩します。レアは、「子どもが与えられなくてもラケルはヤコブと夫婦として向き合えば良い」と考えています。出産数を競うために、ビルハの天幕にヤコブを向かわせることは、レアにとっては的外れな解決です。

ラケルが、自分に対する敵愾心をむき出しにした名付けをして挑発し続けるのを見て、とうとうレアはこの団体競技に参戦します。「神が裁いた」「神の相撲」と、神をしきりに持ち出すことは、自分が神の側にいるということの主張です。それはつまり、レアの側に神がいないと言っています。レアに四人の息子たちを与えたのは神ではなかったかのようです。レアはチームを作り、ラケルのチームと競い合います。

「そしてレアは、彼女が生むことから立ち止まったことを見た。そして彼女はジルパ・彼女の侍女を取った。そして彼女(レア)は彼女(ジルパ)をヤコブに妻として与えた。そしてジルパ・レアの侍女はヤコブのために息子を生んだ。そしてレアは言った。『幸運のうちに』。そして彼女は彼の名前をガドと呼んだ。そしてジルパ・レアの侍女は二番目の息子をヤコブのために生んだ。そしてレアは言った。『私の幸いのうちに。というのも娘たちは私を幸いと認めたから』。そして彼女は彼の名前をアシェルと呼んだ」(9-13節)。

レアの行為は意趣返しです。ラケルがしたことと全く同じことをレアはやり返します。自分の侍女をヤコブに妻として与え、出産したら名付けをするのです。レアのチームが2点をあげて6対2となります。しかしこのゲームは勝者が最初から決まっています。レアのチームでもなくラケルのチームでもなく、ヤコブのための出産だからです。虚しく無駄な取っ組み合いです。

ジルパもまたビルハと同じように沈黙を強いられています。本日の箇所全体で最も虐げられているのはビルハとジルパです。自分の意見を奪われ、姉妹の代理戦争を不本意にもさせられているからです。そのために予めラバンがそれぞれの娘の召使としてジルパとビルハを派遣したかのようです(29章24・29節)。物語全体の流れがビルハとジルパを尊重していません。だからわたしたちはビルハとジルパの名誉を回復させなければならないのです。

この観点からビルハとジルパの子孫にどのような人物がいたのかを確認します。ダン部族、ナフタリ部族、アシェル部族は、イスラエルの最北端に位置します。ガド部族だけは少し南でヨルダン川の東側です。いずれもエルサレムから見て辺境です。レアの息子たちと異なって、これらの四つの部族からは世襲の有名人が出ません。しかし、強烈な個性を持つ人物が単発で登場します。辺境はそのような特徴を持ちます。すべて革新的なことは辺境から始まります。

たとえば、ダン部族の士師サムソンです(士師記13-16章)。もっぱら自分のことしか考えないわがままな風雲児です。ナフタリ部族の男性士師バラクは女性預言者デボラに仕え、カナン人に対する奇跡的勝利を導きました(同4-5章)。アシェル部族出身と言われているのはアンナという預言者です(ルカ2章36節)。ガド部族は士師エフタ(娼婦の息子)も個性的な英雄ですが(士師記11-12章)、何と言っても預言者エリヤが際立っています。風来坊ですが、王権に一人でも立ち向い、唯一神教を復興させたモーセに次ぐ宗教者です。

これらのジルパとビルハの子どもたちもナザレのイエスを指し示すメシア的人物です。アロンやダビデのような世襲の「主流」だけではありません。いわば突発的「傍流」もイスラエルの歴史の大切な担い手です。なぜなら、イエスもナフタリの地であるガリラヤという辺境出身者、「マリアの子」だからです。過ちだらけの人間の歴史からも、また人の目には軽んじられているところからも神は良いものを生み出します。ハガルの神は、ジルパとビルハの神です。

今日の小さな生き方の提案は、真の課題を見抜くことです。不毛な分断をさせられないようにしなくてはいけません。そのためには沈黙を強いられている人々に着目をすることです。その上で、神の導く歴史に無駄がないことを信じましょう。人間の仕出かすマイナスからも、神はプラスを生み出すことができます。十字架と復活の神を信じましょう。ビルハとジルパを記念し、ガリラヤから「最も良い方」が登場したことを覚えて感謝をいたしましょう。