ファラオの前に 創世記41章37-46節 2020年2月2日礼拝説教

37 かの言葉はファラオの目に、また全ての彼の奴隷たちの目の中で良かった。 38 そしてファラオは彼の奴隷たちに言った。「我々は見つけうるだろうか、彼のような、神々の霊が彼の中に(ある)男性を」。 39 そしてファラオはヨセフに向かって言った。「神があなたにこの全てを知らせた後には、あなたのような明敏で知恵のある者はいない。 40 あなたは私の家の上になる。そしてあなたの口の上に、私の民は接吻する。王座だけ、あなたよりも私は偉大になる」。 41 そしてファラオはヨセフに向かって言った。「あなたは見よ。私はあなたをエジプトの全地の上に与えた」。 

 ヨセフの夢解釈と新しい提案は、ファラオと王宮にいたすべての家臣たちの気に入るものとなりました。そこには、ヨセフのかつての主人ポティファルも献酌官たちの長もいます。その他にも閣僚級の人物がずらりと並んでいます。ファラオだけではなくて、すべての政治家・行政官・将軍たちにとって説得力のある解釈と提案だったのです。聞いた言葉が「目の中で良い」というのは面白い表現です。「耳の中で良い」と言わないからです。目は口ほどに物を言う。相手を認める時に、自分の目が輝いたり、温かい眼差しになったりします。

 ファラオの悪夢をめぐって王宮内は悪い雰囲気でした。「この夢は悪いことが起こる前触れではないか」という予感を、誰もが感じているのですが、誰も言い出せないかたちで、もやもやとしていました。そのもやもやした闇の中に、すかっとした解決策が一条の光のように投げ込まれたのです。確かにひどいことが起こるけれども、こうすれば大丈夫だと、ヨセフは言い切りました。「生意気な奴だ」「このヘブライ人め」と誰も言いません。ファラオの王宮は、比較的公平な場所です。優れている者を率直に優れていると認める場所です。

 ファラオは多神教信仰の持ち主です。エジプトの神話には太陽神ラーを頂点とする多くの神々が登場します。ヘブライ語エロヒームは、「神」とも「神々」とも訳せますが、ファラオの発言なのでここは複数の神々でしょう。「エジプトの神々の霊もそしてヘブライ人の神(主:ヤハウェ)も、この男性の中にある。だから良い解釈と提案ができた。このような人物を我々は見つけることができない」。その場のみんなの感想を、ファラオはうまくまとめています。

「明敏で知恵のある男性を、あなたは見よ」(33節)とヨセフはファラオに言いました。これは、「あなたは私を見よ。飢饉対応担当大臣にふさわしい私を」という自己推薦の言葉でした。ファラオは目の前のヨセフをしっかりと見て、評価して認めました。そして「飢饉対応担当大臣」ではなく、もっと上の職務にヨセフを任命します。ファラオの言葉「あなたは見よ」(41節)は、33節に対する応答です。ファラオは「あなたを総理大臣兼飢饉対応担当大臣にする私も見よ」と返しているのです。

「そしてファラオはヨセフに向かって言った」は三回繰り返されています(39・41・44節)。厳粛な任命、真摯な委託がここにあります。ファラオは改まった形で、ヨセフを「総理大臣兼飢饉対応担当大臣」に任命します。おそらくそのような職務は今までエジプトになかったと思います。ファラオは、自分の持っていた強大な権力を、大幅にヨセフに分けて与えました。それは王座以外の実務の全てです。ヨセフの提案する飢饉対応省をつくるためには、それだけの権力を与えなければいけないとファラオは考えました。

「君臨すれども統治せず」。ファラオは立憲君主のような立場に自分を退かせました。王座に座り続けたのですから、神の化身ではあり続けたと思います。44節「私はファラオ」という言葉にも、神の顕現・神の自己紹介の要素が見られます(出エジプト記20章2節)。この時のエジプトは、日本の象徴天皇制と似た制度になりました。

ファラオに代わってヨセフが「王の家」(王宮)の長となります。閣議の招集をこれからはヨセフが行います。つまりポティファルや献酌官、調理官、書記、将軍たちの上司になるということです。飢饉対応担当大臣ならば横並びの同僚ですが、それ以上の者としてヨセフは任命されました。ポティファルはちょっと嬉しかったのではないかと推測します。彼もヨセフの能力を高く買って、死刑に処さずに生き延びさせていたからです。もしヨセフに怒りを持っていたら、ポティファルはこの場でヨセフを任用することに反対したはずです。

王宮だけではありません。王の家の上に立つことは、同時にエジプト中の民の上に立つことでもあります。エジプトの全土がファラオのものであり、エジプト人はファラオの家に属する「ファラオの民」だからです。「ヨセフの口に接吻する」という一文は直訳で意味が通りにくいので、「ヨセフの言葉のゆえに(地面に)接吻する」という意味だろうと解釈し、「命に従う」と新共同訳等は意訳しています。しかし、接吻の挨拶をするという意味でも悪くない。ファラオは民に「ヨセフに対する敬愛」を義務づけしたと考えます。

42 そしてファラオは彼の手の上から彼の指輪を外し、それをヨセフの手の上に与え、亜麻布の服を彼に着せ、彼の首の上に金の鎖を置き、 43 彼を彼に属する第二位の馬車に乗せた。そして彼らは彼の面前で「アブレク」と叫んだ。そして彼をエジプトの全地の上に与える。 44 そしてファラオはヨセフに向かって言った。「私はファラオ。そしてあなたなしには、エジプトの全地において誰もその手とその足を挙げることはない」。 

 総理大臣の就任式(任命式)と、就任パレードが行われます。ファラオは彼しか持っていない実印つきの指輪を外し、それをヨセフに授けます。どこの会社にも押印規定がありますが、印鑑を押して決裁をするという権限は非常に大きいものです。ヨセフが行うこと一切が、ファラオの意思によるということになるからです。そしてヨセフは夢の解釈者という服を脱ぎ、上等な服・総理大臣の服に着替えさせられます。衣服の変遷は、ヨセフ物語の縦糸です。父のつくった晴れ着、奴隷の服、執事の服、囚人の服、行政官の服、そして総理大臣の服です。服の変遷に、ヨセフの浮き沈みが激しい人生が映し出されています。

 ヨセフは金のネックレスを首にかけられ、第二位の戦車(馬車)に乗せられます。ファラオの軍隊が就任式に用いられている理由は、ヨセフが世界最強のエジプト軍の司令官にもなったということにあります。昔も今も、就任式は軍事パレード的な要素を持っています。

 43節「アブレク」は一回しか登場しないので意味を特定しにくい謎の言葉です。さらに異読があるので解釈の可能性は無数にあります。「彼らは(新共同訳「人々は」)呼んだ」を、ギリシャ語訳・サマリア五書・シリア語訳が「彼は呼んだ」としています。「彼は」だとすれば、ファラオか、それとも先触れ役か。アブレクは名詞(肩書き)なのか、動詞なのか。「私は跪く」「私が跪かせる」「気をつけ」「跪け」「拝め」「通せ」「あなたの命令は私の喜び」「あなたの雄牛(エレミヤ46章15節)」さまざまな仮説があります。今日は、ファラオがヨセフの面前で、「アブレク(私が跪く)」と叫んだとしておきます。そしてみんなの前でファラオがヨセフに跪いたのではないかと推測します。それがエジプト全地の上にヨセフが立ったことを象徴するからです。

 そのようにファラオは自分の手足を低いところに下げながら、「あなたなしにはエジプト全地において誰も手足を挙げることはできない」というメッセージを体でも示しました。これは国家儀礼です。ここに参列する人は、現実の世界に現われ出た神話を見るのです。そして陶酔させられます。現人神ファラオがヘブライ人ヨセフに跪くときに、エジプト軍はヨセフにカリスマを感じ、ヨセフに忠誠を誓います。ヨセフは、君主のもつ有り難みを身にまといます。

45 そしてファラオはヨセフの名前をツェファナト・パネアと呼び、彼のためにオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻に与えた。そしてヨセフはエジプトの地の上に出た。 46 そしてヨセフは三十歳、彼がファラオ、エジプトの王の前に立った時に。そしてヨセフはファラオの面前から出、エジプトの全地の中を通った。

ツェファナト・パネアは、エジプト語で「彼は生きていると神は語る」という意味なのだそうです。ファラオはヨセフの波乱万丈の人生をまとめたつもりなのでしょう。この言葉は、ヨセフの父親ヤコブに聞かせてあげたい内容です。ヤコブは「ヨセフを死んだ」と思い込んでいますが、神はこの物語を通じて常に「ヨセフは生きている」と語っています。

 オンは太陽神ラーを崇拝する町として栄えていました。そこに祭司ポティ・フェラという人物がいました。おそらくファラオのお気に入りです。ポティ・フェラの意味は「太陽神ラーが与えた男」。おそらく世襲で代々続く祭司の家系、有力な貴族です。彼の娘にアセナトがいます。アセナトの意味は、「女神ネイトのもの」です。多神教世界の中の敬虔な名前です。

 ヨセフは祭司・貴族のエジプト人女性と結婚します。モーセの境遇とヨセフは似ています。モーセの結婚したツィポラも、ミディアン人祭司エトロの娘でした。エジプトへの避難の立役者ヨセフと、エジプトからの脱出の立役者モーセには通じるものがあります。モーセの人生も、浮き沈みが激しいものでした。彼らは寄留者として社会を生き延びた人の模範例です。選択肢の狭い環境の中で、結婚という人生の一大事も決まっていきます。王家とも結びついている祭司の一族に連なることは、政教一致した社会にあっては出世・成功の結果です。ヘブライ人奴隷が、エジプト人貴族となった。Egyptian Dreamがヨセフの身に実現します。この時ヨセフは30歳。13年間の苦労を経て、底辺から頂点まで上り詰めました。

 新共同訳は「ヨセフの威光が・・・及んだ」(45節)と訳していますが、原文は同じ動詞を二回繰り返して「ヨセフは出た」と語ります(45・46節)。それはファラオに任用された後、ヨセフが張り切って任命権者の前から踵を返してさっそうと出て行く様子を示しています。王宮からエジプト全土へと出て行くヨセフ。今までポティファルの家、「円形の家」(監獄)と、もっぱら屋内が彼の居場所でした。これからはファラオの家・エジプト全土が彼の仕事場です。ヨセフはエジプト全土を渡り(アバル)、麦の耕地と収穫量を調査し、事務所と倉庫の建設予定地を把握します。正当に評価された時、人は全力で働くものです。渡り者ヘブライ人(イブリーム)奴隷が、エジプトの祭司・貴族・総理大臣となって、初めて見る肥沃なエジプトの地を第二位の馬車に乗って巡ります。30歳は最も力の出る年ごろです。

 今日の小さな生き方の提案は、正当な評価をすることと、正当な評価に応えることです。どんな人にも正当な評価が必要です。そして正当に評価された人は、全力でその務めを果たそうとするものです。しゃくであっても隣人を正当に認めるということ、あるいは誰かに認められたら応えるということ、この相互行為によって人生は楽しくなります。信仰の世界においては、神がわたしたちを常に正当に評価しています。「あなたは極めて良い」。この評価に応えることは楽しい。またこの神を正当に評価し、神をほめたたえる生き方(礼拝者として生きること)こそが楽しい人生です。