マナクラブのお話 マタイによる福音書4章12-17節

今日は荒野の誘惑を終えたイエスがガリラヤで活動を始めたという箇所です。新年の仕事初めにふさわしい物語です。

イエスの活動が始まったのは「ヨハネが捕らえられた後」(12節)とされています。これはマルコ・マタイ・ルカの三福音書の共通認識です。このヨハネはイエスに洗礼を授けた人物・師匠筋の人です。ですから、ここでは二つのことを言いたいのでしょう。一つは、イエスはヨハネの後継者だということ、もう一つは両者は決してライバルではないということです。ただしヨハネ福音書は両者の競合を赤裸々に記します。福音書というイエスの伝記が四つあることはわたしたちに様々なことを考えさせ「豊かな読み方」を提供します。

イエスの活動の中心はガリラヤ地方です。ガリラヤは福音書の中で最も重要な地域名です。ベツレヘムは一回だけですが、ガリラヤは何度も登場します。そして「復活のイエスが先にガリラヤへ行く」ということを、マルコ・マタイは重視しています。これらは追々取り上げます。

ガリラヤ地方は「十二部族割り当て」(民数記・ヨシュア記)によれば、ゼブルン部族とナフタリ部族の所有する土地です。「失われた十部族」という言葉を聞いた人がいるかも知れません。紀元前721年にアッシリア帝国が北の十部族からなる北イスラエル王国を滅ぼします。その時強制移住させられた人々を「失われた十部族」と呼びます。「日ユ同祖論」によれば、日本人はユダヤ人のうちの「失われた十部族」の子孫なのだそうです。眉唾ものですので相手にする必要はありません。

紀元前8世紀以降、旧北王国領は放置され様々な民族が住み自由に結婚し「サマリア人」が形成されました。そして紀元前2世紀頃に再びガリラヤ地方だけがユダヤに編入されたのです。イエスの時代のガリラヤ地方には二つの特徴があります。ユダヤ地方(中央)によって差別されていた地域だったということ、そして、新規参入したがゆえにかえって「愛国心」が強い、同化政策の結果ユダヤ民族主義が煽られた面があるということです。ガリラヤ地方には地方政党である「熱心党」がありました。ローマ帝国からの武力独立を目指すグループです。ちなみにイエスの弟子の中にも熱心党員がいました。

イエスはあえてガリラヤ地方の町々で活動を行います。その意図は、地方分権ということや地域主権ということもあります。もっとも大きな理由は、被差別地域であるということでしょう。今イエスが日本に居たら、おそらく沖縄や福島で活動を始めることでしょう。そして「暗闇に住む民」にとっての「大きな光」となることでしょう(16節)。

さて、15節から16節は、旧約聖書のイザヤ書8:23後半から9:1までの引用です。キリスト教会が用いている聖書は二部仕立てです。前半の四分の三が旧約、後半の四分の一が新約です。カトリックや正教会は「旧約外典」も用いますが。

おおざっぱにキリスト教は、旧約聖書を新約聖書の予告編とみなしてきました。専門用語で「預言と成就/実現の関係」と言います。旧約聖書に書かれていることが、新約聖書に実現したと考える、たとえばイザヤ7:14の赤ん坊をイエス・キリストだと当てはめるという読み方です。マタイはこのような預言と実現を最も多く記した福音書記者です。

もちろんこのような読み方を元々のイザヤ書を記した預言者イザヤは知りません。イザヤは紀元前8世紀の人です。北イスラエル王国の滅亡を視野に入れつつ、この部分を記したのでしょう。アッシリアに蹂躙された領土の名誉の回復がいつかなされることを夢見ていたのでしょう。

預言と実現という読み方には留意点があります。元々の旧約聖書の使信を捻じ曲げるおそれがあることや、ユダヤ教徒を尊重しない態度を身につけてしまうことなどです。旧約聖書はユダヤ教・キリスト教・イスラム教にとっての共通経典・共有財産です。けんかの種にしないで、仲良くなるために旧約聖書を用いるべきです。

もしガリラヤを被差別地域と読むのならば、それはイザヤも納得し、現代のわたしたちにも普遍的に当てはまる真理となるでしょう。

イエスの宣教は、「悔い改めよ、天の国は近づいた」という言葉でした(17節)。この言葉はすでにヨハネが語っています(3:2)。ここにもイエスがヨハネの後継者であることが強調されています。

「悔い改め」(ギリシャ語メタノイア)をヘブライ語まで遡るとシューブという単語です。この言葉は、心の状態だけではなく行為を指します。日本語の「悔い改め」は「後悔の念」「懺悔」などの方向を持つ訳語ですが、実際の行動までを含む翻訳の工夫が必要です。そういうわけでしばしば「立ち帰り」とも訳されます。生き方の方向転換をするという意味です。

生き方を変える理由は天の国がすぐ近くにある、イエスの周りに実現しているからです。ヨハネは権力者たち・差別者たち・抑圧者たちに生き方の変換を迫りました(3:7-8)。その時の天の国のイメージは、検察官・裁判官である神の周りにいる傍聴人というものです。同じ単語を使いながらイエスはイメージを180度変えました。

イエスはガリラヤの民の弁護士となりました。常に被疑者・被告人とされ差別され貶められ搾取されていた人々(「罪人」と言います)の間に暮らしたのです。絶望の中に生きる人の希望となって、人々の弁護活動を始めました。そして独自の交わりをその人たちと作り出していったのでした。「さあ光が指している。希望を持つ生き方に変換しよう。あなたたちは悪くない。神はあなたたちを愛している。だからアーメンと言って、愛を受け入れるだけでよい。むりに模範的ユダヤ人にならなくてよい。そして感謝に基づいて互いに仕え合おう。ローマの武力による平和ではなく、互いの尊重による平和を作ろう」。

いわゆるEmpowerment(力づけること)です。被差別者自身が自信を奪われている場合があります。その生き方を変え、尊厳を取り戻すこと、ここにイエスの使信の新しさと現代性があります。