マリア、香油を注ぐ ヨハネによる福音書12章1ー8節 2023年1月29日礼拝説教(村上千代協力牧師)

さて、イエスは過越祭の6日前にベタニアに来られた。イエスが死人の中から起こされたラザロのいたところである。

そこで人びとは、彼のために食事を用意した。そして、マルタは給仕していた。そして、ラザロは、彼と一緒に席についている人たちの一人であった。

ベタニアは、エルサレムから約3キロ離れた所に位置し、マルタ、マリア、ラザロというきょうだいが住む村です(11:1)。そして、イエスがラザロを起こした(よみがえらせた)出来事が起こったところです(11:38)。

イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くはイエスを信じた、と書かれています(11:45)。もちろん信じない人もいたわけですが、イエスが死んだラザロをよみがえらせた出来事を苦々しく思っていた祭司長たちやファリサイ派の人たちは、イエスを危険人物とみなし、殺すことを企てます。イエスは、自分の死が迫っていることを感じ、ユダヤ教三大祭の最初の祭りである過越祭でエルサレムへ上る6日前に、愛する友や弟子たちと食事をするために、ベタニアに来られました。

イエスを迎えた人びとは、イエスのために食事を用意します。この食事という言葉(デイプノン)は、ヨハネによる福音書(以下 ヨハネ)では、ベタニアでのこの食事と、エルサレムでの「最後の晩餐」(13章)の2箇所に使われています。ベタニアでの食事は、死を目前にしたイエスにとって、愛する友であり弟子である人たちとの大切な食事であることが分かります。

この食事の場面で、マルタは給仕し、ラザロはイエスの側で他の人たちと一緒に座っています。ルカによる福音書(以下 ルカ)に記されたマルタとマリアの物語を思い出します(ルカ10:38~42)。ルカでは、マルタはイエスの側でじっと話を聞いているマリアへの不満をイエスに訴えます。しかしヨハネでは、ラザロに対するマルタの不満の言葉はありません。マリアは女で、ラザロは男だからでしょうか。皆さんはどう考えますでしょうか。

さて、2節の「給仕する」、すなわち「仕える」(ディオコネオー)という言葉は、この箇所と、26節にのみ使われている言葉です。

「誰かが私に仕えたければ、私について来なさい。私のいるところ、そこにこそ私の仕える者もいることになる。誰かが私に仕えるなら、父はその人を尊重するであろう。」(12:26、岩波訳、下線筆者)

ディオコネオー(給仕する、仕える)は、本当の弟子性が語られる時にのみ使われている言葉だといいます。

今日の聖書箇所で、マルタはイエスの弟子として仕える者であることが述べられていますが、ヨハネには、マルタのもう一つの役割が1章27節で語られています。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。つまり信仰告白をするマルタです。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書では、男性のペトロを通して信仰告白がなされています。これは決定的な違いです。マルタの信仰告白は、彼女自身の告白であったと思いますが、ヨハネ共同体が、女性であるマルタを通して共同体の信仰を告白しているのがとても興味深いところです。

聖書は家父長制の時代に書かれ、キリスト教も家父長制を引きずっていると言えます。しかし、イエスにおいては、性別や、人種、民族、社会的地位などによる差別はなく、イエスの生涯において、また初代教会において、女性たちが様々な役割、重要な役割を果たしていたことが福音書で伝えられています。ヨハネが、マルタという女性を、共同体の信仰を立証し代弁する者としての役割で述べていることは、イエスの福音理解に立つヨハネ共同体において、女性たちが実際にイエスの弟子として正当に用いられていたことの表れではないかと考えられます。ヨハネは、家父長制による男性優位の社会において、光が当てられないところに光を当てていると考えてもよいのではないでしょうか。

 

さて、マリアが純粋で高価なナルドの香油1リトラを取って、イエスの足に注いだ。そして、自分の髪の毛でその足をぬぐった。そして、家は香油の香りで満たされた。

しかし、彼の弟子たちの一人、まさに彼を裏切ろうとしている者、イスカリオテのユダが言う。

「なぜ、この香油は300デナリオンで売られ、貧しい人びとに施されなかったのか。」

しかし、彼は貧しい人びとのためにこのことを言ったのではなく、盗人であり、金入れを預かっていながら、その中身をくすねていたからである。

ところが、イエスは言った。「彼女をそのままにしておきなさい。わたしの葬りの日のためにそれを取っておいたことになるために。

あなたがたのもとには、いつも貧しい人びとがいる。しかし、わたしはいつもいるわけではないのだから。」

 

7節からはマリアの話になります。

1リトラは約326g、1デナリオンはローマの銀貨で、1日の賃金に当たる額です。ユダが言う300デナリオンで売るということは、すなわち300日分の賃金、約10ヵ月分の賃金にあたりますから、ナルドの香油がどれほど高価なものか分かります。こんにちでもナルドの香油は高価です。ネットで見ると、15mlで8,000円というのがありました。もう少し安いのや、もっと高いのがあると思いますが、例えば8,000円で計算すると1リトラ分で17万円くらいになり、ナルドの香油は昔も今も高価であることに変わりありません。

10数年前に何度かネパールの女性自立支援施設を訪問したことがあります。その施設で働く女性たちの手作りの石鹸にナルドの香油が入ったのがあり、施設を訪問した時は必ず購入していました。残念ながら、どんな香りだったか、もうはっきりとはおぼえていませんが、良い香りであったことは確かです。他の石鹸に比べて少し高めだったのは、ナルドの香油を使っていたからでしょう。

マリアは、イエスの死が迫っていることを直感したのか、言葉では言い表せない思いを行為で表すために、自分が大切に取っておいたナルドの香油を、周りの人びとの目を気にせずにイエスの足に注いだのでした。注いだ香油は1リトラというたっぷりの量で、家中にその香りが充満していたことは想像に難くありません。

油を注ぐ行為は、そもそも祭司や王などの任職に行われた行為であり、慣習的なイメージでは男性預言者の働きでした。そして油は頭に注ぐことになっていました。今日の物語では、マリアという女性が、しかもイエスの頭にではなく、足に香油を注いだのです。マタイとルカに、この物語と似ている物語がありますが、香油はイエスの頭に注がれていてヨハネとは違います。当時の慣習のイメージでは、女性の油注ぎは普通ではないことです。マリアの行為はとても大胆な行為でありました。さらに、ヨハネでは香油は頭から足に移行しており、ここにヨハネの執筆者の意図が見られるのではないかと考えます。

油注ぎの、頭から足への移行について、聖書学者の山口里子さんは、「預言者的な面を格下げする試みがあったことを暗示しているのかもしれない」と述べていますが、どうなのでしょうか。確かなことは分かりません。13章の最後の晩餐において、メシア(油注がれた方、救い主、キリスト)ご自身が、弟子性のモデルとして、弟子たちの足を洗うという行為を行います。そのこととマリアの油注ぎをつなげて見ていきたいと思います。マリアという女性による非慣習的な行為が、弟子の足を洗うイエスの行為の先取りとなったのか、あるいは、マリアという弟子が、イエスの模範となったのか。そのような可能性も考えられます。が、イエスの宣教活動そのものが当時の慣習から逸脱しており、イエスは、伝統、慣習、古い習わしよりも、神に愛されてつくられた一人ひとりのいのちを優先されたことを福音書は証ししています。ヨハネは、そのようなイエスこそがメシアであり、非父権的、非慣習的な行為を行うイエスこそがメシアであるということを、ここで表しているのではないでしょうか。イエスの愛する友であり、弟子であるマルタやマリアを通して、弟子としての在り方や互いに愛し合い仕え合うことをここで表しているのだと言えるでしょう。

さて、足への塗油は、一般に近親女性による埋葬準備がイメージされることであり、ナルドの香油のような香り高い油を足に用いるのは桁外れのぜいたくを代表するものであったようです。5節から8節は、イエスとイスカリオテのユダ(以下 ユダ)との対話になります。マリアがナルドの香油をイエスの足に注いだのを見たユダは、「なぜ、この香油は300デナリオンで売られ、貧しい人びとに施されなかったのか」と言いました。申命記15:11で「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」と主は言われます。しかし5節のユダの言葉は、貧しい人のことを思ってではなく、自分自身のことを思っての言い分でした。それに対しイエスは「彼女をそのままにしておきなさい。葬りの日のためにそれを取っておいたことになるために」と言われます。ラビたちによれば、「葬りは憐れみの業、施しは正義の業であって、前者が優先されるべき」だそうですが、イエスはそのことではなく、マリアが自らの決断で行っていることを、あなたがとやかく言うことではないと言っておられるのでしょう。イエスを裏切ろうとしているユダは、正義によって人を裁くのです。わたしの中にもそのような姿が無いとは言えません。しかしイエスは、そのようなユダとも食事を共にされるのです。そのことは、イエスを裏切ったり、正義で人を裁いてしまうわたしとも、イエスは食事を共にしてくださるということでありますから感謝です。

今日は、聖書から、マルタとマリアを通して、イエスは、性別や慣習を超えて、それぞれの賜物で弟子としての奉仕のわざへと招いておられることを聴きました。また、ユダの姿と重なるわたしが、主の食卓へと招かれているという恵みもです。わたしたちは、毎週の礼拝で聖書の言葉に聴き、主の晩餐での恵みにあずかっています。礼拝を通してイエス・キリストの十字架の死を思い起こし、復活の力で生き直すことがゆるされていることに感謝して、今週もイエスに助けていただきながら歩んでまいりたいと願います。