メシアとの出会い ヨハネによる福音書1章35-42節 2013年5月12日礼拝説教

一昨日、幼稚園の「親子遠足」という行事があり、砧公園に行きました。非常に広い草原で野外礼拝をいたしました。空の鳥・野の花を見なさいというイエスの言葉からお話をしました(マタイ6章)。いのちの創り主である神は、一羽の雀にさえも目を留めています。動植物は神の愛を知っています。見守られていることを知って精一杯の表現をそれぞれにしています。与えられたいのちを輝かせています。そのようなあり方は、「永遠のいのちを生きる」ことです。わたしたちは鳥をじっと見ることによって、神と鳥の間に確かにある愛の関係を知ることができます。そしてじっと見ることによって、神と鳥の関係の中へと、わたしたちも入ることができるのです。

さてマタイ6章では「見る」という意味で、「エンブレポー」というギリシャ語が用いられています。その含意は、「中まで見通す」です。実は、このエンブレポーが、今日の聖句に二回も用いられています。それは36節の「見つめて」と、42節の「見つめて」です。36節は、洗礼者ヨハネがイエスを見つめています。42節では、イエスがシモンを見つめています。今日は、この見つめることを手掛かりにして、メシアとの出会いというものを考えます。

 

洗礼者ヨハネは、ベタニアという場所でメシアであるイエスの登場を予告していました(19-28節)。その翌日に、イエス自身がバプテスマを受けるために自分のところに来たので、ヨハネは「この人が神の小羊・神の子だ」と不特定多数の人の前で紹介しました(29-34節)。その翌日が今日の場面です。ヨハネは、今度は自分の二人の弟子に、「この人が神の小羊(≒メシア)だ」と直接紹介したのです(35-36節)。それは、二人の弟子がイエスの弟子になることを促したということです。それはヨハネがイエスを見つめた(エンブレポー)ことによるものでした。

ヨハネが見たものは何だったのでしょうか。おそらくそれは、空の鳥を見ることに似ています。わたしたちが鳥をじっと見ると、神と鳥との愛の関係を知るように、ヨハネはイエスをじっと見て、神とイエスとの愛の関係を知ったのでしょう。彼の発言は、常に神とイエスとの関係を重視しています。たとえば、「神の子」であったり、「神の小羊」であったり、神とイエスの関係を重んじています。神の懐にいて共に食卓を囲んでいる神の子の姿を、ヨハネはじっと見て見抜いたのです。

具体的には、イエスの飾らない人となりを見たのでしょう。神に愛されているということを知っている人は、自然体で過ごせます。空の鳥のように自由に生きる人です。鳥は何で自分が鳥なのかを悩むことはありません。また、他の動物との比較の中で競争することも、驕ることも、落ち込むこともしません。神が鳥のように創られたことに感謝して自分らしく生きることで応答しているのです。

聖霊によって生まれたイエスもまさにそうです。福音書のイエスは自ら「自分は神の子だ」と言いません。むしろ「人の子(=ただの人)」と自分のことを呼びます。他人との比較の中で、より神の子らしさを競い合ったり、神の子らしく振る舞えたことを誇ったり、逆に神の子らしくふるまえないときに落ち込んだりしません。イエスは神に愛されていることを自然に身に付けています。そしてそのように創られた神に感謝しながら、イエスは自分らしさを貫いて生き抜いた人です。その姿をじっと見た人は、「あなたは神の子です」「本当にこの人は神の子だった」「神の子イエス、わたしに構わないでくれ」と言って、イエスが神の子であることを知るのです。

このことは聖書の読み方への示唆にもなります。イエスをじっと見るようにして聖書を読むと、神との関係・愛し愛される関係の良さが分かってくるということです。また、このことは聖霊のバプテスマを受けると、わたしたちがイエスのように力みのない神の子になれる、自然体で生き抜けるということも意味します。

 

さて、ヨハネはイエスに自分の二人の弟子を託しました。イエスは二人の弟子に「何を求めているのか」という問いをします。それに対して二人は、イエスの滞在している場所を聞きます(38節)。この二人が求めていることは、イエスと共にいたいということです。そして事実、イエスはその求めを黙認し、二人と一緒に宿泊します(39節、直訳「留まる」。15章など多数用例あり)。この三人の一泊の交わりが、教会の原型であると福音書は語ります。三という数字は三位一体を暗示しています。教会はイエスを中心とする交わりです。二・三人いればそこが教会となる、それはバプテスト教会の伝統的考え方です。そして最初の教会にとってはキリストとの親しい交わり(語り合い、共食、共同の宿泊)が主な活動なのです。これが礼拝そのものでした。

イエスと人格的な交わりに入ること、三位一体の交わりを地上に提供すること、それが地上で教会をかたちづくることの意義です。交わりが人を生かします。イエスのような自然体の人々の集まりが、課題を負っているひとりひとりを癒します。ぶどうの木であるイエスにつながり・留まる枝であるときに、わたしたちは課題があるけれどもなお人生を肯定することができます。ありのままの自分をじっと見守るイエスと仲間に出会うことにより、わたしたちは生きることができます。

ヨハネ福音書は他の福音書と異なり、シモン・ペトロという人の権威を落とします。一番弟子ではなく三番目の弟子とされているからです(40-42節)。また、十二弟子をイエスが選んだという記事を省きます。十二弟子の中でも有名でない者が活躍します。ここでのアンデレ、フィリポ、トマスなどです。さらに、十二弟子以外の弟子たちも活躍します。特に女性の弟子たちがもっとも活躍しているのはヨハネ福音書です。ベタニア村のマルタとマリア、マグダラのマリアなどです。ありのままの個人に注目し権威主義を取り除く意思が、この福音書にはあります。それが、教会の交わりであるという確信から来ているのでしょう。そのような交わりが、個人を尊重し、多様性を認め合い、すべての人がその人らしく生きるようになること、神の子性を取り戻すことにつながります。救い主・メシア、すなわち油を注がれて神に任命された者と出会うということはそういうことです(41節)。この交わりに来て入ること、そうすれば分かる(直訳「見る」)のです(39節)。

アンデレは自分の兄であるシモンをこの交わりに誘うために連れて行きました(42節)。イエスは、シモンをじっと見つめます。この見つめ方は、ヨハネからイエスへの視線と異なります。神と神の子の関係を見たのではなく、イエスとペトロの関係を見る視線です。具体的には、どこまでも愛し続けるという見つめ方です。

「見つめて」(エンブレポー)はルカ福音書22章61節にも用いられています(新約聖書156頁)。この場面は、一番弟子とされているシモン・ペトロが、イエスを裏切るところです。ペトロは「イエスに従って牢獄までも行く、ともに殺されても構わない」と、みんなの前で豪語しました。しかし、実際にイエスが逮捕されると逃げました。また、死刑判決を受けた晩に、「お前もナザレのイエスの仲間だろう」と問われると、三回も否定したのです。「わたしはその人を知らない」「仲間ではない」「何のことを言っているのか分からない」と言って、ペトロはイエスとの交わりを否定しました。一緒に十字架刑に遭うことが怖かったからです。最悪の裏切りです。

先程の箇所の直前60節は、三度目の否定の場面です。そして、61節はそのペトロの方を振り向いてじっと見つめた(エンブレポー)イエスの姿が書いてあります。イエスはペトロが、交わりを否定することを知っていました。さかのぼって、最初の出会いのときからペトロが裏切ることを知っていました。なぜなら、全く同じ視線を向けているからです。裏切ると分かっていて弟子としたのです。ペトロという人物は、浮き沈みの激しい人格の持ち主です。思ったことをすぐに行い、吉と出ればその素直さが評価され、凶と出ればその短絡差が批判される、そのような人物です。イエスは彼の短所も長所もすべて含んでじっと見られました。最初からこの視線は変わりません。丸ごとのシモン・ペトロを丸ごと肯定していたのです。そして愛称をつけます。アラム語でケファ、意味は「岩」です。この岩はギリシャ語でペトラという単語です。これを男性の名前に直すとペトロとなります。

この名付けはイエスの預言です。象徴行為、行為による預言、ある行動にメッセージを込めることです。おそらくそれは、神の岩のように揺るがない愛を示すということでしょう。ペトロ自身は不安定な人物だからです。にもかかわらず、神の愛は安定していつもペトロに対して変わらないのです。ペトロを見る愛の眼差しは決して揺るぎません。ペトロ自身は主イエスから目をそらすことがあるかもしれません。しかしイエスは常にじっと見ておられます。ペトロは不誠実なことを起こすかもしれません。しかし主イエスは常に誠実であられます。

十字架後の落ち込むペトロに、復活の主は現れ、無条件に赦してくださいました。復活の永遠の命を与え、聖霊を与えてくださいました。その赦しがペトロに十字架の意味を教えました。十字架は逆転装置であるという意味です。自分の裏切りがイエスを十字架に追いやったけれども、そのような卑劣な罪を帳消しにし、卑劣な生き方を改めるために、イエスは十字架で犠牲の死を死んだという逆転です。

十字架は暴力による加害の罪を深く知らせます。ペトロもわたしたちも、人を裏切り関係を否定し踏み台にすることがあります。この卑劣な生き方を悔い改めさせるのが十字架と復活です。真の悔い改めは、信頼されること、愛されること、期待され続けること、温かくじっと見つめられ続けることから生まれます。死刑制度の問題の一つは、真に悔い改めた人に生き直す機会を与えないことにあります。

信実という言葉があります。頼に値する誠さを意味する言葉です。イエスは信実な方です。この信実に触れると人は変わります。メシアとの出会いというのは、そういうものです。自分がじっと見つめられると嬉しくなります。岩の上にしっかり立つ感覚を得ます。そして隣人への目が変わります。不安定な偏見や、斜に構えた視線ではなくなります。

教会というのは最初の発生時からお幸せな団体なのでしょう。「裏切るよりは裏切られる方がましだ」と考えて、何度も同じ過ちを繰り返す隣人にも、なお信頼を寄せ続ける、そういう愚直な集団なのでしょう。なぜならイエスというメシアがそのような仕方でわたしたちを救ってくださったからです。メシアとの出会いに感謝して、メシアとの出会いが再現できる交わりをかたちづくり、そこへと隣人を招きましょう。