モーセの律法の書 ネヘミヤ記8章1-9節 2022年1月9日礼拝説教

新共同訳聖書続編エズラ記(ギリシア語)9章37節以降は、本日の箇所の並行箇所です。エズラ記(ギリシア語)は、この箇所をヘブライ語正典エズラ記の末尾に直結させ、エズラがエルサレムに到着した時の出来事としています。とすると前458年となります。総督ネヘミヤの到着は前445年です(ネヘミヤ記2章、「アルタクセルクセス王の第二十年」)。この箇所が元々エズラ記にあったのかどうか等学説は色々とありますが、現在ある正典は、未完成のトーラーを持って先に到着したエズラが13年かけてトーラーをエルサレムで完成させたように読めます。そしてネヘミヤが城壁を修復し終えた時期に、完成したトーラーのお披露目も行ったと読めます(ただし12章と重複)。文脈を重視して、本日の箇所を前445年の出来事というように考えておきます。

ネヘミヤはエズラの後に王宮で出世したユダヤ人です。王の献酌官(マシュケー:毒味役)にまで上り詰めています(1章11節。なお創世記40章「給仕役」もマシュケー)。法務事務次官の高官位を投げうってエルサレムに行ったエズラに影響を受けて、彼は公職を一時休んで(2章6節)、ユダヤの民が安全に暮らせるように城壁修復のための旅立ちをします。ここには一つの模範があります。神に従う方法には、エズラのように生業を棄てる道もありえますが、ネヘミヤのように生業を休む道もあるということです。「良いサマリア人」のように、仕事を休みもしないで隙間の時間に隣人愛を示す場合もあります。

1 そして全ての民は一人の人のように水の門の面前にある広場に向かって集まって、彼らは書記官エズラに、ヤハウェがイスラエルを規律した、モーセのトーラーの書を持ってくるように言った。 2 そして祭司エズラはそのトーラーを会衆、男性から女性まで、また全て聞くことを理解する者の面前に持ってきた、第七月に属する一日に。 3 そして彼はその中に(あるものを)、水の門の面前にある広場の面前で早朝からその日の正午まで朗読した、男性たちと女性たちと理解する者たちとに向き合って。そして全ての民の耳はそのトーラーの書に向かって(いた)。 4 書記官エズラは彼らが作った木の櫓の上に語るために立ち、彼の傍らにマティトヤとシェマとアナヤとウリヤとヒルキヤとマアセヤが右側に、そして彼の左側にペダヤとミシャエルとマルキヤとハシュムとハシュバダナとゼカルヤとメシュラムが立った。 5 そしてエズラは書を全ての民の眼のために開いた。なぜなら彼が全ての民よりも上となったからだ。そして彼が開いた時全ての民は立った。 

ネヘミヤ記の文脈に従えば、後から来たネヘミヤも加わって「全ての民は一人の人のように」集まります(1節)。それが礼拝をするために集められた「会衆」(2節)の有り様です。「一人の人のよう」でありながら、会衆は「全ての民」(1・3・5・6・9節)によって構成されています。「男性から女性まで、また全て聞くことを理解する者」(2・3節)が全ての民の内訳です。男性と女性という二分法ではなく、男性から女性までという言い方には、それ以外の性の人をも含めうる度量があります。そして、男性・女性・理解する者という三種類ではなく、むしろ「理解する者」が全てを含んでいると考えられます。性の種類に焦点があるのではなく、どんな性であれ「理解する者」が会衆になりえます。新共同訳の「年齢に達した」は訳し過ぎです。年齢も関係がありません。むしろ「理解」ということがらに焦点が当たっています。

分かるということは嬉しいことです。これは礼拝の最低条件なのだと思います。特にエズラが打ち立てた「トーラーを正典とする宗教」においては、神の言葉の朗読が基本要素ですから、聖書の内容が分かる嬉しさが最重要です。神の言葉を読む行為/聞く行為、神の言葉によって人々の人生に呼びかける行為、それらによって今わたしに語りかけられた神の意思を理解する嬉しさ。ここに礼拝の基本があります。聖書だけではなく、当然成文祈祷や讃美歌の歌詞の「文語」の課題と重なります。子ども、日本語の苦手な人、認知に課題を持つ人、動物たちと共に礼拝をする時に、主宰する教会には、全ての民に「分かる嬉しさ」を提供することが最低限の責任となります。会衆の理解は会衆の義務・負担ではなく、主宰者側の責任です。誰でもお越しくださいと招かれて参集した会衆には誰でも、「分かる嬉しさを得る権利」があります。

主宰する側である書記官・祭司エズラがトーラーを朗読する時に、会衆と「向き合って(ネゲド)」(3節)いたとあります。この言葉は最初の夫婦であるアダムとエバに対して用いられている言葉です(創世記2章18節「彼に向き合う」)。トーラーを朗読するエズラは「分かる嬉しさ」を提供すべき会衆(「理解する者たち」)と向き合っています。厳密には、エズラと13人の者たちが礼拝を主宰する者として、会衆の前に立っています(4節)。個人エズラではなく、祭司集団が会衆と向き合っています。エズラにとってはありがたい同労者です。

この礼拝においては、「早朝から正午まで」(3節)という長時間にわたって全ての人が立っています(4・5・9節)。「立つ(アマド)」は、象徴的な言い方で礼拝の本質を教えていると思います。礼拝は「神の前に立つ行為」です。エズラたちは会衆と向き合って立っていますが、エズラたちをも含む会衆全体が真に向き合って立っている相手は神です。自分の全てをさらけ出して、ただの人となって神の前に立つ。そこに悔い改めもあるでしょう、感謝もあるでしょう、嘆きや願いも訴えもあるでしょう。それらもろもろの心・思い・考えをすべて引っさげて、礼拝においてわたしたちは正直に神の前に立ちます。アブラハムが神の前に立ち、一対一で対峙してソドムの町の救いを堂々と願ったように(創世記18章)。これは主宰する側とそうではない側という区分を考えない、一人の人のような全会衆を含めた礼拝の本質です。

6 そしてエズラはヤハウェ・大いなる神を祝福し、全ての民は彼らが彼らの手を上げている間、「アーメン、アーメン」と応え、彼らは拝跪し、彼らはヤハウェのために顔を地面へとひれ伏した。 7 そしてイェシュアとバニとシェレブヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、ヨザバド、ハナン、ペラヤ、すなわちレビ人たちはトーラーのために民を理解させ続けている。そして民は彼らの立つ場の上に(いる)。 8 そして彼らは神のトーラーにおける書の中に(あるものを)翻訳して朗読した。そして洞察を置き、彼らは朗読を理解した。 9 そして総督であるネヘミヤと祭司・書記官エズラと民を理解させたレビ人たちは全ての民に言った。「この日こそはヤハウェ・あなたたちの神のために聖い。あなたたちは嘆くな。そしてあなたたちは泣くな」。なぜならば全ての民は、彼らがトーラーの言葉を聞いた時、泣き続けているからだ。

 神の前に立つことが本質である一方で、礼拝は神にひれ伏す行為でもあります(6節)。これも礼拝の本質です。「ひれ伏す」(シャーハー)は自分自身を折り曲げる行為を意味します。自分自身を極端に小さく低くする姿勢です。イエスの譬え話の中の徴税人が胸を打ちながら神に「罪人の私をお赦しください」と祈ったような姿が参考になります(ルカ18章13節)。またイスラム教徒たちの礼拝の姿勢が、礼拝の本質を現在に至るまでよく伝えています。ひれ伏すということが、正典の朗読以外の礼拝の基本要素につながります。それが賛美です。エズラは神を祝福し民は手を上げて「アーメン、アーメン」と応えます。

大いなる神への祝福・ほめたたえ・賛美(6節)。それは自らを小さくし、神のみを大きくする行為です。ヘブライ語は人間が神を祝福する時も、神が人間を祝福する時も同じ動詞バラクを用います。日本語では不自然なので、神をほめたたえる/賛美すると翻訳します。賛美は礼拝の基本要素です。狭い意味の賛美歌を歌うという意味だけではありません。祈りの言葉など、わたしたちが礼拝で用いる言葉に、神への祝福・ほめたたえ・賛美が含まれているか、にじみ出ているかが問題です。そして、それを聞く全体が「アーメン、アーメン」と応えているかが大切です。

米国の黒人教会で礼拝を共にしたことが何回かあります。聖書朗読の時に1節読むごとに誰かが「Amen」や「Say it again」「Good」などと応答している場面に出くわし驚きました。讃美歌も手を上げて神を賛美しています。みな嬉しそうです。正に本日の箇所を実践している礼拝だと思います。礼拝は神を祝い、神を喜ぶことです(10節も参照)。礼拝はしゃちこばった「厳粛なる国家儀礼」のようなものではありません。

さて7節に13人のレビ人たちが登場します。この人々の名前はアラム語系なので、彼らはエズラの朗読をアラム語へと翻訳していたと考えられています。ただし、8節「翻訳して」の直訳は「区分されつつ」ですから、区切りながら朗読したのかもしれません。もし翻訳だとすると、この13人は、会衆の中に入って同時通訳のようなことをしていたということです。先ほど申し上げた「分かる嬉しさ」の提供です(12節も参照)。この行為こそ、説教の原型です。日本語話者がヘブライ語正典を理解しないのと同様、当時の会衆もアラム語しか分からなかったわけです。説教とは翻訳/解釈interpretationです。13人が全く同じようにアラム語に翻訳できるわけがありません。バラバラでも良いし、それがまさに良いことなのです。文言が固定されている正典は、自由自在に解釈されることを望んでいます。それこそイエスが旧約聖書に対して行ったことです。「トーラーのために民を理解させ続けている」(7節)という謎めいた表現は、民を理解させることが正典そのものの要求であることを示しています。目の前の会衆の状況に合わせて、レビ人たちはトーラーを自由に翻訳します。エズラも13人を同時に監督できません。個別独特の解釈が一人ひとりの日常生活を揺さぶったり導いたりするのです。

まとめます。正典宗教の礼拝の構成員は全ての民です。礼拝主宰者の心得は会衆全員に「分かる嬉しさ」を提供することです。礼拝において会衆は神の前に立ち、神にひれ伏します。礼拝の基本要素は、①正典の朗読、②賛美、③正典の解釈(、④食べること:10・12節参照)です。この礼拝の基調に「喜び」があります。主を賛美する喜び、主の意思が分かる喜びです。

今日の小さな生き方の提案は、聖書に基づく礼拝を形づくろうという呼びかけです。そしてそれはわたしたちの行っている現在の礼拝を、今後もこの方向で発展させていくということです。ルビをふった週報、こどもさんびかの多用、子ども説教は、「分かる嬉しさ」を提供する責任に基づきます。「全ての民」や「一人の人のように」に基づき、礼拝の最初から最後まで誰も排除しないということが、子ども・動物を分けないことや主の晩餐の自由陪餐につながっています。堅苦しくない明るい雰囲気は、主を喜ぶことに基いています。この自由に基づいて一早くオンライン礼拝を実施できたのだと思います。会衆賛美が5曲と多いことは、主を祝福することが重要だからです。原典をおさえつつも、自由奔放な翻訳や解釈を喜ぶことは、レビ人たちのアラム語翻訳/解釈に基づいています。しかし課題も残っています。「主の祈り」の文語訳使用はその一つです。「水(マイーム)の門の面前にある広場」(1・3節)になりたいと願います。そして多くの人をこの泉に連なる喜びへと招きましょう。