ヤコブとルベン 創世記42章29-38節 2020年3月8日礼拝説教

29 そして彼らはヤコブ彼らの父のもとにカナンの地へと来、彼のために彼らに起こったこと全てを告げた。曰く、 30 「その男性・その地の主人がわたしたちに厳しく語り、わたしたちをその地を偵察している者たちとして与え、 31 私たちは彼に向かって言った。『私たちは正直だ。私たちは偵察ではない。 32 私たちは十二人の兄弟。私たちの父の息子たち。一人は、彼は存在しない。そして最も小さい者はいま私たちの父と共にカナンの地に(いる)』。 33 そして私たちに向かってその男性・その地の主人は言った。『このことによって私はあなたたちが正直であることを知る。あなたたちの兄弟一人(を)あなたたちは私と一緒に残せ。そしてあなたたちの家の飢餓をあなたたちは取れ。そしてあなたたちは行け。 34 あなたたちは、最も小さいあなたたちの兄弟を私のもとに連れて来い。そうすればあなたたちが偵察ではないということを私は知る。なぜならあなたたちが正直だからだ。あなたたちの兄弟を私はあなたたちのために与える。そしてその地であなたたちは商売できる』」。 

九人の兄弟はカナンの地、父と母、弟ベニヤミンと妹たち、それぞれの妻たちや子どもたちが待つ家に帰り着きました。真っ先に父ヤコブに報告をしなくてはいけません。父ヤコブは首を長くして待っていました。思ったより長い旅になったように感じます。まさか、エジプトの奥深く首都まで連れて行かれ、三日間拘束されていたとは思っていません。そして、十人で行ったはずが九人で帰ってきています。シメオンだけがいません。一体この旅で息子たちに何があったのでしょうか。

九人の息子たちは要領よく状況をヤコブに報告しました。エジプトの総理大臣から冤罪を着せられたこと、見張りの場所に引き渡されて拘束されたこと、冤罪を晴らす条件がベニヤミンを連れてもう一度エジプトに行くこととなったこと、それまでシメオンが人質とされたこと、今も彼だけが拘束されているのでここに居ないことをヤコブに告げました。

彼らはヤコブを説得しようとしています。そのために九人で旅の道すがら話し合っていたようです。どうすれば交渉上手の父親ヤコブを説得することができるのか。そこで総理大臣が言っていない言葉を付け加えます。「そしてその地(エジプト)であなたたちは商売ができる」(34節)。「商売する」(サハル)という言葉は、ヤコブとその子どもたちの物語の中では鍵語です。34章10節で、ハモルとシケムという父子がヤコブとの交渉の時に用いています。ディナと結婚させてくれれば、シケムの町で商売ができるようになるというのです。この言葉にヤコブは弱いのです。さらに、兄弟たちは同じ言葉を使ってヨセフをエジプトに売りました(37章28節)。みなヤコブの息子たち、同じ性質を共有しています。息子たちはヤコブを説得するために、ありもしない総理大臣との約束をちらつかせます。

その一方で彼らが言っていないことがあります。自分たちがヨセフに暴行を加えた上でエジプトに売り飛ばしたことに対する悔い改めです。それも当然です。彼らは父ヤコブに嘘を言っていたからです。「ヨセフは獣に咬み殺された可能性が高い」(37章32節)。ヤコブはその通りに信じきっていました(同33節)。この点で信実になれるのかどうかがヤコブへの報告のポイントです。今まで隠していた過去の犯罪を洗いざらい父にぶちまけて、「そのような行為に及んだ理由は父の愛情が欲しかったからだ」と、九人はシメオンの分まで語らなくてはいけません。九人たちの言い分に迫力が足りない。彼らはここでヨセフ、シメオン、ベニヤミンという固有名詞を避けています。曖昧で責任をとろうとしない言い方です。説得されきっていないヤコブは判断を保留します。

35 そして彼らが彼らの袋を空にしている時に以下のことが起こった。すなわち見よ、各人その銀の包がその袋の中に(あった)。そして彼らと彼らの父は彼らの銀の包を見、恐れ、 36 彼らの父ヤコブは彼らに向かって言った。「あなたたちは私を子無しにした。ヨセフ、彼は存在しない。そしてシメオン、彼は存在しない。そしてベニヤミンをあなたたちは取る。これらすべてが私の上に臨んだ」。 

 話し合いを小休止して、買い取った穀物を各家族に分けようとした折のことです。なんと全て大きさの異なる袋の中に、それぞれの家族が支払った分と同額の銀が入っていたというのです。この措置は、一人にたまたま起こったことではなく(28節参照)、九人全員に起こった不思議です。「国家的陰謀に巻き込まれているのではないか。偵察であるという冤罪を強化するための総理大臣官邸の陰謀なのではないか。エジプト軍はこれを理由にカナンの地を侵略するのではないか」と、ヤコブも九人の兄弟たちも恐怖を感じました。もうシメオンは殺されているかもしれません。

 この不思議な出来事がヤコブの態度を固めました。

「交渉の相手は何でもできる強大な権力を持っている。これ以上関わっても、さらに何をされるのかが分からない。当座の穀物は思った以上に手に入った。しかも生活費となる銀も戻ってきた。この食料が尽きるまでに飢饉が収まれば良い。ヨセフをあきらめたように、シメオンはあきらめる。エジプト軍が来たら、難民となって家畜を連れてアラムに逃げるしかない。そのためには九人がここに居た方が良い。ましてやベニヤミンをエジプトに連れて行くことは危険だ。これらすべては族長である私の上に起こった出来事だ。だから族長の責任としてわたしがこれを判断し処理する。頼りないあなたたちの判断に従っていくと、一人ずつ子どもがいなくなるだけだ。ベニヤミンを無事に連れ帰られるとは思えない」。

37 そしてルベンが彼の父に向かって言った。曰く、「わたしの二人の息子をあなたは死なせなさい。もしわたしが彼をあなたのもとに連れて来ないならば」。 38 そして彼は言った。「私の息子はあなたたちと共に下らないように。なぜなら彼の兄弟は死んだからだ。そして彼、彼だけが残され続けている。そしてあなたたちがその中を行く道で災難が彼に遭い、あなたたちは私の白髪を悲嘆の中で陰府へと下らせる」。

 すると長男のルベンが父ヤコブに反論をします。ここへ来てルベンが存在感を示しています(22節参照)。彼の強みは、かつてヨセフを弁護したことがあるということです。周りから人権侵害を受けている人を弁護することは、自分もその不利益を被るかもしれないので、とても勇気が要る行為です。ただし一度その勇気ある行動を取ることができた人は、何回も同じようなことができるようになります。最初の一度だけハードルが高い。弁護をしたけれどもヨセフを救い出せなかった罪責をルベンは神の前で悔い改めています。罪責とは、罪を犯した責任を認めることであり、二度と同じ罪を犯さないで生きる責任です。ルベンは、ヨセフを守りきれなかった罪を、ベニヤミンを守りきるという責任で報いようとしています。前へと向かう誠実な謝罪と責任ある賠償です。それが共同体全体を前へと向かわせる力となります。

 ルベンはあえて「彼」(37節)と言い、ヨセフを思い浮かべながらベニヤミンを必ず連れ戻すと誓います。さもなければ、ルベンの二人の息子を死なせて良いというのです。このルベンの言葉を「二倍の賠償をささげる覚悟なのだ」とヤコブは理解したことでしょう。しかしルベン以外の八人は、「ヨセフとベニヤミン二人との等価賠償なのだ」と理解したことでしょう。八人はルベンの言葉を聞きながら、自分の良心を問われていきます。ルベンは、他の八人がルベンよりも酷いことをヨセフにしたことを、父ヤコブに言いません。言っても良さそうな場面です。自分だけ少し良い顔をしながら、あの時起こった加害の事実を一部始終報告しても悪くない流れです。かつてルベンはそのような行為をする人物でした(37章22節)。しかし、ルベンはその他の兄弟たちをもある程度かばっているのです。その優しさが(評価が分かれるでしょうが)、八人の弟たちの心に突き刺さります。

ここで読者は初めてルベンに二人の息子がいたことを知らされます(37節)。ユダにも二人(38章27-30節)、ヨセフにも二人(41章50-52節)、ルベンにも二人です。この三人は「長男(=族長)」です。後の歴史の重要順に、二人息子がいたことが報告されています。ユダの長男(ただし胎内では次男)ペレツを始祖とするユダ部族は南ユダ王国を率います。ダビデの王朝です。ヨセフの次男エフライムを始祖とするエフライム部族は北イスラエル王国を率います。ルベン部族は、ヨルダン川東側にとどまり存在感が薄くなります。

存在感の薄さを示唆するように、ルベンの申し出は却下されます。もちろんヤコブは過去のルベンの罪をも覚えています(35章22節)。ルベンの言うことを素直にヤコブは聞きません。およそ反論にならない反論でルベンの提案を却下するのです。その際にヤコブは重大な本音を漏らします。この言葉は九人の息子たちを深く傷つけるものでした。

ヤコブはベニヤミンだけを「私の息子」と呼びました(38節)。「彼(ベニヤミン)の兄弟」ヨセフがいなくなった今、自分にとってはベニヤミンだけが私の息子だと、ベニヤミン以外の息子たちの前で言いのけたのです。

「ラケルが生んだ二人の息子だけが、父にとっては息子であり続ける。だからシメオンはベニヤミンよりも命として軽いとみなされる。今生命の危機に直面しているシメオンよりも、将来危険に遭うかも知れないベニヤミンを心配する。依怙贔屓だ。だから一族全体を考えた次期族長ルベンの真に迫った提案も却下される。父は一族全体を考えていないくせに族長面をして威張っている」。

九人の息子たちの中に嘆きが生まれます。この暴君にさえも従わざるをえないという不本意感。特にお互いに成長してきた道の途上にあるので、愚かな父の壁・家父長制の壁に突き当たり、がっかりします。しかし父の言うことも事実が一部あります。ヨセフがいなくなったことは自分たちのせいであるからです。この罪責告白がないために、彼らは父を説得することに失敗しています。しかし彼らはベニヤミンをこの件で迫害しません。やはり成長しているのです。

ヤコブという人はまったく本質的に変わっていません。自分にとって利得になるかどうかが彼の行動基準です。そのためには有り余る才能を用いる、実に有能なる世俗の人です。そういう人をも神は用います。物語は、成長し続ける息子たちと、まったく成長しようとしない父親を対比しながら描いています。この後も息子たちの対話努力、「歪んだレンズを持っている父にさえも納得を調達するためのあの手この手」が続いていくからです。

今日の小さな生き方の提案は異見を交わしながら霊的な成長を続けることです。エジプトの総理大臣は十人の兄弟たちを成長させる対話をしました。彼らを良心にたどり着かせ、特にルベンの二つの発言を引き出したのはヨセフです。ヤコブもまた兄弟たちの前にそびえ立つ頑固な対話相手です。自分の言い分に簡単に従う相手は、自分を成長させてくれません。異見・異論がわたしたちを霊的に成長させます。神の前で恥ずかしくない言葉や態度が何かを吟味させてくれるからです。「あなたの論敵をこそ愛せ」。民主社会と教会に必要です。