ヤコブの死 創世記49章22-33節 2020年7月26日礼拝説教

22 ヨセフは雌牛の息子。泉に接する雌牛の息子。娘たちは壁に接して進んだ。 23 そして彼らは彼を苦しめ――つまり彼らは争った――、矢の所有者たちは彼を憎み、 24 彼の弓は常の状態に留まり、彼の両手の両腕はすばやく、彼の両手からヤコブの勇者が(出た)。そこから羊飼いが、イスラエルの石が(出た)。 25 あなたの父の神から――そして彼はあなたを助ける――、またシャダイと共に――そして彼はあなたを祝福する――諸天の諸祝福(が)上より(ある)。伏せ続けている深淵の諸祝福(が)下に(ある)。乳房と子宮の諸祝福(がある)。 26 あなたの父の諸祝福はわたしを産ませた者たちの諸祝福を凌駕した、永遠の丘の境まで。彼女たちはヨセフの頭になる。また彼の兄弟たちのナジル人の冠に(なる)。

 ヨセフについては「諸祝福」という言葉が五回も用いられています。その他の兄弟たちに対してはなかった現象です。22-26節という5節分の長さは、ユダについての長い説明に匹敵しています(8-12節という5節分)。分量が示すことは、ヤコブの遺言の中心はユダとヨセフを褒めることにあるということです。二人の子孫が、南北両王国の中心となったからです。 

ヨセフに対する祝福は構文も単語もきわめて難解です。日本語の諸翻訳も大いに揺れています。ヨセフの二人の息子に対する祝福はすでに扱いました(48章)。その時にマナセ部族・エフライム部族のその後の歴史についても説明したので、本日は難解な本文そのものの読み解きに集中したいと思います。

 22節「豊かである」〔porat〕という分詞には文法上問題があります。形容される名詞「息子」と性が合致していません。母音記号のみが異なる「雌牛」〔parot〕という名詞と訳す方が良いでしょう(フランシスコ会訳、JPS等)。ナフタリを雌鹿に喩えたヤコブは、続けてヨセフを雌牛の息子に喩えます。ファラオの夢に出てきた雌牛と同じ単語です。ヨセフを形容するのにふさわしい動物です。金の子牛についてもあてはまりますが、当時雌牛が神として拝まれていたことから(ウガリト語文献)、敬虔なユダヤ教徒たちが元来の「雌牛」を「豊かな」という形容詞の読み方に変えて言い伝えたという経緯が推測できます。

ヤコブにとってヨセフを「雌牛の息子」と呼ぶことは、愛妻ラケルを「雌牛」として最大限称える行為でもありました。子どもを産みにくい体質のために苦労をしていたラケルに対するねぎらいです。そしてヤコブとラケルが初めて出会ったのは「井戸」のそばでした(29章10節)。「泉に接する雌牛」とはラケルのことです。「娘たち」はツェロフハドの五人娘を指すと考えます(民数記27章)。彼女たちは「女性が土地相続できない」という壁を乗り越えたのです。女性の貧困に対する解決は一夫多妻という庇護ではなく同じ権利の賦与です。

23節はヨセフが兄弟たちから暴行を受け、服を剥ぎ取られ、エジプトに売り飛ばされた事件を指すと解します(37章)。「矢の所有者たち」はヨセフの兄弟です。彼らの暴力の根源に嫉妬からくる憎しみがありました。24節は、その苦境にもかかわらず、ヨセフが神の守りによって生き延びたことを指すと解します。ヨセフの「弓が常の状態に留ま」ったということは、彼が武器を取らなかったという意味でしょう。ヨセフは暴力に対して暴力で自衛や報復をしませんでした。救いはただ神から来たのでした。

「ヤコブの勇者」はヤコブと共にいる神のあだ名です。「イサクの畏敬」(31章53節)、「アブラハムの盾」(15章1節)など、この親子三代は神に固有のあだ名を付けています。それは個々の神理解の鏡です。アブラハムにとって神は護ってくださる方です。イサクにとって神は恐るべき方です。ヤコブにとって神は敵を打ちのめす方です。ヤコブの信じる神が、ヨセフの行く手を妨げるエジプト人たちや兄弟たちを次々と素早く打ちのめしていったというのです。それはエジプト人の忌み嫌う羊飼いの投げる石による攻撃に喩えられます。実際には、夢解きという知恵・預言、対話的試験という知恵・教育です。

25‐26節は、「モーセの祝福」と重なり合っています(申命記33章13・15・16節)。これを参考にすると25節の天よりの祝福と深淵よりの祝福が、水分の豊かさを表していることが分かります。出産のイメージとあいまって五穀豊穣が祈願されているのでしょう。ユダの「雌獅子」(9節)やイサカルの「ろば」(14節)と同様深淵も「伏せ続けて」います(25節)。王朝を築いた部族にだけ用いられている動詞です。

「わたしを産ませた者たち」(26節)は直訳です。多くの翻訳はギリシャ語訳に従い「山々」と読み替えます。しかしヤコブの自負ととれば直訳でも意味は通じます。ヤコブの勇者の方が、イサクの畏敬やアブラハムの盾より強いのだ。ヤコブらしい負けん気が出ています。

これらの諸祝福(彼女たち)が、ヨセフの頭となり冠となるとヤコブは言います。「ナジル人」は頭に剃刀をあてたことがない人々です(士師記13-16章のサムソン物語参照)。それが聖別され神に捧げられた誓願の証となります。ヨセフはエジプト官僚なので、兄弟の中で唯一頭も顎も頬も剃り上げています。髪のないヨセフだけ、諸々の祝福がまとわりついて髪となり冠とされている、特別なナジル人だというのです。パンチの効いた言い回しです。

 これら全体を通すと、ヤコブがラケルとヨセフを選り好みしていたことがよく分かります。「ヤコブの勇者」を持ち出しているのもヨセフに対してだけです。エフライムとマナセに対する言葉よりも、具体的でいくつかの場面を想起させる、生き生きとした表現です。人を褒めるときには具体的な言葉が良いでしょう。そして、神を自分で特徴づけることも、私たちには許されているのでしょう。人間理解・神理解に示唆を与える遺言です。私たちはイエス・キリストをどのような神としてイメージしているでしょうか。自分の人生を切り開く方、恐るべき方、自分を守ってくれる方。神をどう理解するかが隣人をどう理解するかに関わります。多様な神のイメージを持てば持つほど、わたしたちは多様な人々と隣人になれるのです。

27 ベニヤミンは狼。彼は引き裂く。かの朝に彼は餌食を食べる。またかの夕のために彼は獲物を分ける。」

 ヨセフに比べてベニヤミンへの言葉は短いものです。このことはベニヤミンがヨセフと同じラケルの息子であることや、後のベニヤミン部族の重要性を考えると奇妙です。ベニヤミン部族から初代王サウルが登場し、後に大預言者エレミヤも生みます。「伏せている」狼と評されないのは奇妙です。北の十部族でありながらも、北王国滅亡にもかかわらずベニヤミン部族は生き延びました。南北の間という独特の地位です。さらにはパウロもベニヤミン部族出身です。

 ヤコブの遺言は、士師記19‐21章のベニヤミン部族の蛮行だけを預言しているように思えます。ベニヤミン部族の一部が、ユダ部族の一人の女性に集団で性暴力を犯したという事件です。伏せていない狼に喩えられているベニヤミンは、被害女性から見た加害者たちの姿そのものです。このベニヤミンの蛮行に対して他の十一部族が報復をし徹底的にベニヤミン部族を攻撃しました。ベニヤミン部族はこの内戦で人口が極限まで減ったことが記されています。

 唯一自分で命名したことやベニヤミンを可愛がっていたこと、またこれからベニヤミン部族が大きな仕事をすること等を、ヤコブは無視します。ただ一点の悪への裁きに集中するのです。人間の評価は、ただ一つの出来事によって決まることがあります。過去どんなに善い行いをしても、どんなに将来性があっても一つの悪事ですべてが判断されます。神が正義の神だからです。

28 これらの全てがイスラエルの諸部族、十二。そしてこれが彼らのために彼らの父が語ったもの。つまり彼は彼らを祝福した。彼の祝福のようである各人。彼は彼らを祝福し、 29 彼らに命じ、彼らに向かって言った。「私自身が私の民に向かって集められつつある。あなたたちはわたしを私の父祖たちに向かって葬れ。ヘト人エフロンの畑にある、かの洞穴に向かって。カナンの地におけるマムレの顔に接するマクペラの畑にある、かの洞穴の中に。それはアブラハムが埋葬の土地用に、ヘト人エフロンから、かの畑と共に買ったものなのだが。 31 そこへと彼らはアブラハムを、また彼の妻サラを埋葬した。そこへと彼らはイサクを、また彼の妻リベカを埋葬した。そしてそこへと私はレアを埋葬した。 32 購入された物は、かの畑とその中にある洞穴。ヘト人の息子たちから(購入)。」33 そしてヤコブは彼の息子たちに命じることを終え、彼の両足をかの寝台に集め、息絶え、彼の民に向かって集められた

 ヤコブは初めて息子たち全員に祝福を授けた族長です。「彼は彼らを祝福した」は二回強調して語られています(28節)。その祝福は個々の息子たちの個性に合わせています。個々の息子たちだけではありません。「部族」という単語を用いているのですから十二部族の歴史についての預言でもあります(28節)。驚くべきことは、十二人の息子たちを祝福したその日にヤコブが死んだということです。28節と29節はつながっています。一人ひとりに祝福を語った後、全体に向けてヤコブは真に遺言らしい言葉を語ります。それは以前ヨセフに根回しをしていた願いです。エジプトに埋葬せず先祖伝来の墓に埋葬して欲しいという遺言です(47章29-31節)。ヤコブがそこに妻レアを埋葬しているからです(31節)。そして言葉を言い終えた直後に、子どもたちに囲まれながらヤコブは息を引き取ります(33節)。

この部分の鍵語は「自分の民に向かって」「集める」です。アブラハムもイシュマエルもイサクも同じ「集められる」という言葉で死が報告されています(25章8・15節、35章29節)。死は「自分の民に向かって」召集されること、「洞穴に向かって」の埋葬は「そこへと」集められる象徴です。そこでは宴会が催され、アブラハム、サラ、ハガル、イシュマエル、イサク、リベカ、ラケル、レアらがいます(ルカ13章28節)。教会もこの信仰を受け継ぎました。集められる喜びによってわたしたちは人生を最終的にまとめるのです。

ヤコブは自分の足を集め人生を総括しています。「他人の足を掴んで生まれ、動く方の足で歩き続け、動かない方の足を引きずり、この足のゆえに神に背負われた人生だった。エジプトで死ぬことは先祖や兄には申し訳ない。自分のわがままのせいで苦労をかけた妻たちにはお詫びしたい。しかし子宝に恵まれ最後に息子全員に声をかけることができ、子らに囲まれて死んでいく。自分は実に幸せな人生を送った。ヤコブの勇者が呼び集める食卓を共に囲みに行こう」。

今日の小さな生き方の提案は、ヤコブを真似ることです。ヤコブは評価の分かれるアクの強い人物ですが死に際は見事です。それぞれの妻や子どもに対して味のある言葉を残し、祝福を十二倍に広げています。そして地上に何も言い残さないで、まったく後悔せずに神の呼び集めるところに帰ったのでした。ヤコブにとって神は人生の困難を撃破していく方でした。動く足をねぎらい、動かない足を愛おしみ、両足を集めながら、多くの人を押しのけながらも神と共に歩んだ人生を神に感謝しています。わたしたちは人生の困難を小さな石で撃破してくれる神を真に信じているのでしょうか。神が働かないなら自分がもがく。ヤコブは共なる神と人生と葛藤し続け生き抜いたのでした。