ユダヤ人の王なのか ルカによる福音書23章1-5節 2018年10月28日礼拝説教

ピラトという人物は後26-36年の11年間、属州ユダヤの総督を務めたローマ帝国の行政官です。ピラトは頑固で思いやりのない人間と聖書外資料において言われています。総督就任直後にエルサレムにローマ皇帝像のついた軍旗を持ち込んで、ユダヤ人たちの感情を害したという逸話も残っています。ユダヤ人を挑発し、ローマの軍事支配をみせびらかすためにしたのでしょう。

このようなピラトの人となりは、ルカ福音書13章1節に報告されている事件ともうまく合致します。「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた」。ピラトはガリラヤ人を何らかのかたちで殺害したことがあります。いけにえという言い方からエルサレム神殿で犠牲獣と一緒に殺したのかもしれません。神聖な場所における蛮行です。ルカ福音書は、ピラトがナザレのイエスというガリラヤ人も殺しうる残忍な人間であるということを、予め読者に知らせていました。

「民の長老会、祭司長たちや律法学者たち」(22章66節)も、ピラトがガリラヤ人を殺したことを覚えています。ピラトという残酷なローマ人の代官ならばイエスに対する死刑判決をすんなりと出すだろうという思い込みが、彼らにあります。「全会衆」(1節)とありますが、この人々は群衆ではありません。直訳は「彼らの集団のすべて」であり、この人たちは大祭司宅で裁判を行った最高法院の議員たちのことです。議員たちが連れて行った方が文脈に素直です。議員たちは朝、ローマ総督ピラトの官邸にイエスを連れて行き、即日裁判を開くようにと要求したのでしょう。非常に急な要請です。

ピラトからすると面倒くさい案件です。ただしここでユダヤ植民地政府との関係がこじれるのも困ります。それが失点として、ローマ皇帝に評価されるかもしれません。だから彼は門前払いをしません。一応最高法院議員たちの訴えを聞き、イエス本人との尋問も行うこととしました。ユダヤ人植民地政府に嫌われていることはピラトもよく知っています。この辺りは、「やもめと裁判官の譬え話」(18章1-8節)とも似ています。「神を畏れず、人を人とも思わない裁判官」であるピラトは、余計に面倒なことになると判断したので、最高法院議員たちの訴えを聞くことにしたのでしょう。

ピラトの願いはただ一つ、うまく立ち回ってなるべく長い期間ローマ総督として在任し、属州ユダヤの富を吸い上げることです。そのためならば、アメでもムチでも使い分けるのです。利潤の追求のための無難な問題処理こそピラトの行動原理です。だからピラトは死刑の濫発も避けたいと思っています。人気の高い人物を殺害することで、植民地民衆の反ローマ感情が増すことも、自分の失政と皇帝に評価されてしまうかもしれないからです。

最高法院議員たちの主張はこうです。「①この男がわたしたちの民をゆがめていること、②皇帝に税金を納めるのを禁じていること、③自分が王・キリストであると言っていることを、わたしたちは見出しました」(2節私訳)。最高法院が発見したと言っている三つのことは告訴の理由となりえるのでしょうか。

①イエスはユダヤ人をゆがめているのか。むしろ逆かもしれません。神の民であるユダヤ人を「わたしたちの民」と理解している権力者たちの方がゆがんでいます。神の民・神の子らを扇動して、神の子イエスを殺そうとしている議員たちが、民をゆがめて誤導しています。いずれにせよ、ローマ人ピラトにとっては興味のない論点です。ユダヤ人内部の「神学議論」だからです。

②イエスは皇帝に税金を納めることを禁止しているのでしょうか。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(20章25節)とイエスは言いました。この言葉は皇帝への税金を禁止してはいません。むしろ、納税を奨励しています。ピラトはイエスの発言を知っていたのかもしれません。虚偽の訴えと知っているから、この点も告訴理由にならないとして、ピラトは無視します。

③イエスは「わたしが王・キリストである」と言っているのでしょうか。福音書には一切そのような記事はありません。「あなたはキリストである」とペトロが言ったことはありました(9章20節)。さらに遡ると、「あなたは神の子です」(4章41節)と悪霊は言い、「あなたは神の聖者です」(4章34節)と汚れた霊に取り憑かれた人は言いました。キリストであるということをイエスは自分では言いませんでした。

さらにイエスは「キリストはダビデの子(ダビデ王家の子孫)である」と考えていません(20章41-44節)。人々はイエスを「ダビデの子」と呼びました(18章38節)。人々は、「イエスは王・キリストである」とみなしていました。しかし、イエスは自分からそのような発言をしたことはありません。

イエスを神の子・聖者・救い主・王と告白するのは、常にイエスに出会った人々であり、特に「敵」とみなされるような人々です。「わたし(がそう)であるということを、あなたたちは言っています」(22章70節)。

ピラトが唯一関心を寄せたのは、イエスが「ユダヤ人の王」と自称しているのかどうかということです。この点はローマ帝国に対する反乱罪を構成する要件となります。もしこの点がはっきりしているのならば、ピラトはイエスを処罰しなくてはいけません。反乱を企てている人物を放置することは、明確に失政だからです。民をゆがめることや、税金の滞納を促すことよりも、「ユダヤ人の王」を自称することの方が重大です。

「ユダヤ人の王」はユダヤには久しく存在していません。ヘロデ大王の息子アルケラオス以来、30年ぐらい「ユダヤ人の王」はいません。ヘロデ大王を「ユダヤ人の王」としたローマ帝国がその子孫には王と名乗ることを許さなかったのです。ユダヤ地方はローマ総督が直接支配し、それ以外の地方はヘロデの子孫たちが「四分封領主」という名前で統治を許されていました。「ユダヤ人の王」を名乗ることは、民族自決を求めるユダヤ人たちの反乱の首謀者になることを意味します。「ユダヤ人の王」はローマ帝国からの独立の指導者なのです。

そこでピラトはイエスに問います。「あなたが、あなたこそがユダヤ人の王ですか」(3節)。イエスは答えます。「あなたが、あなたこそが言っています」(3節)。イエスは、自分から「わたしがユダヤ人の王です」とは言っていません。皮肉たっぷりに、「わたしがユダヤ人の王であると、あなたが言っている」と言うばかりです。22章70節の問答と同じです。22章70節においては、最高法院議員たちは、これこそ自白だと決めつけました(22章71節)。

しかしピラトは異なりました。これは自白とは言えないと考えました。なぜならイエスは、「あなたが言っている」と言っているからです。文字通り彼は自分からユダヤ人の王とは言っていません。「わたしはこの人間の中に事由(告訴理由)を見出せません」(4節)。ルカ福音書は慎重に宗教用語の「罪」(ハマルティア、「的外れ」の意)を用いずに、一般的な単語「事由」を使っているので、新共同訳のように「罪」と翻訳しない方が良いでしょう。ユダヤ人議員たちが告訴理由を三つ見出したと言っている一方で、ローマ総督ピラトは一つも告訴理由を見出せないと言っています。

残忍な人間であるピラトはなぜ慎重だったのでしょうか。イエスという人物をここで殺すのが自分にとって得になるか損になるか、ピラトは天秤にかけています。告訴理由も無いのに殺した結果、イエスについてきた者たちが暴徒となってローマ帝国に反乱をしては困ります。ユダヤの最高法院がどうしても殺したい人物をあえて生かした結果、最高法院がローマ皇帝に変な告げ口をするのも困ります。なるべく長く植民地の富を吸い上げるためには無難に難局を切り抜けなくてはいけません。

議員たちは猛烈な勢いで反論します。「彼は、ユダヤ全土、すなわちガリラヤから始めてここに至るまで、教えながら民を撹乱しています」(5節私訳)。「ユダヤ人の王」とは自称していないけれども、実態はユダヤ全土でローマ帝国に対する独立戦争を準備している人物であると、議員たちは力説します。ピラトが反応しやすいように「ガリラヤ」という単語も散りばめています。

ローマ帝国軍もエルサレム神殿を占拠して毎日教えている宗教者をすでに把握していたと思います。ナザレのイエスは、治安上問題なしと確認されていたのではないでしょうか。「皇帝のものは皇帝に」と言っているようだし、武装集団ではないとの情報は、ピラトの部下・ローマの百人隊長は持っていたように思えます。ピラトからするとガリラヤ人をもう一人殺すことにはためらいがあります。さらに不人気にもなるからです。

自己中心の裁判官も、自分のためにやもめに親切をしました。自己中心の裁判官であるピラトは、何が自分のためになるのかが分からなくなって困っています。イエスを殺すことも、イエスを助けることも、どちらも自分のため(富や地位の確保)にはならないように思えるからです。

イエスに死刑判決を出したピラトは、後に同僚から皇帝への告げ口により総督を辞めさせられます。ローマに帰る道で自決させられたかは不明です。少なくとも二度と出世コースには戻れませんでした。どうせ告げ口で失脚することが分かっていたならば、ピラトは裁判官としての職業倫理に従って、イエスを「ユダヤ人の王と自称しローマ帝国からの独立を企てた」という訴えを棄却して、無罪放免するべきだったのです。あるいは、「ちょっと待て。もう少し考える時間をくれ」と言ったり、判決を出す前に辞めたりしても良かったのかもしれません。富・地位への執着が彼の良心を曇らせました。

今日の小さな生き方の提案は、道の選択や事柄の判断に困ったときは自分の良心や職業倫理に従うということです。二つの道の選択に迷っても、第三・第四の道もあるかもしれません。その道は今までの価値観からすれば自分の益にならない道かもしれません。それでも後悔は減ります。祈るとは自らの良心に気づくための神との対話です。分かれ道に立って祈りましょう。